Fairy Sense 《最初の家畜》
緩やかな小春日和に促されて、散歩しながら呑気に欠伸するレトリーバーと、のんびり歩いていた彼は擦れ違った。
大学の授業は四限からで、融けてしまいそうな温い風をゆったり歩いても、まだ余裕がある。
時計も、その生真面目な針を遅らせてしまいそうな、気怠い雰囲気が世界に被さっている中で、彼は目端に犬小屋を捉えた。何故か、道路の脇に小さな区画が空いているそこには、犬小屋がちょこんと置かれて柴犬が陣取っているのだ。恐らくは向かいの家の飼い犬なのだろうが、わざわざ道路に隔てられた土地を持っている理由には検討も付かない。
彼は通学の時にその柴犬を視界に捉えるのが癖になっており、柴犬の方もじっと円らな瞳を彼に合わせてくる。毎日の、ほんの十数秒のアイコンタクトが一人と一匹の間にある習慣になっていた。
今日も、彼がその姿を捉えてから、柴犬は細い腕に体を預けながら顔だけを向けてきた。
それなのに、彼の方は、その狼にも似た力強い瞳を柴犬に合わせることなく、戸惑っていた。
「明槻先輩は、犬が苦手だと思っていました」
彼がそう思ったのに、特に理由などなかった。
そんなことを考える前に、柴犬に覆い被さるその体躯は今時の中学生に比べても小さめである。はっきり言って、小型犬にも押し倒されそうだ。
「確かにわたしは猫派だけどね、緋月」
柴犬の首に埋めていた顔を離し、明槻海弥は穂村緋月にサファイアの瞳を向ける。
その丸っこくてあどけない顔に茶色い毛が数本揺れていて、緋月はやるせない気持ちになった。
そんな心情を知ってか知らずか、海弥は柴犬を小さな手で一撫ですると、膝を一端深く曲げてから、勢いを付けてすくっと立ち上がる。
「さて、緋月。ヒトが最初に家畜化した動物はなんだと思う?」
いつもながら、唐突な質問をぶつけてくる先輩だった。しかも、緋月の方は見もせずに、柴犬に軽く手を振ると勝手に歩き出してしまう始末だ。
それでも海弥の中では、繋がりだとか、流れというものがあって、当然の因果から話が始まっているらしく、答えなければ冷たい視線と辛辣な叱責が押し寄せてくる。
緋月は夜の海に浸した髪が波打つ海弥の小さな背中を追いながら、思考を巡らせた。足りないものではあるが、自身の脳に蓄えられた僅かばかりの考古学と生物学を引き摺り出し、考察する。
「犬……狼じゃないですか? ほら、犬は人間にとって最古の、そして最良の友人ともいいますし」
言っては見たものの、緋月はその回答が当たり障りのないものでしかないと思った。
それだから、海弥もふぅ、と切なげに溜息を吐く。
「狼が狩猟及び警備の要因から人間が手懐けたのは、確かに今現在家畜として思いつくものでは早期よ。一説によれば、紀元前九千年頃には犬と山羊、それから羊の家畜化がなされていたと言われているわ」
不意に、海弥は膝を曲げて屈みこみ、生垣に向かって手を差し伸べた。
緋月も自然と足を止めて、その後ろに控える。
「おいで。大丈夫、怖くないわ」
海弥が呼びかけると、一匹の猫がとてて、と出てきた。彼女の好きなミルクティに似た色合いの毛並みを持つ、大学に住み着いている猫だ。
海弥がキィと呼ぶその猫は、海弥の手のひらの匂いを嗅いで様子を伺っている。何故キィなのかと、前に緋月が訊いたら、気位が高いからよ、と答えられた。
キィが見上げる訝しげな視線は、真っ直ぐに緋月に向けられている。気位の高い彼女は、いくら大好きな女王に対してでも、知らない男の前で甘えるのは嫌なのかもしれない。
「ところで、家畜化ってどういうことかしら?」
しかし、気分屋で気侭な性格をしている妖精は、キィが逃げる素振りを見せないのを見て、首筋を人差し指でつぅっと撫でる。そしてこしょこしょとくすぐり、魅惑の指先に乙女が微睡んだ隙を見逃さず、首根っこを掴んで膝に抱き上げた。
そのまま柔らかな頬を寄せて、幸せそうに細める。
まだ道路にいるというのに、人目を気にした様子はない。
海弥のそんな態度に、緋月は周囲に人気がないのをさり気なく確かめている。
