『青空に咲く白い月』
空が赤く染まりだし、遠くの高層ビル群がその黒いシルエットを浮かばせていた。夕日は満遍なく明かりを残し、キープアウト、立入禁止と書かれたテープの中で作業する男達を包んでいた。
がっしりとした体つきの男の前に、細身の若い刑事が小走りにやって来た。
「先輩、やっぱり事件の手がかりは出てきません。強いて言うなら、遺体の横にあった絵ですが、絵の具が乾ききっていないことがわかりました。絵にはサインが入っていたので、まだ完成して間もないようです。現場からは犯人につながる情報は今のところありません。完全犯罪ってやつですかねぇ。」
「馬鹿か、お前は。事件が起こったからには何かがあるんだ。うだうだ言ってる暇があんなら仕事しろ。」
上司らしいその刑事は、疲れを全身に染み出させている相手に喝を入れるかのように、腹から唸るような声を発した。
「でも……」
「言い訳は聞かねぇ。」
「いえ、そうじゃなくて……、気になる証言はいくつかあるんですよ。」
「そういうことはさっさと言え。」
華奢な男から発せられる頼りない言葉の数々に、上司はいらだちを覚える。いかにも手本になりそうな、しっかりとした部下がほしいと思う。
「はい。事件当日の朝、派手な感じの女性が被害者のアパートに入っていくのを見た、と近所の方が。被害者の加村徹には同じ専門学校に通う彼女がいるらしいんですが、別人のようですね。その近所の方の話では、彼女の方は髪は短め、服装や化粧も爽やかでかわいらしい人だと。被害者と出かける様子なんかも度々目撃していたそうです。」
「で、当日に目撃された派手な女ってのはどんなだったんだ?」
「何と言うか…いわゆるギャルですね。茶色の長い髪に流行りのパーマをかけて……。ヒールの高い靴に露出の多い恰好だったそうです。顔ははっきり見えなかったようですが。」
「他に証言は?」
「被害者の友人の証言ですが、被害者の交友関係も以前は派手だったそうで、その女性は以前から付き合いがあった人間ではないか、と調べています。それと……、直接関係は無いかも知れませんが、加村の…被害者の彼女、三田柚葉が事件のショックで記憶喪失になっていると……。」
「そうか、わかった。やることは山程あるな。よし、気合い入れて働けっ!」
そう言って、ごつい大きな手で若い刑事の背を叩いた。激痛をもらったその刑事は、ぶつぶつと文句を言いながら現場のアパートの一室へ戻る。
その姿を見届け、男は、攻撃的な程眩しい夕日を、鋭く睨み返した。
「何かに、騙されてる気がするなぁ。」
男は白髪混じりの頭を掻きむしった。
学祭が近づき、慌ただしさが増す頃、三田柚葉は友人の森島智美と校内を歩いていた。ランチのために校内のカフェに向かっている。秋晴れの光が心地よい。
二人は同じ演劇科の二年生である。広大な土地を持つこの学校は文化・芸術系の専門学校で、一般的な美術、音楽、演劇などはもちろん、へアイメイクやアニメーションにいたるまで、ありとあらゆる分野を扱っている。もちろんそれに相当する学科があり、自然と人も集まる。何千人という生徒がいる上、学科ごとに個性的な建物がある校内では、他学科の学生と交流を持つことはほとんど無い。それこそ、そんな機会は一年でもっとも力が入る学祭だけといっても過言ではない。
しかし、交流はなくとも、一方的に有名になるケースはあり得る。例えば、三田柚葉。
一ヶ月前に起こった事件、加村徹の死亡した事件である。加村はこの専門学校の絵画科の学生だった。加村を知る知らないにかかわらず、この事実はすぐに広まる。それに加え、様々な話題性が加わり、噂として加速度的に広がっているのである。加村に三田という彼女がいること。三田は事件のショックで記憶喪失になっていること。さらに、事件当日、派手なギャルが目撃されているため、三田は二股をかけられていたと言う話も加わった。結果的には三田の噂となって校内を駆けめぐっている。
噂が加熱する一方、三田は全くそれを気にしていない。気にする理由がない。現に今日も、のんびりとした雰囲気をまとい、自慢の笑顔で平然と校内にいる。友人の森島は、人知れずそんな三田を気遣ってはいるが、たぶんそれすらも三田は気づいていない。疎いわけではない。そこまで森島が気をつけているからである。
