この道を抜けて
この道を抜けて、どこへ辿り着けるだろう。
この道を抜けると、どこへと続いているんだろう。
この道の先には、一体何が在るのだろう。
四季おりおりの花が咲き乱れ、青々とした緑が目に眩しい。小路にふっと現れた小さなトンネルを抜けて、映ったのは脳裏に焼き付くほど美しい一本道だった。
左右にはコンクリートの塀が在る、細い歩行者専用の道だ。それなのに、窮屈さは少しも感じない。むしろ車の往来が激しい表通りより清々しい、と僕は思った。いくらか空気もいい。
ほんの少し違う道を進んだだけなのに、これほど素晴らしい場所が有ったとは。僕は感動し、そして今まで道の存在に気が付かなかった自分を悔いた。
ほんの散歩のつもりでブラリと歩いていた僕は、思いがけずに歩数を稼いで行く。ゆっくりと花々を楽しみながら、僕は道を進んでいった。
道中、僕は一度も振り返らなかった。後から考えれば、これが過ちの始まりだったのかもしれない……。
そうして、ふっと、僕は異変に気が付いた。
花は美しい。陽の光も暖かだ。しかし、これまで一度も曲がり角という物を目にしていないのだ。普通の小路にしては、いささか不可思議ではないか……。
魔法が解けたかのように、僕は歩みを止めた。不安が心を蝕み始める。
目前には、ただ静寂な一歩道が果てもなく続いていた。
「引き返したほうがいいかもしれない……」
鮮やかな、赤青黄色。紫色に草木の緑。
僕は道の果てへの好奇心を抑え、それらに背を向けた。
――僕は何処で、何を間違えたのだろう。
道の後ろには何も無い。ひたすらに深い闇ばかり。すぐ足元から、景色はぷっつりと途絶えていた。
「どうなってんだ?」
脳をフル回転させたって分かりっこない。明らかに常識を逸脱しているのだから。
闇を見つめていることに恐怖を感じ、僕は何処へかと続く道を振り返った。道が消えずにまだそこに在ることに、僕は安堵した。
暗闇と小路の境界線に僕は立つ。
先には何も無いかもしれない。闇に触れればどうなるかは分からない。しかし、立ち止まっていてもどうしようもなかった。
僕は先に進むことに決めた。それで駄目なら闇に身を投じるまでだ。
僕は歩いた。
歩いて、歩いて、歩いて……時には走ってみたりもした。
闇に追い掛けられ、疲れ果て、立ち止まり、また歩き出す。
どれほど時間が経ったのかも分からず、どれほど歩いたのかも分からなくなった。唯一分かる事といえば、今僕の身に降りかかるこの災難は、紛れもない現実そのものだということ……。
花達は僕を嘲笑うかのごとく、綺麗に咲き誇っている。
太陽は動く事すらせず、ひとところに止まり続けている。
「……何だって言うんだよ!一体僕が何をした!?」
宙に向かって叫んだって、声は消えて行くのみで。それでも吐き出さずにはいられなくて、あまりに孤独で、オカシクなりそうだ。
「誰か……」
恐い。
恐い、誰か助けてくれ……。
泣きたくなった。もう立派な大人なのに、だ。
僕を防ぐ両側の塀が憎らしかった。なんとかしてよじ登れないだろうか?どこでもいいから、この空間から逃げ出したかった。
石の隙間になんとかスニーカーをつっかけ登ろうとするが、すぐに滑り落ちてしまう。
「まるで蟻地獄だ……」
一生ここから出られない気がしてきた。だってもうヘトヘトなんだ。
とうとう僕はその場に座り込んでしまった。腹の虫がひとつ、ぐぅと鳴く。
「もぅ、いいや……。どうなったって、構うもんか」
右側に広がる闇。僕はそっと手を伸ばす。
指先が闇に触れた。感触は無いが、第一間接までが闇と同じになった。
急いで手を引っ込めると、僕の手はまだあるべき形を保っていた。
闇の向こう側に行けば消えてしまうのかもしれない。それは、道を彷徨い続ける事よりも恐ろしく感じた。
「どうすればいい?」
目の前が真っ暗だ。冗談抜きで、本物。僕は自分の考えに苦笑した。
ふと、何処からやって来たのか、塀の上から猫が一匹小路に降り立った。僕の左側、3メートルくらい離れた場所に猫は佇んでいる。
小さな黒猫が、僕には希望の光に見えた。まだここが、僕の居た世界と繋がっているんだという希望。
猫が駆け出したので、僕は慌てて重い体で跳ね起きた。
「おい!待てよ!」
猫は脇目も振らずに一本道を駆け抜ける。置いて行かれないように、見失ってしまわないように、僕は必死で地面を蹴り進む。
あの猫が、何処かへ僕を導いてくれるかもしれない。
そんな微かな希望にしがみつく姿は、きっと惨めだろう。だけど力の限り走った。足がもつれて、何度転びそうになっても、両足が鉛のように重たくなっても。
猫は容赦なく駆け抜ける。
どんなに歩いても、必ず同じところへ戻ってきてしまう。そんな怪談話を思い出した。心霊現象なんて、全く信じないタチだったが、もし生きて帰れたら信じてしまいそうだ。
息が上がり、乾いた喉が張り付いて気持ちが悪い。猫は遥か向こうに点のように見えた。
諦めようか……。
甘えて逃げるのは楽かもしれない。だけど、それでは駄目だと、心のどこかでは分かっていた。心身ともに弱い自分。なにも満足に足りていない自分。
――世界から、隔離されたのかもしれない。
もう走れない。
そう思った時、猫が僅か10メートル程先に佇んでいるのに気付いた。そして、なぜ気付かなかったのだろう。道はそこで行き止まりで、正面に小さな家が建っていた。
足を引きずるようにしてやっと目の前にたどり着くと、足元の黒猫はつぶらな瞳で僕を見上げてきた。着いたよ、と。
毛並の艶やかさまではっきりと見てとれる距離。こんなにも美しく綺麗な猫だったとは。黒猫が歩き出すのに釣られて、僕も家のドアへと歩いて行った。
軽く軋みながらドアは開いた。木製の扉は厚くて重い。
黒猫が先に、僅かに開いた隙間をスルリと通り抜けた。
道の先には小さな家が。
道の先にある小さな家の前には黒い猫が。
道の先にある小さな家の中には家の前にいた黒い猫を抱く女の人の笑顔が。
道の先にある小さな家の中には家の前にいた黒い猫を抱く愛しい女の人の笑顔が。
道の先にある小さな家の中には家の前にいた黒い猫を抱く嘗て失った愛しい女の人の笑顔が、
……あった。
「来ちゃったのね……」
彼女は言う。けれど、嬉しそうに。
黒猫は黄泉への案内人。
――僕は何処で、間違った?
「……寺沢 雅之さん。5時21分、御臨終です」
アンハッピーエンドですみません(汗