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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

シャワーの音が止まらない

作者: 枚崎ひつじ

 冷たいシャワーが心地よかった。

 清らかで澄んだ水が、頭のてっぺんから肩を伝い、胴を、腰を、脚を滑り落ちていく。体中の穢れを全て洗い落とされる快感に俺は目を細めた。肌を伝う水の冷気が、体の芯まで染み込んでいく。

 天井の窓から眩い光が降り注ぎ、敷き詰められた真っ白なタイルに反射して、広々とした浴室は光に包まれていた。

 実際には、俺の家の浴室に窓なんてないし、掃除をサボったツケで壁の黒ずみが目立つし、そもそもこんなに広くない。頭の片隅でこれは夢だと気づいた。


「よぉ、吉川!邪魔するぜ〜」


 矢田がずけずけと浴室に入ってくる。この荒唐無稽さは確かに夢のそれだ。


「おい、何勝手に入ってきてんだ」

「固いこと言うなって。稽古の後は汗を流したくなるもんだろ?」


 悪びれもせずに矢田は隣でシャワーを浴び出す。相変わらず無遠慮な奴だ。

 俺はもうきれいさっぱり体を洗い流したので、シャワーを止めようと蛇口を捻る。

 しかし、水が止まらない。方向を間違えたかと逆に捻るも止まらない。むしろ水の勢いが増している。必死に左右に回すも蛇口の根元からキィキィと手応えのない音が響く。


「おいおい、嘘だろ。矢田!水が止まらねえ!」


 だが矢田は意に介す様子もなく、気持ち良さそうにシャワーを浴びている。勝手にシャワーを使っておいて薄情な。

 無慈悲にも水はどんどん流れ続ける。やばい、このままでは水道代がとんでもない事になる。サーという水音が絶え間なく響く。それがホワイトノイズのようで、耳障りなほどに大きくなり、頭の中を掻き乱す。焦りと共に少しずつ視界がぼやけていく——



 薄暗い天井が霞がかったように映る。手元の携帯を引き寄せると時刻は午前2時過ぎ。変な時間に起きてしまった。夏の熱気で背中がじっとりと汗ばむ。夢の中ではシャワーを浴びて清々しい気持ちだったのに。

 夢の残滓を引きずっているのか、頭の奥でまだ水音が響いている。これならすぐに眠れそうだ。次はいい夢を見られるといいが。そんな期待を胸に目を閉じる。

 時間にしてどれだけ経っただろう。静寂の中、細い粒状の水が落ちるサーという音が鳴り止まない。

 ぱちっと目を開き、ぼんやりとする意識の焦点を現実に合わせる。途切れることのない水音。それは間違いなく現実で聞こえる。家の廊下の奥——浴室から。

 まさか、シャワーの水を出しっぱなしにして寝たか?確かに今日の飲み会ではそれなりに呑んだ。記憶も少し朧げではあるが、水を止め忘れるほど酔ったか?

 もしくは、誰かがシャワーを浴びている?ひょっとして俺、今日の飲み会で誰か連れ帰ったか?グラスを手にほんのり顔を赤くした女子の顔が思い浮かぶ。あの子とは楽しく話せたような気がするが、もしかして連れ込むことに成功したのか?大学2年目にして、ついに春が訪れたか?

 そこへ、一層顔を赤くした矢田のアホ面がフェードインしてくる。そうだ、あいつ大分酔ってたな。終電を逃して泣きついてきたのかも。前に泊めてやったことあるし。

 思い出せ。飲み会から帰るまでの出来事を。俺は誰か家に招いたのか?

