18
全速力で走ってきたためか、ミハエルの息は少々荒れていた。しかし、その心が複雑怪奇な状態に陥っているのはそのためではない。
それもそうだろう。何せ、あの飄々とした青年が怒りを顕にしている、などという状況は彼にとっても珍しい自体なのだから。
「……アルヴィン。色々と言いたいことがあるが、まずはその少年から離れろ」
「それは、命令ですか?」
「ああそうだ」
即答するミハエルにアルヴィンは大きなため息をついた。そして両手を上げながらゆっくりと少年から離れる。その姿から先程までの殺気が霧散しているのを確かめた後、ミハエルは誰れでもいいからと言わんばかりな口調でいい放つ。
「それで。これは一体どういうことだ? これだけ暴れていたんだ。何でもない、などという言い訳は通用しないぞ」
アルヴィンと少年が争った後は庭を相当荒らしまわっていた。これで何もなかったという方がおかしな話である。
この屋敷の主として放っておくわけにはいかない。
「あんたが、ここの主か」
「……彼は?」
その問いにクロエが静かに答える。
「マリー様のご友人である、ヤマト様でございます」
「……何?」
その時、ミハエルは自分がどんな顔をしているのか、全く想像できていなかった。
目の前にいる人間が、例の異世界からやってきた少年。そして、マリーが想いを寄せている人物。そして状況から判断するに、彼の周りにいる少女達もまた、マリーの仲間、と考えるべきだろう。
ヤマトの顔を見たミハエルの感想はなるほど、というものだった。確かに顔立ちも凛々しく、体格も細身ながら良い体つきをしている。美男子、とまではいかないが、マリーが惚れるのも納得できるというものだ。こんな少年と比べれば、ミハエルのような大男など眼中にないのも頷ける。
と、勝手に納得しているとヤマトは口から出ている血を袖で拭きながらミハエルに言う。
「俺達はマリーに会いに来たんだ」
「マリー殿に?」
「ああ、アンタから救いだすためにな」
その言葉にミハエルは疑問を浮かべる。
今、彼は何と言った?
自分からマリーを救い出す?
「それは、どういう……」
「知らばっくれるな!! この結婚がマリーの意思に反しているってのはもう分かったんだよ!! 俺達はそんな間違ったやり方からアイツを助けるためにここに来たんだ!!」
「テメェ……まだそんなふざけたことを……!!」
「待てアルヴィン……彼の話を聞こう」
再び殴りかかりそうになったアルヴィンを制止するミハエル。それに対し、不満だったのだろうがしかし主の命令とあらば逆らうわけにはいかない。アルヴィンはそのまま下がった。
「さて、ヤマト君、だったな。君の願いはマリー殿を助ける、と行っていたがそれはどういうことだろうか」
「どうもこうもない。俺達はマリーをここから連れ出す。そんでもってマリーの実家の人を説得する。こんな結婚やめてくれってな」
「こんな結婚、か……」
確かに彼らからみればこの結婚は認められないのだろう。自分の友人であり、仲間でもあるマリーが無理やり結婚させられそうになっている。それを聞いて黙っていろ、という方がおかしな話なのだ。
そう考えれば彼らから見てミハエルはとんだ悪人に見えるに違いない。実際、自分の意思ではなかったにしろ、自分はマリーに対してひどいことをしてしまったのだから。
「家の事情とかそんなこと関係ない!! 本人の意思を無視するなんてこと、あっちゃいけないだろう!! アンタも人間ならそれくらいのこと、わかってるだろう!?」
ああ、分かっているとも。
そもそも結婚というものは本来、そういうものなのだ。本人達の意思。それが合意した上で行われなければならない。政略結婚が当然になった貴族社会でそれを謳うのは困難ではあるが、しかしだからと言って当たり前のことを忘れてしまっては元も子もない。
少なくとも目の前にいる彼はそれを忘れていない。むしろ尊重している。
そしてこう言っているのだ。
お前は間違っている、と。
そして自分は正しいのだ、と。
そして客観的視点から見てもその通りであることは明白だった。
「なるほど。君の意見は分かった。だが、仮にマリー殿を私から助け出したとして、その後はどうする?」
「さっきも言っただろう。マリーの実家に言って説得するって」
それはあまりにも無謀である。
マリー実家、つまりはゼルドを説得すると彼は言っているのだ。けれど、相手はあのゼルドだ。こんな貴族として恥さらしのような出来事を許すとは到底思えない。そもそも、彼はヤマトとマリーが接近するのを危険視したために今回のような強引なやり方を取ったのだ。その元凶であるヤマトの言うことを素直に受け入れるとは考えられない。
「それが失敗した場合、どうする?」
「失敗なんかしない! 必ず成功させてみせる!!」
その自信は一体どこからくるのだろうか。
「時間はかかるかもしれない……でも、間違ったことを放っておくことなんて誰にとっても良いことなんてないだろう! 例えこのままアンタとマリーが結婚したとして、アンタは胸を張って自分は幸せだと言い切れるのかよ!! 何の後暗さもないっていうのか!!」
