第1章 原点
目が覚めた。
水澤六花は、重い身体を起こし、窓を開けた。
八畳ほどの狭い部屋に、日差しが降り注いぎ、夏の暑さが、顔を出し始めたある昼下がり。電柱を優に越すほどの大きな桜の木を涼しげな風が揺らし、どこからか小さな子どもの足音が聞こえてきた。
懐かしい音だ。
正確には自分の記憶には覚えがないが、母があの音を聞くたびに、
「懐かしい、あんたも小さい頃よく履いていたわね。」と話をするので、
いつからかこの音を耳にすると、頬が緩み幼き自分に思いを馳せてしまう。
それも束の間、空気清浄機が元気に回り出しチリや埃とともに、夢うつつな私も吸い込まれ現実に引き戻された。
外の世界では、スズメが何やら一生懸命に鳴きながら訴え、飛んでいるのに私は声も出さず、動かず今日一日を終えようとしている。一日と言わず、ここ一週間そうした生活が続いている。
と言うにも時間はあるがお金はない。
手元に僅かに残っている現金は、今月の支払いへと消えていくことが決まっている。
一流とまでは言わないが、地元ではそこそこの大学を卒業し就職浪人になりかけたが、ギリギリ何とか滑り込み、一般企業に就職した。
ここまでが私の人生、普通の人として生きていた時間である。
普通に決まった時間に起きて
普通に電車に乗り出勤し
普通に職場の人たちとコミュニケーションをとり
普通に月給をもらい
普通の人として生きていた三年
いや、違う。
普通の人を装っていた三年
その後から、現在に至るまでの一年でいろんなことをしたが、結局普通を装うことさえできなくなっている。
私はニートだ。
日が落ち始め、心地よい風が部屋に入ってきた。
カラスが鳴くからか〜えろ
と言わんばかりに、夕暮れに向かって鳴くカラスに、負けじと私の腹の虫も鳴き始めた。ニートで一日何もしてなくとも腹は減る。
何か食べられるものを探そうと立ち上がったその時に、ぐらり。運動不足が祟り、視界が傾いたかなと思った時にはもう、左半身に痛みが走っていた。
祟りは続き、私が倒れた振動により、近くに山積みにされていた、チラシや書類やらの紙の山が私に襲いかかってきた。
しばらくそのままでいた。いっそのこと、もうこのまま死なせてくれないかと、心が限界だと悲鳴をあげた。
だが、私は中々しぶとい。
ぶつぶつと誰に対するでもない文句を、呟きながら紙をまとめていると、見覚えのある字で書かれた差出人が無い手紙を見つけた。少し丸みがかった癖のある字は母が書いたものだった。
携帯料金を払えなくなった、遠方に住んでいる娘との連絡手段が、今時に手紙唯一とは不便極まりないと、五枚にわたる不満を綴った後にサラッと一行。
“再来週こちらでおばあちゃんの三回忌を行うので帰ってきなさい”
封筒の中には、もう一枚小さな封筒が入っていて、新幹線のチケットが同封されていた。
それと先ほどの手紙とは違うやさしい字で、 “待ってるよ”と一万円札にメモが貼って入っていた。
喉の奥がきゅっと絞まるように苦しく感じた。
新幹線の日付を確認すると、明後日だった。偶然の重なりで手紙を見つけていなかったら、そんな未来を少し考えてみたが、考えるだけで何だか身震いした。
恐ろしい鬼の形相が、思い浮かんだのだ。何はともあれ、今は目の前にある一万円で何を食べようかそれだけを考えよう。
約束の日は、澄んだ青空が広がり、雲が一つもない良い天気だった。
学生の頃よく使っていた駅は、新幹線の拡張工事の影響で、場所自体が少し移動していたこともあり、建物には一切の思い出も残っていなかった。ただ、改札口は広くなり最新の機械も導入されていて、今使っている人たちにとっては、以前よりはるかに良いだろう。
そんなノスタルジーを独りで感じて、駅前のロータリーで待っていると少し遠くからクラクションが聞こえてきた。 見覚えのある薄汚れた軽トラックである。
