町駕籠と鎮守の森の一軒家
吹雪が見受けされてひと月ほど経っていた。
その間寺坂喜三郎はあてどもなく吹雪を探し回ったが何もわからなかった。
唯一の手がかりは吹雪を引き取った「大阪屋辰吾郎」なる人物であったが、その大阪屋辰吾郎なる人物がどこにもいないのだ、遊女を見受けするほどの金持ちなのだからそのようなはずは無いのである。
途方に暮れた喜三郎は、いつしか遊郭の海老屋の裏手に立ち、何気に吹雪の持ち部屋だった部屋を眺めていた。
勿論そこに吹雪の姿は無く、すでに他の遊女の持ち部屋と成っていた。
そんな失望のどん底に居る寺坂喜三郎に男が声をかけて来た。
「旦那困りますよ」
海老屋の手代の祐さんである。
「お客様や姉さん方が気味悪がっておられます」と腰をかがめていた。
寺坂喜三郎は「これは済まなかった」と軽く頭を下げるとすごすごとその場を立ち去ろうとしたが足がもつれて尻もちを付いてしまった。
「やれやれ」気の毒過ぎる寺坂喜三郎を放って置けず、祐さんは喜三郎を蕎麦屋に案内した。
最初は食欲が無いなどと言っていた寺坂喜三郎であったが、食べ始めるとガツガツと汁蕎麦を二人前も平らげた。
「うまい」青白かった喜三郎の顔に血の気が戻り、口元から笑みがこぼれた。
海老屋の祐さんは呆れながら「ちゃんと食事をされているんですか」と寺坂喜三郎の顔を覗き込んだ。
寺坂喜三郎はそれには答えず「大阪屋辰吾郎」はやはり偽名か。
独り言のように呟いた。
「へい、店ではそう名乗っておられましたが偽名でしょうね」海老屋の祐さんは何気に言い放った。
遊郭で偽りの名前を名乗る客は少なくない。
女が源氏名なら男は偽名で当たり前なのである。
「吹雪姉さんの事はお忘れに成った方が良い」手代の裕さんはポツリと呟いた。
それを聞いた寺坂喜三郎はギロリと祐さんを睨んだ。
だが祐さんはそれを気にもとめず話しを続けた。
「吹雪姉さんが見受けされてもうひと月、その間何も連絡が無いという事は吹雪姉さんは寺坂様を忘れる決心をなさった、そう言う心積もりではございませんか」
さらに「寺坂様、失礼は承知で申し上げますが、私が女なら寺坂様(下級武士)に嫁いで苦労するよりも金持ちの妾になって良い暮らしをする方をえらびますよ、毎日白いおまんまを食べて綺麗な着物をきて、面倒事はすべて下女に任せて、そうじゃございませんか」
寺坂喜三郎は黙り込み海老屋の裕さんの話を聞いていた。
黙り込んだ寺坂喜三郎の様子を見ていた裕さんはすこし間をおいて優しい声で「どうでしょう寺坂様、久しぶりに海老屋で遊んで行きませんか、それで吹雪姉さんの事は忘れましょうよ、もちろんお代は勉強させて頂きます」と寺坂喜三郎を海老屋に誘った。
寺坂喜三郎はゆるりと立ち上がり蕎麦代を置くと「気を使わせたな祐さん」作り笑顔を見せると蕎麦屋を出て行った。
海老屋の手代の祐さんは申し訳ない気持ちで寺坂喜三郎の背中を見送った。
これまでに何度となく寺坂喜三郎に吹雪の事を聞かれたが何も答えてはいない。
海老屋からなにも知らされて居ないし、あえてこのような話しは聞かないようにしていた。
知っていても答えられぬ立場であるから知らない方がよいのだ。
手代の祐さんは寺坂喜三郎が揺らした蕎麦屋ののれんを見つめながら、なにげに吹雪が見受けされた日のことを思い出していた。
吹雪は最後に「祐さん今までありがとう、祐さんにはいくら感謝してもしたり無い」そう言って両手を取って笑いかけてくれた。
だが笑顔とは裏腹に、あの時の吹雪の暗い瞳が今もやるせない。
祐さんは深いため息をついた。
その時、小脇にざるを抱えた男が蕎麦屋の前を通り過ぎて行った。
それを見た祐さんは「何で気が付かなかったんだ」勢いよく駆け出し、先に蕎麦屋を出た寺坂喜三郎に追いつき、前に回り込んだ。
そして「旦那、町駕籠です、あの日吹雪姉さんは丸飛屋の駕籠に乗って行かれました」と声を荒げた。
寺坂喜三郎は目を見開き無言で裕さんの手を握り締めた。
寺坂喜三郎は町駕籠の丸飛屋に一人で向かった。
海老屋の裕さんはお供を申し出たが帰ってもらった。