ふと三田は森島の髪に目をやる。長い茶色の髪にふんわりとパーマをかけ、お嬢様の森島によく似合っている。
「智美って髪キレイだねぇ。染めたりパーマかけたりしても傷まないし。羨ましい。」
「ありがとう。柚葉だって伸ばしてみたら?ずっとショートでしょ?似合うと思うけど。」
三田は髪を一束つかんで毛先に目をやった。
「駄目なんだよねぇ。あたし、くせっ毛だし、すぐ傷むし。あ、ほら。枝毛発見。それにさ、短いほうが舞台の時、かつら付けるの楽じゃん?」
「それもそうね。」
カフェにつくと思いの外、席は空いていた。芸術系の学校にあるだけあって、おしゃれな雰囲気のカフェは、女子学生で賑わっている。
二人はサンドイッチとスープのセットを頼んだ。
「午後からまた、学祭の練習ね。」
「ロミオとジュリエット……。好きだけどさ、なんか定番すぎないかなぁ。」
三田はサンドイッチを味わう一方、つまらなさそうな顔をする。
「定番だからこそいいんじゃない。それに、私たちはプロ意識を持って演じなきゃいけないの。柚葉は才能があるから簡単なことかもしれないけど、それってとても難しい事よ?誰もが知る悲劇だからこそミスは許されない。完成度の高さが求められるわ。でも、私はそこにやりがいを感じるの。」
森島の言葉は、しっかりと曇り無く紡がれる。彼女の自信家な性格やプライドの高さが見える。
「さすが!ジュリエットの言うことは違うよぉ。あたしも頑張らなくちゃ!」
森島は上品な笑みを浮かべた。その美しさは三田にとって理想のものだった。自分にはないもの。ロミオとジュリエットの配役が決まったとき、多くは、なぜ三田がジュリエットでないのか疑問に思った。それほど、三田の演技力と才能は認められていた。しかし、森島のジュリエットを一番に喜んだのは三田だった。三田はとにかく、自分のことに執着しない。自分の理想とする美を持った人間が、もっとも気高い愛を演じることは、まさに理想の形なのだ。
食事を終えてのんびりと話をしていたら、いい時間になったので、二人はカフェを出た。舞台のある講堂は全く別の建物であり、ここからは少し距離があった。途中で目にする建物は、学科別に造られた専門棟である。どれもデザインにこだわりがあり、建造物というよりはアートと言った方が正しいかもしれない。
しかし、三田はそれらに目もくれず、真っすぐに空を見上げた。あるのは月だった。
「月、きれいに見えるわね。」
「……うん。」
「どうしたの?元気がないなんて柚葉らしくないわ。学祭前で疲れがたまってるんじゃない?」
「ううん、そんなこと無い。大丈夫だよ!ほら、行こう!」
三田は森島の背を押すようにして走り出した。
練習は舞台上の明かりだけをつけて行われていた。そのまぶしい中に主役の二人はいた。高月悠斗と森島智美、ロミオとジュリエット。お似合いの二人を三田は暗い観客席から見ていた。
「高月先輩、智美への愛が丸わかりだね。みんなは演技だと思ってるけどさ。」
独り言をつぶやきながら、思わずにやけてしまう。
高月は森島に好意を寄せている。それを知っているのは三田だけだった。
正直なところ、森島が彼氏を作るというのは想像できない。育ちの良いお嬢様は守りも堅い。その辺の男について行く気がないことは、言葉にこそしていないが、雰囲気で十分と語っている。もちろん、高月に見込みがないわけではない。ロミオを演じるほど演劇の技術は優れているし、容姿も整っている。ファンも多い。
「かっこいいと思うけどなぁ。あたしも、彼氏がいなかったらねらってたかも。」
三田は自分の言葉にハッとする。
「……あたし、彼氏いないじゃん。妄想彼氏かなぁ?違うよなぁ……。まさか、噂の加村って人と本当に付き合ってたとか。……無いよね?」
霧が視界を覆うように、何かが頭の中の一部を隠している気がした。
「柚葉!次、柚葉の出る場面よ。」
明かりの中から森島の声がする。
「はぁい!」
三田は光の照らすステージに上った。
学祭まで一週間を切ったある日、三田と森島はいつものようにカフェでランチを楽しんでいた。今日は少し混んでいたため、外の席についた。幸い、いつもより暖かい日差しが、ちょうどいい具合に当たっていた。
「今日もご飯がおいしいなぁ。」
「ご機嫌ね?何かあったの?」