運転席の窓が開き、
「おかえり〜六花〜!」
ロータリー中に母の声が響き渡った。
思春期も頃にこの軽トラックで、迎えにきてもらうのが恥ずかしく、お願いだからやめてほしいと頼んだが、母は断固として願いを聞き入れてはくれなかった。むしろ、私が嫌がれば嫌がるほどに、迎えに来る時嬉しそうに笑っていた。
今も同じ顔をしている。
忘れていた記憶と、久しぶりに会う緊張とで私は無言のまま、助手席に乗り込んだ。
そんな私の態度を無視して、母は私に、話しかけ続けた。
最寄りの駅から、自宅は車で一時間ほどの距離がある。その車内ずっと母は話をしていた。
庭の松に蜂が巣を作って、駆除するのが大変だったこと。
いとこのナオちゃんが妊娠したこと。
駅前に新しい大型商業施設が建つこと。
どの話も直接的に私に関わることは少ない話ばかりなので聞き流し、窓を開けて外の景色を眺めていた。
「それで、親戚一同納得したから、あの旅館はあんたが相続、管理することになったからね。」
「しっかりやるのよ‼︎」
母の大きく厚い手が、私の肩を叩いた。
いつの間にか、変わらない風景ばかり見ていたせいか、うたた寝をしてしまい、話の大部分を聞きそびれた。ちんぷんかんぷんな私を他所に、車は実家に到着した。
車の車庫入れが終わった母に再度話を聞いたが、
「あんた聞いてなかったのね、珍しく大人しく聞いてると思ったら、これだから。」
これは話がズレて、長い説教が始まりそうな予感がした。
少しずつ母と距離を取り、自室へと走る。
「その話あとで聞くからー‼︎」
小さい頃に身につけた技である。
私の部屋はあの頃のままだった。家具にあまり埃が溜まっていないところを見るに、時々部屋の掃除をしてくれているのだろう。
勉強机の椅子に腰掛けようと近づくと、アイロンがかけられた喪服がかかっていた。
仏間は、庭に面した家の東側に位置し、明るく風通しの良い部屋である。 十畳ほどの広さがあり、すでに親戚一同が揃っていて、和尚が皆に向けて、ありがたい話をしている最中だった。
話を邪魔しないように、そっと襖近くに腰を下ろすと、隣にいた人がふと顔をあげ、
「六花ちゃん、久しぶりだね、ほれ座布団使いな。」
と声をかけてきて、自分のお尻に敷いていた座布団を一枚引っ張り出し私にわけてくれた。見るとその人のお尻の下には、まだ三枚ほどの座布団があった。
私の視線に気づいたのか
「歳をとると、お尻のお肉が落ちて座布団一枚じゃどうにも痛くてね。」
お尻をさすりながら、目を細めて笑った。
その笑顔には、たしかに憶えがあった。もう少し話をしたら、隣にいる人が誰なのか思い出せるかもしれないと思ったが、静まり返った部屋に、木魚の音と共にお経が始まったので、あとでまた話しかけることにした。
法要も終盤に差し掛かるとジリジリと足の痺れが始まり、それまで集中して聴いていたお経も耳に届かず、どうにか一秒でも早く、この時間が終わりますように、と心の中で祈るばかりである。
少し罰当たりだと思うが、そう考えているのは、私だけではないようだ。右斜め前に座っている男性も、度々足の裏を手で押したり、少しパーマがかった襟足を指先でいじったりと落ち着かない様子だ。他にも、私たちのような仲間がいないか、目の可動範囲内で、探してみたが、他の人たちは、あくまで真面目な姿勢を崩していなかった。
少しつまらないなと思っていたら、その表情が出ていたのか、向かい側に座っていた母が私の心の中を見透かしたように目を細め、訴えかけてきた。
あとで、ドヤされてはたまったもんじゃないので、私も他の人たちと同様に真面目な顔をして、残り数十分をやり過ごした。
夕暮れになり、涼しさよりも少し肌寒い風が庭の木々を揺らしている。法要が終わり、会食が始まった。