「ええと、人に懐きやすくするとか、生産性を高めるとか、そんな感じじゃないですか?」
キィは海弥の膝の上にいても暴れることはなく、むしろ喜ばしげに彼女の手のひらに舌を這わしていた。海弥も気分が良さそうに指を差し出して、自ら甘噛みさせている。
「そうね。馴化と品種改良は、家畜化の本質と言えるわ。そして馴化には大切なキーワードがあるわ。ネオテニー、という言葉を聞いたことある?」
「いえ、ありません」
緋月は自分の記憶を探ろうともしなかった。他分野の専門用語に手を出せるほど、彼は自分の知能が高くないと考えている。
けれど、その態度を責めることなく、海弥は流れるように言葉を紡いでいく。
「幼体成熟ともいうわ。端的に言えば、生体的に、もしくは精神的に幼生――子供のままで大人になることよ。有名なのは、ウーパールーパーね。あの子達は両生類のメキシコサラマンダーという種なのだけれど、幼体で鰓呼吸のまま性成熟するの。変態をしないから、地上に上がることはできないわ」
種として備わっていた変化――大人への劇的な成長を失ったまま、大人となる。
その現象は、緋月としては歪に思えた。
子供と大人は明確に区別されてきた。例えば通過儀礼というものがその区切りに大きく貢献している。大人と認められるには、相応の困難を乗り越えて、その証拠を自他共に認められなければならないのだ。
「家畜化は、ネオテニーを伴うと言われているわ。幼く、大人を求めるという性質は、人間に慣れやすいということですもの。少し甘えん坊の方が、反攻もしないし躾易い。犬の行動は狼の子供によく似ているというし、鶏なんて飛ぶことも出来なくなったわ」
もう十分甘えたのか、キィはするりと海弥の腕を抜けて地面に降り立った。そして海弥の膝に顔を擦りながら、緋月に視線を送ってくる。
邪魔者に注意を払いながら、キィは素早く生垣に逃げ込んでいった。まるで、知らない大人が来た時に、自分の部屋に駆け込む人間の子供みたいに。
「大人のチンパンジーの顔面骨格にはね、出っ張りがあるの。そこに筋肉を繋ぐことで、顎の噛む力を強くしているのね」
緋月は無意識のうちに自分の頬を撫でた。当然、少し立てた指に引っかかる骨などなく、滑らかに降る。
「さぁ、緋月。人間が始めに家畜化――馴化と品種改良を進めるように生殖行動を制御した動物はなんだと思う?」
ぞくり、と緋月は背中が泡立った。
幼い頃に布団の中で味わった、理屈も理由もない怖さに包まれる。
目の前にいるのは、中学生にも見紛うような、けして背が高くない緋月でも見下ろさないといけなくなるような女性だ。
けれど、その幼気な顔立ちにあどけない微笑みを浮かべて、この人は何を言ったのか。
緋月の喉が渇き、空気が擦れていく。
「ごめんなさい。怖がらせたわ」
ふと、暖かな感触が緋月の頬を撫でた。皸も手荒れもない、すべすべとした手のひらが、さわさわとささくれ立った気分を宥めてくれる。
その表面で全てを反射する輝かしい碧玉の瞳に影を落とす、泣き出しそうな顔が誰の者なのか、緋月は理解したくなかった。
「けれど、覚えておきなさい。わたしたちはもう、何もせず自然に大人になることなんて、出来なくなっているのよ」
そう呟く海弥の言葉は、冬の雨にも似た淋しさと冷たさで、ぽつりと心を濡らした。
Fin
家畜化の善悪について、わたしはなにも思うところはありませんと最初に申しあげておきます。
家畜というものはとても人の役に立つものですし、わたしは個人的にはマイナスイメージを持っていません。あえて言えば、人間がいないと生きていけない彼らは、少し可哀想かなとは思いますが。あ、それ以上に感謝していますし、可愛いとも思っていますよ。
けれど、海弥が言いましたが、きっとわたしたちはもう体の成長に任せるだけでは『大人』になることは出来ないと思います。だから、『大人』になるためには努力と経験が必要なのだとも。
だから、この話に触れた方々には、考えてもらいたいです。『大人』になるには、どうしたらいいのかを。