「なんにもないんだけどね。朝ご飯食べれなかったから、ご飯が幸せでさ。」
「何?ダイエット?」
「まさかぁ。寝坊しただけです。」
「自信満々で言わなくても。」
「あの、ちょっといい?三田さんだよね?加村の彼女の。」
「えっ?」
三田は知らない男子生徒に声をかけられ固まってしまった。代わりに森島が対応する。
「どちら様?」
「えっと、俺は絵画科の喜多川。急遽、加村の絵も展示に入れることになってさ。あいつ、彼女の一番好きなものを描いた絵を展示する、って前に言ってたんだけど、それが何かわかんなくて。良かったら教えてくれないかなぁ?」
喜多川は少し困った表情を浮かべている。
「あれ。」
三田は青空を指さした。
「どれ?」
「あの月。あの白い月。」
「月?」
三田は頷いた。
「あたし、あの月を見るのが日課になってるの。誰かに教えてもらった気がする。夜、いつもみんなが見てるような、目立つ月でも輝かしい月でもないけど、確実にそこに存在してるんだって。空と調和する静かな美しさがあるんだって。それ聞いたらなんだか感動しちゃってさ。だから、あたし、あの月が好きなの。」
「ふぅん。いい話じゃん。」
「ありがと。」
「じゃぁ、月の絵、探してみるから楽しみにしててくれよ。」
「うん。」
三田はそのまま、喜多川の背を見つめていた。
「ねぇ、柚葉、あなた、覚えて……」
「教えて、智美。加村さんのこと。あたしと、加村さんのこと。教えて。」
三田の目には涙がにじんでいた。
「あたし、何も覚えてない。でも、知ってる気がする。」
うつむき加減に話す三田を森島はじっと見つめる。涙を浮かべる三田がそこにいることに胸が痛む。
「いろんなことが引っ掛かるの。最近、月を見てると悲しくなるときがある。ねぇ、これも加村って人のせい?」
「そうよ。柚葉が月を好きになったのは、加村君の影響よ。さっき話してたことも、そう。」
「やっぱり彼氏だったんだ?」
「ええ。羨ましいほど仲が良かった……。」
「何で忘れちゃったんだろう。やっぱ、ショックだったのかなぁ。」
森島は何も言わなかった。
「いろいろ噂されてたじゃん?最初は混乱した。全く身に覚えのないことだと思ってたし。関係あったんだね。どこまでがホントかわかんないけど。嫌な記憶じゃなかったら、思い出したい。絵も見てみたいし。」
「柚葉、無理しなくていいのよ?思い出しても辛くなるだけかもしれないし……。」
「いいの、それでも。思い出さなきゃいけない気がする。覚えてなきゃいけない気がするの。」
柚葉は顔を上げた。
森島の不安も知らずに。
「先輩、加村徹の事件ですが……。」
しばしの休憩と煙草を吸う上司に向かって、その刑事は遠慮無しに話しかけた。まだ長いたばこを灰皿にこすりつける不機嫌な顔が、若手刑事を威嚇した。
「えーっと、あの……加村の部屋にあった絵が、学祭に展示されることになりました。」
「ふん。それで?」
「行きましょう、学祭。もちろん、遊びに、じゃありませんよ。仕事です、仕事。」
「あぁ、直接話を聞くいい機会かもしれないな。」
男の目は怒りとは違う鋭さを宿していた。
「どうしますか?殺人時に着ていたと思われる洋服などが三田の近所で発見されています。しかし、本人との接触は精神的な面を考えて控えるようにも言われていますし。それに、事件現場の近所では森島に似た女性を見たとの証言も……。」
若手刑事は、自分の頭の中の情報を整理しているのか、していないのか、表情をころころ変えながら話している。一方、年上の刑事はその話に耳を傾けることもなく、先ほど火を消したばかりのたばこを見つめていた。
「そろそろ潮時だな。」
たばこから目を離し、目の前の百面相を見据える。
「は?」
「だらだらしてねぇで仕事に戻れ!」
若手刑事はその太い声に押され、慌てて走り去っていった。
青空のもと、校内はあふれんばかりの人々で賑わっていた。学科やクラスごとに個性あふれる企画やステージ、模擬店などが催され、それぞれ違った盛り上がりを見せていた。三田たちの所属する演劇科ではロミオとジュリエットの公演が行われていた。