始めのうちこそ、皆どこか厳かな雰囲気を取り繕っていたが、夜が更けていくにつれ気も緩みはじめ、お酒の量も増えていった。
私の父方の母つまりは私の祖母が亡くなったのは、二年前のことだった。
雪が溶け蕗のとうが顔を出しはじめた頃、
人知れずこの世を去った。
ドンッ‼︎
ガチャガチャシャリーン
皿やグラスが盛大に割れる音がした。
見れば、つい先程まで仲良く祖母の思い出話を語っていた、おじさん二人が取っ組み合いをはじめていた。
「てめぇが忘れてても、俺は忘れてねぇからなぁ 」
「あれは俺じゃないって言ってるだろう!」色々思い出しているうちに、幼き頃の喧嘩まで思い出してしまったようだ。
と気づけばあちらこちらで酔っ払いたちが醜態を晒しあっていた。急に泣き始める者、怒り出す者、笑い転げる者、半裸で踊り出す者までいた。
会食がいつしか宴会となり、見る人によって地獄で鬼が宴会をしているようだ。 こうなると皆が寝落ちするまで宴会は続いていくだろう。
鬼の餌食にならないよう息をころし、端に移動しようと立ち上がった時、捕まった。
「そぉういやぁ、りっかぁ、おめぇ、」
父の弟である叔父の悟が、呂律が回らず千鳥足でよろよろと六花に近づいてくる様は、もはや鬼よりゾンビのようだった。
「これぇ、おめぇにわたさにゃ、ほれ。」
ゾンビこと悟に何か硬い金属を手に握らされた。
「あとはぁ、任せた‼︎」
バシッ
何かを手渡された方とは逆側の肩を勢いよく叩かれた。
「痛いなぁもう‼︎」
肩をさすりながら手の中を見ると鍵だった。
一般的な家の鍵よりも細長く持ち手の方には雪の結晶のような飾りが付いている。 何これ、と聞こうとしたが、悟はすでに鬼たちとの宴会に戻って行ってしまった。
今日はとりあえず自室に戻って寝ることにした。これ以上ここにいたらいつか自分も、醜態を晒しかねない。
それだけは避けねばならない。
自室の戻る前、母に一声掛けようかと、辺りを探すが見つからず、どこにいったのかと顔見知りのおばさんに尋ねると、
「まみちゃん?まみちゃんならもうとっくに寝ちゃったみたいよ。」
まみちゃんこと母まゆみは親戚の中でそう呼ばれている。
お酒や宴会は好きなのだが、父方の親戚の集まりに関しては母は苦手で、よくこうしてある程度の時間が経つと一人でいなくなる。私はといえば、この宴会が結構好きである。
母にとっては異色な感じがするだろうけど、私には、心地よいと思うこともある。
外はすっかり夜だった。
縁側の前の廊下を通り、自室に向かっている途中、庭に人影があるのを見た。
気づかれたくなかったので、足音を消し歩いていると、雲に隠されていた月が丁度顔を出し、庭にいる人を照らした。
「あっ」小さく漏れ出た声だが、静まり返ったその場所では、相手に届くには充分だった。
満月より少しかけている月が、庭の池に映し出され、時折ゆらめき妖しく光っていた。
気まずい沈黙が続き、どうしたものかと考えていると
「それは何をしてるんだい?」
何かを考えると、手を合わせて指をくるくる回す癖が六花にはあった。
「あ、これは、何というか癖っていうか。」
「小さい頃からついやっちゃって。」恥ずかしさからつい早口になってしまった。
ふふっと 小さく笑ったその人は、
法要の時、六花に座布団を分けてくれた人である。
その人が、縁側に腰掛けたので、私も少し離れた隣に座った。
「癖といえば、ミヤビにも少し変わった癖があってね」
雅とは、祖母の旧姓である。
「眠る時に、髪の毛をこう触る癖があって」目を細め俯きながら、その時のことを大切に思い出して話してくれた。
「自分の髪ならいんだけど、隣で寝ている人の髪を触るんもんだから、隣では眠れないってミヤビのお母さんがよくぼやいてたわ。」
祖母の母のことはよく知らないが、その癖のことは覚えている。
祖母と一緒に寝ると必ず髪を触りながら