それは。
それは、ミハエルにとって今一番心に刺さる一言だった。
そうだ。そうなのだ。結局のところ、このままマリーと結婚できたところで、ミハエルは何の後悔もないのだろうか。ああ、そうだとも。ミハエルがマリーを好きな気持ちは今も変わらない。それについては何の後悔もしていない。けれど、それはミハエルだけの話だ。では、マリーはどうだ? 彼女は自分が好きだと決めた相手から引き離され好きでもない男と結婚させられる。後悔、なんて言葉では済まされない気持ちを一生抱えて生きていくことになる。
そんなものを自分は彼女に背負わせるつもりなのか。
そんなことをして罪の意識はないのか。
無論、答えは否。そんなことはない。
好きな女性が苦しみながら生きていく。それを強いる程、ミハエルという人間はクズでも下衆でもない。けれど、結果的にはそうなってしまうのだ。
つまり、結論を言えば。
マリーが幸せになるにはミハエルと結婚してはならない、ということだ。
ならば、ならば、ならば……。
この少年にマリーを預けることこそが、彼女を想う人間として正しい行動なのではないだろうか。
そんな疑問が頭を過ぎった頃、ヤマトが言う。
「とにかく、マリーに会わせてもらうぞ。どうしても邪魔するっていうんならアンタを倒してでも……」
「その必要はありませんわ」
それは突然だった。
凛とした声音はそこにいる全員の視線を奪う程のもの。そして、同時にその声はここにいる全員が聞いたことのあるものだった。
「マリー!!」
「マリー殿……」
そこにいたのは寝巻きにコートを羽織ったマリーだった。恐らく、ミハエルの後を追ってここに来たのだろう。
彼女はヤマトの方を見ながら挨拶の言葉を口にする。
「お久しぶりですね、ヤマト様。それに皆様も」
「お久しぶりですねって……ちょっとあんた、何普通に挨拶してんのよ!! こっちがどんだけ心配したと思ってるの!!」
「そうですまりーさん。何も言わずにわたくし達の前からいなくなるとはどういうことですか?」
「……無事で良かった」
少女達は各々マリーに告げる内容はどれも彼女を心配してのものだった。それに対し、マリーは苦笑を浮かべながら言う。
「突然の話でしたもので。皆さんに別れの挨拶もしなかったことは本当に申し訳なく思っていますわ」
謝罪の言葉は彼女の本心なのだろう。
しかし何故だろうか。
ミハエルには今の彼女がどことなく無理をしているように見えるのは。
「マリー」
「ヤマト様にもご迷惑をおかけしてすみませんでした」
「いや、そんなことはいいんだ。俺は、お前と話がしたかったんだ」
「話、ですか。なんのことでしょうか」
「なんのことじゃねぇよ。この結婚についてだよ」
切り込むヤマトに対し、マリーは表情を一切変えない。
けれどもヤマトの言葉は続く。
「お前、こんな結婚、本当は嫌なんだろう? 勝手に親に決められて、それで仕方なく従ってるんだろう? そんなの……そんなのあんまりじゃないか。好きな人と結婚できないのが貴族。何だよそれ。そんな決まりごとなんて、俺は知らない。知ったことか。俺は友達がそんな奴と結婚して辛い目にあってるのを黙って見ていられないんだ」
だから。
「マリー。俺達と一緒に来い! 後のことは俺が、俺達が何とかしてみせる。お前の両親に頼み込んでやるさ。お前の意思を尊重してくれって。大丈夫だ、きっと聞き入れてくれる。それがお前のためだって理解してくれるさ。だから……」
一緒に来い。
手を差し出すその姿は正しく彼女を連れ去りに来た騎士。彼女を守るために体を張ってまでここまで来たその勇姿は賞賛すべきものなのだろう。
ああ、分かっている。マリーがこの後、どうするか、なんてことは。
マリーを助けようとここまで来た彼ら。その行動を無碍にすることなど彼女にはできないはずだ。
(……これで、良かったのかもしれない)
ふと、そんなことを心の中で呟いた。
ああ、そうだとも。貴族である自分には彼のような真似はできない。マリーのために周りを気にせず、ただ思いに忠実に動くことなどできない。自分はあくまで貴族。その範疇を超えることはできないし、してはならない。結局、自分はマリーのために貴族という立場を捨てることができないのだ。
そんな男と目の前にいる少年。どちらが彼女にとって幸せなのか。そんなこと言うまでもない。
仮にマリーの恋が成就しなくても、それはそれでいい。今、ここで自分と結婚をするという選択肢をするよりかは遥かにそちらの方が彼女にとっては良い未来が待っているはずだ。
「マリー!」
「マリーさん」
「……マリー」
彼女の名前を呼ぶ三人の少女達。そうだ。ミハエルと一緒になればマリーは彼女達からも引き離されてしまう。友人を仲間を失ってまでする価値がこの結婚にはあるだろうか。
いや、そもそもミハエル・B・ブラッドはマリー・R・トワネットにとってそこまでする価値があるのか?