午前の部が終わり、三田と森島は控え室に戻っていた。三田は、この日のために買い集めた模擬店の引換券をテーブルに並べ、何から食べようか必死になって考えている。定番の焼きそば、たこ焼きなどはもちろん、ケーキや他国の料理などバラエティ豊かなメニューを目の前にして、それを見ているだけでもひとりでに盛り上がってしまうらしい。
「ねぇ、柚葉?それだけ見ててもしょうがないでしょ?空いていそうなところから順番に買いに回ればいいじゃない。私もおなか空いてるんだから。」
「そうだね。紙じゃおなかは膨らまないし。じゃ、ちょっと待ってて。荷物とってくるから。」
三田はあわてて部屋を出て行った。
「本当に元気なんだから。」
三田を動かしている原動力はいったい何なのか、自分には一生かかっても理解できない気がした。しかし、そんな三田に動かされている自分がいることを、森島は知っていた。三田の記憶が戻ることに恐怖を感じる自分がいることも。
背後のドアがノックと共に開けられた。
「柚葉?」
そこに立っていたのは、高月だった。
「三田は?」
「荷物をとりに出て行きましたよ。」
「そうか。」
「どうかしましたか?」
「警察。三田と森島に話があるって……。」
「そうですか。すぐに行きます。でも、柚葉には言わないでおいてくださいね。」
「え?なんで?」
「何でもです。」
森島はほほえんで、部屋を出て行った。
入れ違いに三田が帰ってくる。
「あれ?高月先輩。どうしたんですかぁ?智美ならさっき用事があるってそこですれ違いましたけど?」
「ロミオの想いはジュリエットには届かないんだね。」
「は?」
何が何だかわからない、と言う顔をする三田に、高月は何も返さなかった。
二人の警察官を前にしても、森島は、終始落ち着いた様子だった。
「三田さんは?」
若手刑事が問う。
「あなたたちに会わせたくないの。」
「捜査を妨害するつもりか!」
声を荒げる若手刑事を貫禄のあるもう一人の刑事が押さえ、代わりに質問を続ける。
「まずは聞こう。君たちは事件に関わっているのか?」
「刑事さんはどうお考えなの?」
森島の表情は至って真面目だった。
「最初はあまりに情報がなさ過ぎた。いや、今もそうかもしれない。殺害に使われたナイフからは加害者と三田さんの指紋しか出なかった。部屋には異常も見られない。真っ先に疑われたのは三田さんだった。自殺という可能性もあったがね。だが、その日、三田さんは誰にも目撃されていない。代わりに髪の長い派手な女の目撃情報が出てきた。その情報提供者に、君の写真を見せたら似ているという始末。何が何だかわからなくなってきた。すると今度は、殺害時に犯人が着ていたと思われる、血のついた洋服と、カツラが出てきた。犯人は明らかに変装していた訳だ。目撃証言は役に立たなくなってしまったも同然だ。」
「それで?」
「だから、真相を君たちに問いたい。」
「私は何も情報を提供できないわよ?」
男は目つきを変える。
「本当にそうかね?」
若手刑事が自分の鞄を探り、何枚かの写真を取り出した。
それを見て、今度は森島の目つきが変わる。目にしたのは、先ほどの話に出ていた、犯人の衣類であろう写真。
「見覚えは?」
「当然あるわ。去年、メディア情報科との合同企画で、柚葉が着ていた衣装よ。」
「もう一度聞こうか。君たちは事件に関わっているのか?」
「私は関係ない。でも、柚葉は何とも言えない。」
「本当に君は関係ないのか?」
「えぇ。本当よ。私は柚葉が大好きなの。加村君なんていなくなっちゃえばいいって思ったこと、何度かあるわ。でもね、それは柚葉にとっての不幸だとちゃんとわかってるの。だから、私じゃない。正直なところ、柚葉が犯人の可能性は、私の中にも少しあるのだけど。」
「それで三田を会わせたくなかったのか?」
「違うわ。もし、本当に柚葉が関わっているのなら、きちんと認めてほしい。でも、柚葉は本当に記憶がなくなっているの。むしろ真実を知りたがっている。何かを思い出しかけている。だからここで、あなたたちに苦しめられるようなことがあれば、柚葉はどうしていいかわからなくなってしまうわ。私は柚葉を失うのが怖い。もし、記憶が戻ったとしても、それは決していい物だとは思えない。悲しむ柚葉も見たくない。だから、そっとしておいて。今だけは。」
「今だけでいいのか?」
男の低い声が響く。
森島は、ゆっくりとうなずいた。