 酒で朧げになった記憶。それが徐々に鮮明な映像として浮かび上がっていく。



 演劇サークル「ソルベ」は、毎年9月初旬に夏季公演を行う。客入りはお世辞にも良いとは言い難く、半分以上が空席となった。

 大学近くの居酒屋「とりのや」は毎年打ち上げに使う定番の店だ。飲み放題のメニューが割安で、他サークルと争奪戦になりやすい。

 焼き鳥や唐揚げ、サラダなどが雑然と並ぶテーブルを囲み、そこかしこでアルコールのまわった笑い声が弾けていた。

 店に入った順に奥に詰めるように席に座ったが、俺の向かいは衣装班の同学年の女子、藤原さんだった。


「それでね、今回は予算いっぱい使えるって聞いて血糊をふんだんに使ったの。いつもは衣装は使い回すの前提だけど、今回で使い潰す勢いで塗りたくったんだ」

「確かに、血だらけで汚れた感じが雰囲気出てたよ」


 今回の公演はゾンビパニックがテーマで、ゾンビが蔓延る荒廃した世界を6人の若者が生き残ろうと旅をするも、行く先々でゾンビに襲われ、一人、また一人と死んでいくシリアスなストーリーだった。

 藤原さんはゾンビの衣装を担当したが、それが渾身の出来栄えだったことには俺も納得している。


「私もともとゾンビ映画好きでさー。衣装班としてこれだけは妥協したくなかったんだよねー。吉川くんの小道具も良かったよ。あのショットガン、どこで見つけてきたの?」

「倉庫に放ってあったんだ。ちょっと壊れてるところあったけど、目立たないように補修したんだ」

「すごーい!やっぱゾンビ物に銃は映えるよねー」


 熱く語る藤原さんに俺はうんうんと相槌を打つ。同学年といえど、ほとんど話したことはなかったが、こうして向かいの席に座れたことで、一気に距離が縮まった気がする。けっこう可愛い顔立ちをしているし、このままお近づきになれたら——


「よぉ、吉川!飲んでるか〜!」


 肩にどすんと腕を置かれ、ぐえっと喉から声が絞り出される。矢田が肩を組んできたのだ。容赦なく込められた力に相当酔っていることが伺えた。


「てめぇ、何すんだよ!」

「おいおい貧弱だな〜。そんなんじゃお前あれだぞ?ゾンビの世界じゃ生き残れないぞ?」

「お前だって最初からゾンビ化してたじゃねえか。俺の用意したショットガンでぶっ飛ばされたくせに」

「迫真の演技だったろ。主演男優賞は俺のモンだな」


 迫真、というかこいつのゾンビだけやけに動きが激しくて、元気が有り余っていた。

 いや、こいつに構ってる暇はない。俺は藤原さんとお近づきになるんだ。

 だが遅かった。藤原さんはもう別の男子に衣装の出来栄えについて熱く語っている。


「それでね、ちゃんと場面に合うように土っぽい汚れとか、油っぽい汚れとか入れて…」

「へ〜、そこまで凝ってたんだ。確かに藤原の衣装はめちゃくちゃ出来良かったよな〜。それに比べて役者の演技は全然だったよな〜」


 藤原と話す男子が自嘲した。この男子は役者として舞台に立ったのだ。


「俺の演技とか酷かったろ?ゾンビに食われるところ、自分でも演じながらサムいな〜って突っ込んじゃったよ」

「は、はぁ…」


 藤原さんは困ったように曖昧に笑った。

 よく聞くとまわりでも自嘲が蔓延っていた。


「私のセリフ何て言ってるか聞き取れた?ヒス入りすぎて意味分かんなくなってたでしょ」

「この公演、ビデオカメラで撮影したんだよね。うわー、俺のシーンだけカットしてくれー!」

「いやいや僕の脚本ってB級ホラーのノリを狙ったの。完全にシリアスなんじゃなくて、ところどころにシュールさがあるっていうか…」


 聞いているとうんざりする。確かに今回の公演は演技も脚本も演出も、お世辞にも良かったとはいえない。客入りは想定より少なく、誰もが失敗だと認めざるをえないのが現実だ。

