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新しい季節と過行く季節

 夏の残暑も終わりに近づき秋を感じる季節となった。

筑後川の河原の草むらの中に寺坂喜三郎は寝そべっていた。

ぼおっと空を見ながら弥太郎の事を思い出していた。


「人は幸せだと思えるうちに死ぬものだな」そんな事を考えながら寺坂喜三郎は自暴自棄になっていた。

 

実は吹雪が再び姿を消してしまい、もう三ヶ月になるのである。


吹雪を見つけてからしばしばあの家を訪ねていたが職務の都合でひと月足らずであったが国を離れていたその間に吹雪もお静も消えてしまい、家も空き家と成ってしまっていた。


付近で畑仕事をしている者などにたずねるも、特に付き合いがあるでなし何も分からぬ。

遊郭の海老屋へ行っても駕籠屋に行っても皆首を横にふるばかりであった。

今度こそ八方ふさがりの万事休すである。

 

この日も、あてどもなく吹雪を探しに渡し舟で筑後川を渡ろうとした寺坂喜三郎であったが「どうにもならぬ」心が折れてしまった。


日が傾き空が夕日に染まり優しい風が流れた。

「あの日のようだな弥太郎」夏の疲れと吹雪への心労から寺坂喜三郎はうとうとと居眠りを始めた。

どれくらい寝たであろうか、目が覚めるととっぷり日が暮れていた。

 

「目が覚めた、喜三郎帰るわよ」

寺坂喜三郎が傍らを見ると、瀬戸口宗兵衛の三女のお桂が横に座っていた。

「なんだお桂か、弥太郎だったら良かったのに」

「誰よ弥太郎って」お桂は袖から手ぬぐいを出すと寝ぼけ眼の寺坂喜三郎のよだれと目やにをごしごしと拭いた。

そして寺坂喜三郎を立たせると服から枯草や埃を払いのけた。

「いつまでたっても手のかかる子ね」お桂がそう言うと「ごめんよお桂姉ちゃん」と寺坂喜三郎が答えた。

お桂がクスリと笑う、今はお桂と呼び捨てだが幼い頃は「お桂姉ちゃん」と呼ばれていたからである。

 

 寺坂喜三郎はお桂に袖を引かれ夜道をとぼとぼと家路についた。

「吹雪さんは見つからないの」夜空を見上げながらお桂が問いかけた。

「もはや一途の望みもない」寺坂喜三郎から大きなため息が漏れた。

「あとは達者でいてくれることを祈るのみ、もうそれしかしてやれることは無い」切ない声であった。


「喜三郎が吹雪さんの事を心配している様に、吹雪さんも喜三郎が達者でいてくれることを祈ってると思うよ、だから吹雪さんの為にも元気をお出し」お桂の言葉に、寺坂喜三郎の足が止まった。

お桂が振り向くと寺坂喜三郎が声を殺して泣いていた。


「吹雪も私が達者でいることを祈ってくれているのだろうか」


「当たり前でしょ」

「ほらお姉ちゃんにおいで、だれも見てないから、だれにも言わないから」お桂は躊躇なく寺坂喜三郎を抱きしめた。


寺坂喜三郎はお桂の胸で声を上げて泣いた、吹雪が居なく成ってから何度となく、人知れず涙を流したが、初めてちゃんと泣いた気がした。

お桂の身体からは幼いころと変わらぬ匂いがした。

母を知らぬ寺坂喜三郎にとって、お桂の胸は母の胸であった。



  ◇ ◇ ◇



 吹雪が寺坂喜三郎の前から消えて十年が過ぎていた。

寺坂喜三郎はお桂を妻に迎えていた。


お桂との間に三人の子をもうけ、夫婦中も良く穏やかな日々が続いていた。

そんなある春のあたたかい日のことであった。

 

寺坂喜三郎は脇目も振らず六ツ門の一品屋に急いでいた。

使いの者から渡された父からの手紙の中に「一品屋に大阪屋辰五郎殿が来られておる、直ちに出向け」と記されていたからである。

寺坂喜三郎にとって決して忘れることは出来ない「大阪屋辰五郎」が一品屋に来ている。

手紙を見た瞬間「何故だ」寺坂喜三郎は血の気が引いた。

 