「六花の髪は、柔らかくてでも、少し冷たくて気持ちがいいねぇ」
と褒めてもらっているのか、わからなかったが、何だか嬉しかった。
「あ〜、やっぱりダメねぇ。楽しかったあの頃を思い出してるはずなのに、、」
そう言って目元を拭っていた。涙を薬指で、化粧が崩れないように拭う姿。
その仕草を見て、ハッとした。
風が吹き、月が雲に隠され一度暗闇が辺りを包み込んだ。少し離れていたこともあり、お互いの顔が見えなくなった。
私にとってこれは幸いであった。
今の私の顔は、きっと世にも恐ろしい。
祖母は、亡くなる一年前くらいから認知症を患っていた。
と言っても私たち家族が、祖母の異変に気が付いたのは発症してから大分経ってからだと思う。温厚だった祖母が、ちょっとした事で大声を出し、怒鳴ることが多くなった。
認知症を疑ったのは、祖母が幻聴を聞き始め、支離滅裂なことを言うようになってからだった。近くの病院では専門家がおらず、大学病院で診てもらうことになった。病院で認知症と診断されてから、私たち家族の生活も少しずつ変わっていった。
その頃私は、就職して実家に住んでいなかったので深くは関わらなかったが、一緒に住んでいた母や兄は、祖母をなるべく一人にしないようこまめに連絡を取り合い配慮していた。
その日も母が仕事を早上がりして、祖母をいつものように病院に連れていく予定だった。 突然の訪問がなければ。祖母の友人だと名乗るその人を、祖母は嬉しそうに家に招いた。
母はその人のことを知らなかったが、祖母が楽しそうに話す姿を見て、少しの間留守番を頼んだ。もちろんその来訪者に、祖母の事情を話した上でだ。
その人は、承諾してくれた。
「もちろんよ、いってらっしゃいな。
少しの間ミヤビちゃんとの、思い出話に花を咲かせて待ってるわ。」
と笑顔で言われ、母も久しぶりの一人の時間で少し浮き足立ちながら近所のスーパーに買い物をしに行った。
私が母からの電話に出たのは、仕事が終わりに同僚と楽しくお酒を飲んでいる時だった。
焦りながらもはっきりとした声で
「おばあちゃんがいなくなった。」
母は他人が思う三倍は、買い物に時間がかかる人である。
母の帰りを、二人仲良く話しながら待っていたのはいいものの、遠くからやってきた来訪者は少し疲れていたことがあり、祖母に言われるまま横になり眠ってしまった。
目覚めると、顔を青くした母がそこにいた。すると丁度そこに、仕事を終えた兄も合流し、三人で手分けをして近所を探し回った。 が、祖母は見つからず日が傾き始めたので、警察に捜索願を出すことになった。
警察が介入してくれたので捜索の範囲が広がり、二十二時過ぎには見つかった。
祖母と思われる水死体姿で。
母と兄が立ち合い、祖母の最後の姿を見た。
顔や身体は、水で膨張しあまり判別はできなかったが、着ていた服が祖母のものであった為、祖母と判断された。祖母の葬儀の際、祖母の死因については私たち家族三人以外には公言せず、病死として親族には伝えていた。
しかし祖母の死因について、もう一人だけ知っている人がいる私の今、目の前にいる。
生きていた祖母に最後に会っていた人。
「ツバキさん、、」
俯いていた顔をあげ、こちらを向き少し口角を上げたその表情は、どこか勝ち誇ったような、だけど不安そうな雰囲気があった。
「そろそろ冷えてきたんで、中に入りましょう。」
彼女の返答は待たずに振り返らず、長い廊下を進み自室に戻った。
私たち親族の闇は深い。誰かが死ぬと必ずそこに秘密がある。今回のことは何も特別な事ではない。
ツバキさんのことは家族の誰も責めたりしない。だからこそ、苦しいのかもしれない。
次の日
騒がしい音と耳を貫く高い声で、目を覚ました。
「ほら、もう!さっさと起きて朝ごはん食べちゃいなさい。全然片付かないんだから!」
