序
「胃が痛い」
「主様、そのようなお顔で言われても全く危機感が伝わってきません」
体調不良を訴える主の言葉に黒髪長髪の女給仕は無表情のまま答えた。実際、彼女の言う通り後ろにいる主らしき男の表情は言葉とは裏腹に威厳が保たれていた。さらに大柄な体格で身長は百八十を有に越しており、それだけでも近づきがたい印象を他者に与える。
顔に感情があまり出ないことについてはお互い様なのでは……という言葉は心の中で呟くがしかして口には出さない。そんな日には小言という名の説教が延々と続けられる未来が視えたからだ。
「未だに緊張されてらっしゃるのですか?」
「無論だ」
「即答ですか」
「自分の結婚相手と会うんだぞ? 誰だってそうなると思うが」
「ブラッド家の当主様がそのようなことでどうしますか。いつものようにドンと構えていてください」
言われるも男―――ミハエル・B・ブラッドはその言葉に頷くことはできなかった。
応接間に待たせてある女性。彼の結婚相手になる人がそこで待っている。今日は彼女と初めて会う日であり、今日から彼女はミハエルと共に屋敷で暮らすこととなっていた。
結婚相手に今日初めて会う、ということに疑問を持つかもしれないが、実際この結婚はかなり急なものである。ミハエルの後見人である祖父ゲイルと相手の両親が勝手に進行し、結果今日に至る。つまりは政略結婚というわけだ。
「ご不満ですか? 政略結婚という形式が」
「そんなわけがないだろう。これでも私は貴族の端くれだ。自らの結婚が政略的なものになることは当の昔に覚悟はしていた。どんな相手であろうと愛すると決めていた……いたのだが」
「……もしや相手の方の年齢を気になされているのですか?」
言われてうっ、と反応してしまうミハエル。
図星であった。
「……聞くところによると、相手は十七という話じゃないか。去年三十になった私とはあまりに年齢が離れていないか?」
「何を仰るかと思えばそんなこと。いいではありませんか。女は若い方が良いに決まっています。抱きがいがありますし、成長する過程を楽しめますよ」
「女性の発言として今のはどうかと思うぞ」
「事実です。そもそも貴族の女性の方としては的確な時期でしょうに。それとも高齢者の方が好みでしたか?」
「そういうわけではないが……」
「それに年の差などそれこそ貴族間では珍しいものではありません。中には生まれたばかりの赤ん坊と婚姻をするご老体もいるのですから。十や二十、離れていても何ら問題はありません」
給仕の言葉は何も間違っていない。今のこの国で結婚している貴族夫婦の年の差が一回り違うなどざらなことだ。それはミハエルも知っていることであり、実際そういう知り合いもいる。それに嫌悪感を抱くことも疑問を感じることも無かった。
だがそれがいざ自分の話になるとこれはまた別の話になってくる。
未だ悩む主に対し給仕は続けて言う。
「心配ありません。先程案内した時にお顔を拝見させてもらいましたが、中々の美人でした。中身はともかく、外見は一品と見て間違いないかと」
「余計な一言が混じっているぞ。何だ、さっきから刺がある言い方だが君の方こそ気に入らない点でもあったのか?」
「滅相もございません。ただ女は外見と中身が同じ生き物ではありませんから。しかし安心なさってください。もしもの場合は私が徹底的に『教育』させていただきます」
「その言葉に何やら不穏な意味合いを感じるのは私の気のせいか?」
「失礼。言葉を間違えました。正確には『調教』させていただきます」
「先程よりもさらに悪化しているではないか!」
頼むからやめてくれ、と頭を片手で抑えながら呟くミハエル。それに対し給仕は御意にと同じ様に無表情のまま答えた。
冗談のような会話であるが、この給仕を昔から知っているミハエルには分かっていた。彼女はやると決めたことは必ずやる性格をしている。釘を刺しておかなれば本当に何をしでかすか分からない。
とそんなこんなしている内に二人は応接間の扉までやってきていた。
「失礼します。主様がお越しになりました」
言うと給仕は扉を開けた。
豪華に彩られた部屋にいたのは一人の女性……否、少女。
最初にミハエルの瞳が捕らえたのは先端がくせっ毛なのが特徴の栗色長髪。やせ型な体は未だ発展途上の少女らしい体つきであり、それがある意味彼女そのものを表している。自分のような人間が触れてしまえば消えてしまうのではないか。そんな大仰なことまでもが頭に浮かんだ。
可愛い。綺麗だ。美しい。
そんな単純な言葉では言い表せない。これは何なのだろうか。疑問が逡巡するも、しかしてこのまま無言の時間が過ぎるのはまずいと残った理性が訴えてきた。
「初めまして、マリー・R・トワネット殿。私はブラッド家当主、ミハエル・B・ブラッド。今日からどうぞよろしくお願いします」
簡単な自己紹介。何のことはないどこにでもある言葉。
しかしその言葉に彼は悩まされていた。
他の貴族に挨拶するようにできているだろうか。変なところはないだろうか。いやそもそもにして自分は何を考えているのだろうか。
もはやミハエルの頭の中はパニック状態。
だがそれも次の瞬間、吹き飛んでしまう。
「ええ、旦那様。こちらこそどうぞよろしくお願いします」
首を少し、ほんの少し傾けての笑顔。恐らくではあるが彼女にとってそれは何でもない仕草。誰にでもやっている挨拶であり、何ら特別なものではない。
だが、それが全てのきっかけだった。
ミハエルは常々思っていたことがある。一目惚れとは本当に存在するのかどうか。たった一瞬、顔を見ただけで人は他人を愛することなど本当にあるのだろうか、と。別段馬鹿にしているわけではないがしかし信じられないことも確かだった。
そしてその考えはこの場で改められることとなる。
まぁ、簡潔に、簡単に言うとだ。
ミハエル・B・ブラッドはこの瞬間、恋に落ちたというそれだけの話である。