寺坂喜三郎が六ツ門の一品屋に飛び込むと一人の老人と女中と思われる女性が待っていた。


「喜三郎」父の寺坂源九郎が寺坂喜三郎を手招きすると、それに気づいた老人がゆっくりと振り向いた。

老人はまぶたが垂れた目を見開き「寺坂喜三郎様でございますか」と問うてきた。

寺坂喜三郎は息を切らせながら老人の目を覗き込んだ、そしてつばを飲み込むと「寺坂喜三郎ですと」答えた。


老人は「長谷川徳次郎と申します、吹雪を引き取りました大阪屋辰五郎とは私の事でございます」と深々と頭を下げた。

そして老人を支えるように立っていた女中が「寺坂様ご無沙汰をしておりました、お静でございます」と目を細めた。


「確かに吹雪の世話をしていた下女のお静だ」寺坂喜三郎はお静を凝視した。

そして「吹雪は今何処に」寺坂喜三郎は長谷川徳次郎には目もくれずお静に詰め寄った。

お静は悲しげに首を横に振った。

 

吹雪はすでにこの世の人では無かったのである。

いや十年も前に亡くなっていたのである。

 

 お静の話によると、寺坂喜三郎が職務で国を離れていたわずかの間に悪い夏風邪にかかりポックリと死んでしまったと言う。

お静は「吹雪様はうわごとのように寺坂様が吹雪様を探し出し会いに来てくれたことを嬉しそうに話されながら・・・・」十年前の吹雪の最後を泣きながら話してくれた。


 長谷川徳次郎と名乗る老人が「吹雪の形見でございます、どうぞお納めください」と紫色の風呂敷に包んだ木箱を寺坂喜三郎に手渡した。


木箱の中には見覚えのある銀のかんざしが一本入っていた。

かつて、寺坂喜三郎が吹雪に送ったかんざしである。


「なぜ、今頃になって」寺坂喜三郎が問いただすと「吹雪様から寺坂様には知らせないでほしいと言われましたので」とお静が答えた。


「吹雪様はきっと寺坂様に忘れて欲しくなかったのでしょう、少しでも長く寺坂様の心の中に居たかった、物わかりの良い吹雪様が最後にわがままを言われたのだと思います」そう言いながらお静は眉をひそめ口元をかくした。

 

 長谷川徳次郎はやましい心で吹雪を見受けした訳では無いという、金の無心に来た父親から吹雪を助けたい、ただそれだけであったというのだ。

「吹雪はこんな爺の体を気遣ってくれる本当に優しい娘じゃった」長谷川徳次郎がそういうと寺坂源九郎がうなずいた。

 

「私はあの子が好きでした、だからそばにいてほしかった、ですがいずれは誰か良い人を世話してやるつもりでしたがこんな事になってしまった」

長谷川徳次郎は悲しい目をしてつぶやいた。


長谷川徳次郎は吹雪が亡くなり四十九日が過ぎたころ、お静から寺坂喜三郎の存在を聞いたが「吹雪の最後の頼みなれば」そう思い定め、寺坂喜三郎へ吹雪の死を伝える事を思いとどまったと言う。

だが長谷川徳次郎もいよいよ晩年を迎え「唯一の心残り」であった寺坂喜三郎への詫びを言いに来たというのだ。


「良かれと思って吹雪を見受けしましたが、結果的に二人を引き裂いてしまった」と深々と頭を下げる長谷川徳次郎に寺坂喜三郎は攻める事無く、優しい笑顔で「作用でございましたか、しかと承りました」と頷いて返した。


 

 町駕籠が呼ばれ長谷川徳次郎が一品屋を去る時「あの世で吹雪に叱られそうじゃわい」そう言って苦笑いを見せた。

見送りに出た寺坂喜三郎が「なら、その時に喜三郎は良い妻と三人の子に恵まれ幸せにやっているとお伝え下さい」とこちらも苦笑いで返した。


長谷川徳次郎の目から涙が溢れだした、そして寺坂喜三郎の手をとると「幸せなのですね、ありがとう、ありがとう」何度も礼を繰り返し、そして駕籠に乗って帰っていった。


寺坂喜三郎は駕籠が見えなくなるまでその後姿を見送った。

見送りながら小声で歌を歌っていた。

むかし吹雪がよく歌い聞かせてくれた歌であった。



  ◇ ◇ ◇



 大阪屋辰五郎が、いや長谷川徳次郎が一品屋に現れてから数か月が過ぎていた。

この日、寺坂喜三郎は妻のお桂を連れて吹雪の墓参りに来ていた。

これまで吹雪の墓参りは寺坂喜三郎が一人で行っていたが「今日は私もついて行くから」お桂にせがまれたのだ。

 