満足そうに焼きそばをほおばりながらも、三田は次のターゲットをしっかりと考えている。どうしてこんなにも必死になれるのか、とあきれ顔の森島には全く気づいてはいない。
「ねぇ?次は何がいいかなぁ?智美は食べたいものとかないの?」
「食べながらしゃべらないの。」
いつもと変わらない。何ら変わらない。それが森島の中では不安でもあった。今、三田は何かを思い出そうとしている。もし、そのきっかけになる物があるとすれば、それはあの絵だと思った。喜多川という、加村の友人が探していたあの絵。加村が死の直前に完成させた、月の絵。三田の大好きな物。たぶん、あの刑事達も予想はしているのだろう。最後の情報は三田の中に残されていることを。だから、今日、けじめをつけなければならない。それが二人にとっての何であったとしても。
「柚葉?絵画科の展示はいつ見に行くの?ほら、加村君の作品も展示されるって言ってたじゃない。」
「うん……。」
「答えになってないわよ?今から行く?もっと食べてから行く?」
少し強い口調で返答を求める。
「行く。今から行く。」
三田の声は今にも消えそうだった。
絵画科の建物には、その空間自体をアートにするかのごとく、ロビーも教室も関係なしに様々な作品が展示されていた。
あまり気が乗らない様子だった三田も、いつのまにかその空間に心を奪われ、気になる作品をまじまじと見てまわった。水彩画の透明さ、鉛筆画の繊細さ、油絵の力強さ……。個々の作品ごとに変化する、喜怒哀楽に似たそれらは言葉にならない物を伝えてくる。芸術の善し悪しはよくわからないが、思わず声を出してしまう事もあった。
順に進んでいくと、一つの教室にたどり着いた。そこには喜多川が待っていた。
「やぁ。いつ来るかと思ってた。加村の絵、見る気になった?」
「うん。」
三田は迷い無く答えた。
ランダムに配置された作品の中で、中央部に並べられたそれを、喜多川が指さす。
「あれだよ。加村徹作、『青空に咲く白い月』」
真ん中に月がある。それは青空の真ん中に溶けてしまいそうな、まるく白い月。両側には都会のビル群が描かれており、壊れものをそっと包み込む手のひらのように月を支えている。油絵特有の凹凸は月のクレーターを細部まで描き込んだようである。
キャンバスの大きさと、その中に存在するシンプルな力強さは、十分な魅力を持っていた。
それにもかかわらず、よく見ると月の所々にいびつな形を持っている。小学生のぬり絵のようにはみ出したそれは、タッチもまるで違う。
「私の、描いた、絵……」
三田は、崩れ落ち、涙を流した。
「柚葉!?」
あわてて森島が駆け寄り、三田の肩を抱く。
「思い出した。全部思い出したよ。」
細い肩が小刻みに震えていた。
事件当日――
加村は休日にもかかわらず、一人住まいの小さなアパートで、必死になって絵を描いていた。大量の油絵の具を惜しげなく使い、久々に大型のキャンバスに挑んでいた。もうすぐこの戦いも終わる。彼女が来れば。
今日は加村の誕生日である。もちろん、彼女の三田柚葉が来ることになっている。しかし、時計は十二時を回ったというのにいっこうに三田がやってくる気配はない。いつもなら昼前からおなかが減ったと騒いでいるのに。心配になって送ったメールの返信もない。
「柚葉のことだから、ケータイ忘れてたりするんだろうなぁ。」
ケータイがない!と騒ぐその姿が安易に想像できる。
「さて、柚葉には悪いけど、先に昼食にするかな。」
立ち上がると同時に、チャイムの音が何度もなった。
「遅くなってごめん!!」
ドアを開けると、見覚えのない女性が一人。
「え、えっと……どちら様?」
「は!?何言ってんのぉ!あたしだよ、み・た・ゆ・ず・はー。忘れたの?」
「柚葉!?忘れたの?ってその格好……。」
加村は目の前の女の姿をじっと観察する。パーマをかけた茶色い髪。じゃらじゃらとアクセサリーをつけた紫のトップス。ショートパンツからは白い足が恥じらいもなく伸びていて、その先には凶器にも見えるピンヒールのサンダル。どこをどう見ても自分の彼女に見えなかったのだが、顔は確かに三田柚葉である。
「あの、さ。それ、何のつもり?コスプレ、とかでもないよなぁ?」
「へ?覚えてないのぉ!?薄情者!これ、去年の映像企画であたしが着た衣装。加村君と初めて会った日に着てたんだけどなぁ。覚えてないなんて。残念。」