 それでも、稽古ではみんな真剣にやっていた。最高の公演にしてやろうという熱意が。そんな本気だった自分を嘲り、否定することで心の安寧を図ろうとしているのだ。

 そんな様子を俺は冷めた目で眺めながら、ちびちびと酒を飲んだ。

 目の前にふわりと煙が流れてきた。すぐ隣で矢田が煙草に火をつけていた。この店は喫煙可とはいえ、場所を弁えてほしい。やけに独特な匂いがして、俺は顔をしかめる。


「なあ、それ非合法なやつか?」

「まだ合法になってないだけだって」


 矢田は平然と煙をくゆらせる。別に俺は正義感が強い男ではないので、それ以上咎めることはしなかった。


「お前も吸ってみるか?」

「俺はいいよ」

「何だ?怖いのか?」

「法に触れるリスクを負いたくないだけだって。別に、法が認めたら俺だって…」


 怖いのか?と聞かれてほんの少し見栄を張ってしまった。それを聞いた矢田は大袈裟にため息をついた。


「勿体ないね〜。人生は一度きりなんだぜ?お前が死ぬまでに法が認めなきゃ、こいつの味を一生知らないまま終わっちまう。法なんか恐れてたら色々な経験を逃しちまうぜ?」


 矢田が紙煙草の箱を取り出す。箱は一般的に売られているものだが、中身は違うのだろう。一本だけ抜き取って、俺に差し出す。


「勇気を持つんだ!先が真っ暗な道も勇気が照らしてくれる!」


 やけに格言っぽい事を言うが、こいつが今やってるのは違法な薬物を勧めていることだ。本当に馬鹿だなこいつ。

 だが、俺は矢田のそういうところを尊敬している。ルールに囚われず、まわりに流されず、どこにでも足を踏み入れるような勇気を俺は持ってない。本当に興味があるわけではないが、この”煙草”は持っているだけで、自分を変えてくれるアイテムのように思えた。


「まあ、貰っといてやるよ」

「そうこなくっちゃ」


 その直後に飲み会はお開きとなった。めいめいが荷物をまとめ始める。俺もリュックを抱えていると、藤原さんが近寄ってきた。さっきは途中で話せず仕舞いだったが、これはひょっとして?と淡い期待が募る。


「ねえ、吉川lくんの家って大学の近くだったよね」

「そ、そうだけど何?」

「今日使った衣装と小道具なんだけど、吉川くんが預かってくれない?都合良い時に部室の倉庫に置いといてもらえると助かるー」


 まぁ、そんな気はしていた。


「いいよ。大学近くに部屋借りた人間の宿命ってやつだからさ」

「ありがとう。ついでにコインラインドリーとかで洗濯もしといてくれない?領収書があれば、後で精算できるから」

「いいけど、血糊がついた服とか使う予定あるのか?」


「シーズン2で使うんじゃね?」「いやもう脚本書かないって」と遠くで声が聞こえた。

 紙袋は2つある。衣類と小道具とでそこそこ重量があり、両手で一個ずつ持った。


「吉川〜!俺も持って帰ってくれ〜」


ベロベロに酔っ払った矢田が足に絡みついてくる。


「…よかったら、これも持って帰ってくれる?」

「これ以上、荷物増やすのは御免だよ」


 雑に矢田を足蹴にして居酒屋を後にした。

 両手に紙袋をぶら下げて、一人帰路につく。深夜の住宅街はしんと静まりかえり、明かりが灯る家も少ない。電柱に貼られた不審者注意のビラが目に入る。街灯の少ない道路だ。不審な人間が潜みやすいのだろう。


「いや、今の俺がよっぽど不審者か」


 紙袋には血だらけの服や、武器の小道具が詰まっている。職質でもされたら、交番へ直行だろう。気持ち足早になる。

 賃貸アパートの3階、302号室前で紙袋を降ろす。リュックから鍵を取り出して、ドアを開ける。

 電気を点けると住み慣れた自宅が出迎えた。狭い玄関から真っ直ぐに伸びる廊下。左手にキッチン。右手には浴室。風呂場はユニットバスで脱衣所はない。廊下の先は6畳のリビング。一般的なワンルームだ。

 玄関前に置いた紙袋を拾って、足だけで靴を脱ぐ。リビングまで上がって、部屋の隅に荷物を放った。

 飲み疲れてすでに眠気でいっぱいだった。その後はさっさとシャワーを浴びて、歯を磨き、すぐに寝床についた。



 やはり俺は家に誰も連れてきていない。一人で帰ってきた。だが、行動を振り返ってみると致命的なミスを犯したことに気付いた。

 自宅の鍵を開ける時、俺はその場に紙袋を降ろした。両手が塞がっていたから、鍵を取り出せなかったのだ。ドアを開けた後、再び両手に紙袋を持ち、リビングまで持って行った。