 吹雪の墓はよく手入れされていた「私はあの子が好きでした」長谷川徳次郎の言葉に嘘は無いと寺坂喜三郎は思わされた。

 

 二人で吹雪の墓に手を合わせながら寺坂喜三郎は「吹雪のそばには吹雪を気遣い吹雪を好いてくれる人が沢山いたのにどうして幸せになれなかったのだろう」と誰とにもなく問いかけた。

「早くに死んじゃっただけで不幸じゃないよ、喜三郎にも出会えたし」お桂は少し不機嫌に答えた。


 ご本堂へ参ったあと「お桂、もう一軒参りたいお寺があるのだが」寺坂喜三郎はお桂を弥太郎が眠る投げ込み寺に誘った。

 

「弥太郎さんて亡くなってる人だったの」お桂は驚いた。

これまで何度か寺坂喜三郎の口から弥太郎の名が漏れたことがあったが、お桂が弥太郎のことを訪ねても、寺坂喜三郎は多くを語ろうとしなかった。


投げ込み寺の無縁仏の墓に手を合わせながら寺坂喜三郎はお桂に弥太郎の事を話して聞かせた。

 

お桂は喜三郎の話しを聞きながら長谷川徳次郎が六ツ門の一品屋に現れた日の事を思い出していた。

十年間の時が流れていたにせよ、吹雪を連れ去った長谷川徳次郎を責めることなどせず逆に気遣う喜三郎の対応を不思議に思っていたのであるが「その理由が」喜三郎の心の中には「自分に出会わなければ弥太郎は自ら命を絶つような事はしなかったかもしれぬ」と言う思いがあるからなのでわないかと考えた。


思いとは裏腹にかけ離れた結果があることを喜三郎もまた経験しているのだ。

 

 墓参りの帰り道、お桂は寺坂喜三郎の着物の袖の端を握り締めていた。

寺坂喜三郎が「着付けが崩れる」と何度襟を直しても離そうとしなかった。

「いい加減に放しなさい」喜三郎が少し強く言い放つと、お桂は口をへの字にして喜三郎をにらんだ。

そして「喜三郎は悪くないわ、吹雪さんの事も、弥太郎ちゃんの事も」それだけ言うとお桂の目からポロポロと涙がこぼれた。


「泣く奴があるか」あわてた寺坂喜三郎はお桂に手ぬぐいを手渡すと近くにあった茶店に連れ込んだ。

店の者も気を使ってくれたのだろう、串団子とお茶を注文すると他の客を差し置いてすぐに運ばれてきた。


長椅子に座り二人並んで串団子をほおばっていると、お桂は落ち着いたのか「このお団子美味しいね」照れくさそうに喜三郎に笑顔を見せた。


子供らの土産に串団子を包んでもらい茶店を出るころには、お桂のいつものおしゃべりが始まっていた。



 

 日が傾き陽射しが優しくなったころ、「あら、ツクツクボウシ」お桂がそう言って空を見上げた。

何処かで蝉のツクツクボウシが泣き始めたようだ。


ツクツクボウシは別名「秋つげ蝉」と言う。 

「秋の訪れ」である。

扇風機や冷房など無かった時代、夏の暑さに疲れ果てた人々は心から秋の訪れを待ち望んでいた。

夏の疲れを癒す心地よい眠りと実りの季節の到来である。


「やっと涼しくなるね」喜三郎の背中でお桂がつぶやいた。

ふり向きながら寺坂喜三郎も空を見上げた。

秋色に染まりかけた空に小さくなった入道雲が浮かんでいる。


「やっと涼しくなるな」そう言いながら入道雲を見つめる寺坂喜三郎の瞳はどこか寂しげで、過行く夏を惜しむかのようでもあった。


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