「ごめん、ごめん。飯作るから許してよ。」
三田はにっこりと笑ってうなずいた。
少し遅めの昼食をとりながら、二人の会話が盛り上がる。
「ねぇ、あの絵、もう完成?」
「まだ、あと少し。最後は柚葉に描いてもらおうかと思って。」
「あたし、不器用だよ?」
「いいんじゃない?それがまた、いい味出すかもよ。」
「よし!じゃぁ、いっちょやってみますか!」
三田は気合いを入れて絵の前に立つ。
「で、何すればいいの?」
やる気満々でとぼけたことを言う。加村は、ほほえみながらそっと三田の後ろに立ち、その手を握る。ペイントナイフを持たせ、最後の仕上げを施す。
「柚葉、不器用すぎ。なんか、いがんでる。」
不器用と言っても、ここまで予想はしていなかった。
「味が出るって言ったじゃん!?」
笑いをこらえようとする加村の態度が、三田の恥ずかしさをいっそう大きくさせた。頬があつい。
「いいよ、いいよ。新しい芸術だ。」
「馬鹿にしてる。」
「してない。」
加村は三田の体を強く抱き寄せた。
「ねぇ、柚葉。俺、いつもの柚葉の方が好きだ。」
三田のカツラがはずされ、見慣れた顔が視界に入る。顔を赤らめる三田をよそに、加村の手はその服の中に忍び込む。
「イヤだ。」
加村の手はすぐに動きを止められた。
「残念。柚葉、じゃぁかわりに、俺のお願い聞いてくれる?」
「何?」
「俺を、殺して。」
三田の動きがピタリと止まる。氷が背中を滑っていくような嫌な感じがした。
「は?何の冗談……」
「冗談じゃない。俺は本気。」
加村は優しげなまなざしを向けていた。
「俺、もうすぐ死ぬんだって。なんて言ったっけなぁ……癌の一種だった気がする。もう俺には関係ないけど。ま、とにかく大変な病気なんだって。手術すれば治るかもしれないけど、そんな金ないし。そこまでするくらいだったら、いっそのこと、柚葉に殺されたい。」
「何言ってんの?死んでどうするの?あたしはどうなんの?」
「柚葉には幸せになってほしい。」
「答えになってないよぉ。」
かすれた言葉は涙に変わって流れ落ちた。
加村は用意しておいたナイフを取り出し、その鋭く光る切っ先を自分に向ける。しかしなお、それには目をくれることもなく、淡々と話を進める。
「どうせなら、幸せなまま死にたいんだ。な?最後の、誕生日プレゼント。」
震える手をナイフに添え、一緒に握りこむ。
そして……。
「気がついたら、加村君の意識はなかった。あたしの手も服も血だらけで、真っ赤で、どうしていいかわからなくなって……、とにかく警察と救急車だけ呼んで、怖くなって逃げ出した。あのときの服も全部捨てた。あの日は本当に怖くて、うなされて。でも、泣き疲れてやっと眠ったと思ったら……。一晩眠ったら全部忘れてた。もう、あたしの中で加村君は知らない人になってた。あのまま何も思い出さなければ、あたしも幸せだったのかもしれない。」
「柚葉……。」
涙を流し続ける三田を、森島が抱き寄せる。
「でも、駄目だ。もう、二度と忘れちゃいけない気がする。」
「柚葉が、こんなにつらい思いをしていたなんて。私は、柚葉を助けてあげられないのね。」
「大丈夫。智美はいてくれるだけで心強いから。ね?」
「ありがとう。」
「あたしは忘れない。たぶん、忘れられない。月を見ることがあたしの日課になってる以上、思い出し続けることになると思う。でも、加村君を忘れずにいることが、あたしの唯一できることだと思うから。」
三田は自分の足で立ち上がり、窓の外を眺めた。
空には、決して消えることのない月が、何事もなく浮かんでいた。
お読みいただきありがとうございます。短編と言いつつ長めな物になりまして……ここまでたどり着いてくださったあなたに感謝です。
今回はストーリーにこだわりました。ミステリー風を装いながら、この結末はどうなんだろうと思いましたが。しかし、私の中では結構頭を使って書いたつもりです。
最後には少しだけメッセージも入れさせていただきました。最初に体験した死というものが、同級生でしたので、自分の中では忘れられない記憶となっています。でも、今でも忘れずにいることが、私にできる唯一のことかと思うのです。
評価、感想いつでもお待ちしております。(厳しいお言葉でもかまいません!)是非よろしくお願いします。