 その時、俺は玄関の鍵を閉めていない。紙袋をリビングまで置いてから閉めるつもりだったのに、疲れと眠気ですっかり忘れていたのだ。

 今、浴室には人がいる。誰も家に連れてきていないのだとすれば、おのずと答えが見えてくる。閉め忘れた玄関から何者かが入ってきたのだ。

 途端、寝汗で汗ばむ体に急激に寒気が走った。世界で最も安息できるはずの空間に、招かれざる異物が潜んでいる。姿は見えないのに、止まらないシャワーの音がその存在を嫌でも知らせてくる。

 警察を呼ぶか?相手は不法侵入者だ。すぐに駆けつけてくれるだろう。

 携帯を掴み電話をかけようとしたが、すぐにその考えを却下した。部屋の隅に置いたリュック。あの中には矢田から受け取った違法な薬物が入っている。不法侵入であれば、盗品がないか疑われるだろう。警察に部屋の中をどこまで捜索されるか分からないが、ともかく今この部屋に招き入れるのはまずい。

 薄い布団を頭から被る。思案した結果、今取れる選択肢は2つあった。

 最も穏便なのはこのまま寝続けて侵入者が出ていくのを待つことだ。ここで危険が去るまでじっとしているだけでいいし、何より侵入者と対面しなくて済む。

 しかし、リスクがないわけではない。侵入者が金目の物を奪いにリビングまで入り込むかもしれない。その時俺は無防備にも布団にくるまっていることになる。目撃者を消すために手にかけてこられたら——想像するだけでぞっとする。

 確実な解決には侵入者を撃退するしかない。大きなリスクが伴うのは言うまでもない。はっきり言って俺は貧弱だ。だが、無防備な状態で手にかけられるよりはマシだ。

 シャワーの音はまだ止んでいない。他人の家だからと好き勝手使いやがって、とは思わない。こっちが考える時間を稼げるだけ好都合だ。

 ゆっくりと布団から這い出る。丸腰で挑むのは危険だ。武器になるものが欲しい。目をこらして周囲を探す。

 紙袋から何かが飛び出ている。小道具のショットガンだ。もちろん実際に撃てるわけないが、材質は硬いし、重量もある。鈍器として使うには申し分ないだろう。

 それを手に、廊下へ出る。すぐ左手が浴室だ。やはり浴室からシャワーの音が響いている。すりガラスのドアの先は真っ暗闇だが、そんな中でシャワーを浴びているのか?

 そもそも、相手は男なのか?女なのか?女であってほしい。決して下心ではなく、男だと腕力で敵わない可能性大だからだ。

 ショットガンを握りしめてじっと立つ。どうする?一気に扉を開けて殴りかかるか?シャワーを浴びているのだから、相手は丸腰だろう。武器を持っているこっちが圧倒的に有利だ。

 しかし、得体の知れない不安が首筋を掴んで離さない。こっちも相手の姿は見えないのだ。闇雲に振り回して当たらなかったら?暗闇の中から反撃されたら?人を殴った経験などないのだ。こんな俺が戦えるのか?

 今、扉一つ隔てた先にいるのは異常者だ。他人の家に無断で侵入する常識の通用しない人間。そんな人間とこれまでの人生で関わったことはない。漠然と怪物のイメージが付き纏って離れない。そんな奴が潜む密室に突入するのは、それこそ常軌を逸している。

 汗ばむ手が震える。とても足を踏み入れる勇気が持てない。延々と恐怖の時間に閉じ込められたような感覚に陥る。数時間前まで俺は飲み会で楽しくやっていたのに、どうしてこうなってしまったんだ。矢田のアホ面さえも恋しくなってきた。


 勇気を持つんだ!先が真っ暗な道も勇気が照らしてくれる!