掃除機を片手に持って、忙しなく動く母が私を起こしにきたのは、十時過ぎのことだった。正直言うとあと三十分は布団の上でぬくぬくと過ごしていたかったが、部屋を掃除され始めては、流石に起きるしかなかった。
身支度を整えて、茶の間に降りると、兄こと涼介が眠たそうな顔で新聞を広げていた。
「おはよう。」
「おう。」
少し顔をあげ、小さく返事をした感じを見るに、自分で起きたくて起きたのではなく、私と同様に母に起こされたのであろう。どことなく不機嫌である。
兄にはあまり干渉せず、垂れ流しにされていたテレビを見ながら朝ごはんを食べることにした。
兄と私は茶の間でテレビをあまり見ない。テレビを見ると必然と目に入るものがあるからだ。
テレビ台には、いくつかの写真立てが置かれている。
幼い兄と私の手を引く母の写真、祖父母の若い頃の写真、そして父の写真が飾ってある。
ポロシャツにジャケットを羽織って、照れくさそうに笑っている。父との思い出は私にはない。
私が産まれて間もない頃に、亡くなったらしい。らしいと言うのは、よく知らないからだ。
一度父の話を、母に聞いたことがある。
母は、ぽつりぽつりと小さな声で話し始めたが、そのうちに泣きじゃくってしまった。
母があんなに泣いて弱っている姿をはじめて見た幼い私は、それ以降父の話は聞かなくなった。父の話はしない。
それが私と兄の中で暗黙のルールになった。 人は二度死ぬと聞いたことがある。
一度目は肉体的な死、二度目は記憶的な死。人々から忘れ去られた時に、人は本当に死んでしまう。
父の話をしないが、私たちが父を忘れることはない。より深く父という存在が記憶にあり続けている。そういう意味では、私たちが死なない限りは、父にとっての本当の死は訪れはしないのかもしれないと思っている。
「なぁ、これってすぐそこじゃねぇか?」
私が父との記憶に浸っていると、兄が少し上擦った声で話しかけてきた。
「発見されたのは午後二時頃で、釣りをしている男性が『川の中に人のようなものがある』と警察に通報しました。」
時々バラエティ番組のMCもこなしている女性アナウンサーが落ち着いた声で話しているのは、家の近所での出来事だった。
川の中という言葉が、一瞬にして私たちをあの日の記憶へと連れていった。
「警察と消防が現場を確認したところ、川岸の浅瀬から、頭蓋骨のようなものを含む人の骨とみられる複数の骨が発見されたということです。」
「今行ったら、野次馬だらけで凄そうだな。俺も見に行ってみようかな。」
兄は笑ってないのに、笑っているような声を出しその場の空気を変えようとしてくれた。
「やめなよ。野次馬なんて趣味の悪い。」
「え〜、だって面白そうじゃんか。」
本気でそう思っているのか、先ほどまでの戯けた雰囲気はなく、真剣にニュースを見始めた。
「ちょっとぉ‼︎もう!まだ食べてるの⁉︎ ダラダラしてないで、さっさと食べて手伝いに行きなさい。」
アナウンサーの声を、掻き消す大きな声が茶の間に響いた。
「母さんみろよ!ウチの近所が報道されてるよ。」
「ん?どこどこ?」
母の怒りを、ニュースの興味へと惹きつけてくれた兄に感謝しつつ、残っていたご飯を口に詰め込んだ。
食器を流しに持って行き、なるべく母の機嫌をこれ以上損ねないよう、注意しながら話しかけた。
「さっき言ってた手伝いって何のこと?」
兄と二人で近所の中継に夢中になりかけていた母が顔だけをこちらに向けて
「え?だから旅館の掃除よ! 昨日悟くんから鍵もらってないの?」
母は怪訝そうな顔をして、すぐに視線をテレビに向けた。
「あ〜、鍵は貰ったけど、それが何の鍵なのかは聞いてなかったから。」
昨夜の叔父は、呂律が上手く回らないほど、酔っ払っていて鍵については何も教えてはくれていなかった。
「おばぁちゃんがやってた旅館の場所覚えてるでしょ?