そんなものは問うまでもない。
分かっている。理解している。納得している。
けれど……どうしてだろうか。ミハエルの心の中には……悔しさが渦巻いていた。
「さぁ、マリー」
再度マリーの名前を呼ぶヤマト。
そんな彼の手にゆっくりと自分の手を差し出す。
そして――――――その手を叩いた。
「お断りします」
「……え?」
その言葉はヤマトではなく、ミハエルのもの。ヤマトは信じられないと言わんばかりな表情を浮かべており、他の三人だけでなく、クロエもアルヴィンも同様だった。それだけ今、彼女が取った行動、そして言葉は予測不可能だったのだ。
「ま、りー……お前、なんて……」
「ですから、お断りします、と申し上げたのです。聞こえませんでしたか?」
「あ、アンタ、何いってるのよ!! 正気!?」
「どういうつもりですか、マリーさん」
「……、」
どういうつもりなのか……正しくその通りだ。彼女は一体、何を考えているのだ?
彼らはマリーを助けにここまで来た。そして、マリーはこの結婚を望んでいない。極めつけにマリーが好きな少年が目の前にいる。それは本当のことだ。そのはずだ。これだけの条件が揃っている中で、どうして彼女はそれを突っぱねたのだ?
そんなミハエルの疑問など誰も知る由もない。それはもちろん、マリーもだ。
彼女は真剣な眼差しを向けながら続ける。
「正気? どういうつもり? それはこちらの台詞ですわ。あなた方は一体何をしているのですか。四大貴族の屋敷に忍びこむなんて何を考えているのですか。私を助けに来た? 何を馬鹿なことを言っているのですか。そもそも私がいつ、あなた方に助けて欲しいと頼みました?」
「そんなの言われなくても……」
「分かる、と? だとしたらそれはとんでもない誤解です。私がここにいるのは、誰かの意思ではありません。無理やり結婚されそうになっているだとか、この方に脅されるなどということは決してありません」
強く断言するマリーはヤマトの傍を離れ、ミハエルの元へとやってきた。
そして、何の前触れもなく彼の腕に組み付いた。
「私はこの方―――――ミハエル・B・ブラッド様の妻になると自分で決めたのです」
唖然とする一同。恐らく、彼らはマリーがこんな答えを返してくるとは夢にも思っていなかったはずだ。当然、ミハエルも同様である。
「(マリー殿、何を……)」
「(少し黙っていてください)」
他の誰にも聞こえないような言葉を告げたと同時、ミハエルを掴む腕に力が入る。
「(……お願いします)」
その小さな一言が震えていたのは気のせいではない。
声だけではない。近くで見なければ分からないが、今の彼女は小さく、ほんの小さくではあるが震えていた。まるで何かの恐怖に耐えるかのように。
そして、そんな状態なマリーに彼女たちは言う。
「アンタ……それ本気で言ってんの!?」
「ええ、本気です。そもそもこの方は四大貴族の当主であり、『ブラウ』の領主。地位も名誉も、そして人徳もある人です。そんな方との結婚をどうして嫌がると思うのですか?」
即答するマリーに桃色の髪の少女は目を見開き、そして激高し、殴りかかるかのように前へ踏み出す。
「アンタって女は……!!」
「落ち着いてくださいティナさん」
しかし、そんな彼女を銀髪の少女が制止する。けれど、彼女も思うところがあるのだろう。きっと睨みつけながらマリーに問う。
「マリーさん……貴女はそれで本当に良いのですか?」
「では逆に聞きます、セイラ様。これ以上良い縁談があると思いますか? それより人の心配をしている場合ではないでしょうに。仮にも王族である貴女がこんなことをして、どうなるか分かっているのですか?」
「それを承知の上で、わたくしは今日ここに来ました」
「そうですか。では、とんだ無駄足になりましたね」
それだけ言うとセイラは何も言わなくなった。もう何を言っても無駄、だと思ったのだろう。
「……、」
先程から何も言わない小さな少女はこの場面でも言葉を発っそうとはしなかった。ただ、何かを確認するかのようにマリーを見つめていた。
そして、何より一番驚いているであろう黒髪の少年・ヤマトは未だ呆然というような表情を浮かべている。
「マリー……」
「お帰り下さい。今ならば私が旦那様に取り次いで今回の件を無かったことに致します。ですから、どうか……」
私の幸せを奪わないでください。
その一言は、きっとヤマト達に向けられたものだったはず。事実、その一言によって彼らは完全に意気消沈し、気力を失った。助けに来た本人がこの様子ではもはや闘うことも抵抗することも意味がないと悟ったのだろう。
その後は衛兵に彼らの身柄を拘束させた。一応、これだけのことをしでかしたのだ。このままとはいかない。
これで事件は一件落着。けれど全くめでたい幕引きではなかった。
そして何よりもミハエルの心を抉ったのはヤマトが来たことでも、マリーが自分に好意を向けていないと分かったことでもない。
最後のあの言葉。あれは自分に向けられたものではないか。
それは恐らく思いすごしではないだろうと確信しながらも彼は結婚式当日を迎えたのだった。