 不意に矢田の言葉が甦る。そうだ、馬鹿で無遠慮でだらしがない矢田だが、どんなことにも臆せず踏み出せる。そんな勇気を俺は尊敬していた。先の見えない恐怖を、俺も勇気で照らすんだ。

 浴室のスイッチに手を添える。これだ。急に明かりが点けば、侵入者も目が眩んでひるむだろう。その隙にボコボコにしてやる。

 心の中でカウントダウンを唱える。3…2…1…。

 0を唱えるより先にスイッチを押し込む。すりガラスから浴室の明かりが漏れる。今だ。扉を一気に開け放った。

 中には…誰もいなかった。

 浴室は広くない。手前にタイル張りのスペース、奥に浴槽がある。大股で足を伸ばせば、入り口から浴槽の縁まで届く。シャワーヘッドは誰もいない浴槽へ向いて、水を注いでいるだけだった。


「は、はは…」


 思わず乾いた笑いが漏れる。何だ、結局のところ俺がシャワーの水を止め忘れただけじゃないか。自覚していたよりも酒に酔っていたらしい。さっきまで本気で恐怖を感じていた自分が恥ずかしくなってくる。


「まったくアホらしい。こんな、小道具なんか構えて。役者にでもなったつもりか?」


 誰に聞かせる訳でもないのに、自嘲と共に言葉がついて出る。まるで、飲み会で自虐ばかりしていたサークルメンバーと同じじゃないか。

 細い粒状の水が落ちるサーという音が絶え間なく響く。ああ、そうだ。さっさとこいつを止めよう。蛇口を捻ろうと浴室に足を踏み入れる。

 ——それを見た瞬間、心臓が鷲掴みにされたようにきゅっと縮まり、全身の血の気が引いた。

 入り口から見えなかった浴槽の底。そこに横たわる脚、腰、胴、肩——

 口と目が開いた矢田の顔は凍りついたように固まっていた。服を着ていて、シャワーから流れる水に浅く浸かっている。その水には大量の赤い血が浮き上がっていた。

 ——なんだ、これは?俺はまた、夢を見ているのか?

 シャワーの水が矢田に降りかかる。服にビチャビチャと跳ね、血と共に排水溝に流れていく。

 矢田は、死んでいるのか?そんなはずはない。ちょっと前まで馬鹿みたいに笑っていたじゃないか。

 警察、警察を呼ばないと。いや、駄目だ。薬物が見つかってしまう。矢田があんなもの寄越すからだ。おい矢田、聞いてるのか?お前のせいだぞ。勝手に人の家に上がって何してんだ。さっさと自分の家に帰れよ。

 オレンジの明かりが暗い影を落とす。湿気が汗ばむ肌にじっとりまとわりついて気持ち悪い。

 勇気を持つんだ!先が真っ暗な道も勇気が照らしてくれる!

 言葉が響く。しかし矢田は口を開けたままだ。

 サーという水音が絶え間なく響く。それがホワイトノイズのようで、耳障りなほどに大きくなり、頭の中を掻き乱す。そうだ、このままでは水道代がかさむ。早く、シャワーを止めないと。

 ——早く、この悪夢から覚めないと。



 通報を受けて、警察が到着したのは夜明け前のことだった。

 現場となったのは、吉川晴信の住む賃貸マンションの一室。部屋の浴槽から、若い男の遺体が発見された。遺体の身元は吉川と同じ演劇サークルに所属する矢田晃雄。事件のあった直前、吉川と共に演劇サークルの飲み会に参加していた。

 警察の捜索で、吉川の部屋から違法薬物を発見。それを受けて吉川は現行犯で逮捕された。

 警察は当初、吉川を殺人の容疑でも捜査を進めた。吉川は薬物を矢田から譲り受けたと認めたものの、殺害については否認。閉め忘れた玄関から何者かが侵入し、遺体を置いて行ったと一貫して主張した。

 その後、近隣住民への聞き込み調査で、吉川の主張を裏付ける証言を複数得られた。それは、深夜、道路で不審な人影を目撃したというもので、その人影は服を着ておらず、体が濡れていたと証言が一致している。近隣の道路は明かりに乏しく、性別や年齢を断定できるほどの情報は得られていない。

 警察はその不審な人物を殺人事件の容疑者として、今も行方を追っている。

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