そこ行ったら吉さんがきてくれてると思うから。とりあえずさっさと行きなさい!」
吉さんとは、祖母が経営していた旅館で長年板前として働いてくれていた人のことである。
話の七割理解してないが、とりあえず旅館に向かいことにした。
実家から旅館に行くには、一本道なので道に迷うことはないが、歩くと三十分ほどかかるのだが、母の言い方を聞くに母が車で送ってくれる雰囲気はなかった。もちろん兄も然りである。
小さくため息を吐き、旅館へと歩くことを決めた。
旅館への一本道は、銀杏並木になっていて秋になると道路が一面黄色で埋め尽くされ、レッドカーペットならぬイエローカーペットとなる。ただ綺麗なだけならいいが、葉と共に実も落ちてきて、この道一帯に独特な匂いが充満する。銀杏を食べるのが好きでも、どうにもあの匂いは苦手である。
秋に向けて、着々と実を膨らませている銀杏を眺めていたら、茅葺き《かやぶき》屋根が見えてきた。
石造りの塀を潜り、白と黒の砂利が両脇に引かれた敷石を歩くと見えてくるのは、築数百年の家屋である。旅館というよりも民宿に近い佇まいである。
ポケットから鍵を出し、鍵穴に差し込むと違和感があった。そっと玄関の扉に手をかけると、鍵が開いていることに気がついた。
中に入ると、むわっとした熱気と埃が混じった嫌な空気が立ち込めていた。
玄関付近には人の気配はしなかったが、靴が二足あったので、少しむせながら、この旅館のどこかにいるであろう人に、声ができるだけ届く声量で声をかけた。
「吉さーん!こんにちは〜!手伝いにきた六花です。」
返事はなく、ただどこからか聞こえてくる鳥の囀りだけが、私に返事をくれているように聞こえた。
返事がないのでひとまず靴を脱いで、旅館内を散策することにした。
外観からは、予想できないほど、中は広々としていて、所々に名画や陶器など、美術品が飾られている。
祖母が亡くなって、旅館はすぐに閉館された。
あれからずっと、定期的に誰かが掃除をしているのだろうか。多少の埃っぽさは感じるが、全体的に劣化している雰囲気は感じられなかった。
長い廊下を進み続けると、話し声が聞こえてきた。声のする方に歩みを進めると、どうやら厨房から声が聞こえてくる。遠慮がちに覗いてみると。
「あっ!こら。そこは勝手に触るんじゃない。物の位置が変わると、探すとき大変なんだから。」
青い手拭いを頭に巻いている男性は、切長の目を釣り上げて、自分よりも少し背の高い男性を怒っていた。
人が怒られている時に、話しかけるのは躊躇してしまう。気まずい空気が流れてくるがそれには気が付かなかったことにして、とりわけ明るい声を出した。
「吉さん!」聞き慣れた呼び名に反応し、二人がタイミングよく振り向いた。
「おぉ!六花ちゃん。おはようさん。」
「おはようございます。」
白い歯をにっと見せ笑った顔は、五十代とは思えないほど若々しく素敵だった。
「久しぶりだねぇ、もうすっかり綺麗なお姉さんになっちゃって。こっちは、息子の燿太。
会ったことあったけか?」
吉さんの息子と紹介された彼は、眠そうな表情をし、肩にかかるほど伸びた髪は少し癖毛で、なんだか全体的に猫のような雰囲気を漂わせている。
「昨日、法事で。」
「あぁ〜、そっかそか。昨日はすまんね、俺がどうしても行けなくて耀太に行ってもらったんだわ。」
無愛想に応えた耀太を気にすることない吉さんを見るに、これが彼の通常運転なのだろう。
それにしても、私は昨日彼に会っているとの事で、どうにか昨日の記憶を呼び覚まさないと失礼になるだろう。 そんな思いで悶々としているのが顔に出てしまったのか。
「会ったっても別に話してないから、俺がただ見かけただけだから。」
早口でそう言い、襟足を指先でいじる姿を見て、かつての仲間だと気がついた。
「そうなんか、まぁこれからイヤと言うほど顔合わせることになるから、その内仲良くなれるさ!」
別に誰も仲良くなりたいとまでは、言っていないと思いながら、とりあえず愛想笑いを浮かべた。
「吉さんそれで、何をしたらいいの?」
このままでは雑談で、日が暮れてしまいそうなので話を進めることにした。
「ん?あぁ〜、今日はとりあえず全室を掃除する所からかな。」
まだ話し足りないのか、少し残念そうにしている吉さんを見ると心が傷まないこともないが、時間は有限であるからしてしょうがない。
早く終わらせて、ソファに寝転びたいと密かに思っていた。