客の事は詮索しない、客の情報は口にしないは遊郭の決まり事である。
店の信用と裕さんの立場を考えれば当然の事であり、町駕籠の丸飛屋の事でさえ本来なら口にしてはいけないのだ。
それに寺坂喜三郎は丸飛屋の店の場所を心得ていた。
寺坂喜三郎が町駕籠の丸飛屋に着くと、墨で大きく円を描き、円の中に「飛」と書かれた腰高障子戸は開け放たれ、土間に男が一人フンドシ姿で片膝を立てて座っていた。
寺坂喜三郎が店の中に入ると「白山町の旦那じゃございませんか、お熱うございますね駕籠ですかい」とその男は気さくに声を掛けてきた。
幸にも駕籠かきの男は寺坂喜三郎の顔をおぼえ知っていたのである。
下級武士の寺坂喜三郎に駕籠を雇う金など無い、しかし取引先からの接待を受けたおりに時たま町駕籠を呼んでもらえる事があるのだ。
駕籠かきの男は喜三郎に好意的であった、駕籠かきの収入は決して高くない、売り上げのほとんどは元締めが取り、残りを相方と分けるのである。
故に客からの心付けが無ければ生活は成り立たないのである。
そして下級武士の給金もまた高い物ではない、その給金は腕の良い職人に劣る。
喜三郎の屋敷と身なりを見れば、裕福な暮らしでないことは駕籠かきにも想像は付く、それでも駕籠を降りる時感謝を述べ心良く心付けをくれた寺坂喜三郎の事を駕籠かきの男はおぼえていたのである。
寺坂喜三郎が遊郭の海老屋から乗った遊女の事を聞くと、男はひと月ほど前に見受けされる遊女を駕籠に乗せたと言うのだ。
だがここでも「旦那、申し訳ありませんがお客様の事は」である。
寺坂喜三郎は駕籠かきの男に一分銀を握らせ「頼む、私はその女と夫婦になる約束をしていたのだ」男を見つめた。
駕籠かきの男は寺坂喜三郎に背中を向け、「最近独り言が多くていけねい、そう言えばひと月ほど前に遊女をのせたが良い女だった、筑後川を渡って・・・・」
駕籠かきの男が話を終えると「かたじけない」寺坂喜三郎は礼を述べ駕籠かきの男の背中に頭を下げると丸飛屋から飛び出した。
駕籠かきの男は一分銀を掲げながら走り去る寺坂喜三郎を笑顔で見送った。
◇ ◇ ◇
町駕籠の駕籠かき男に聞いた話によれば吹雪は川向うに居るらしい。
そうと聞いた寺坂喜三郎は豆津の船着き場を目指して脇目も振らず走っていた。
だがここに来て寺坂喜三郎の足は次第に重くなって来た。
「吹雪は私が会いに行くことを望んで居るのだろうか」である。
海老屋の手代の裕さんに言われるでもなく、寺坂喜三郎にもその不安が無い訳では無かった。
吹雪を見つけたとして妻として迎えることは出来るのだろうか。
吹雪は大阪屋辰五郎の妾と私の嫁のどちらを望んでいるのか。
たとえ私の妻に向える事が出来たとして、初めは良くともいづれ後悔するのではないか。
何度も書いたが下級武士の生活はとても裕福とは言えぬ、家計の足しに庭で野菜をこさえる者も珍しくない。
それに比べ大商人の妾ともなれば何不自由なく暮らしていける。
「吹雪の立場なら」そして「吹雪の為を思えば」である。
吹雪に会える喜びより不安とこれまでの疲労が勝り寺坂喜三郎の息は乱れ体は鉛のように重くなり足が止まった。
その時、豆津の船着場から船を出すことを告げる船頭の出発の声が聞こえて来た。
「いかぬ、それを白黒させる為にも吹雪に会わなければ、今さら何を迷う必要があるのだ」
寺坂喜三郎はかぶりを振ると再び走りだした。
だが時遅く、寺坂喜三郎が船着場に着いた時には渡し船は船着場を離れ向こう岸に向かっていたのである。
それを見た寺坂喜三郎は全身の力が抜け膝をついた。
深いため息をつくと、うなだれたまま船着場の柱に手をかけ立ち上がろうとしたが、泥か苔かでツルリと手が滑りドボンと川に落ちてしまった。
「痛っ」川に落ちる時に背中を何かに強くぶつけてしまったようで身体がしびれて手足に力が入らない。
「どうした事だ、体が動かん」息を切らしていた寺坂喜三郎はあっという間に川の水を飲み、助けを呼ぶ事も出来ず沈んでしまった。
そして弥太郎と出会ったのである。
◇ ◇ ◇
寺坂喜三郎は弥太郎の死をきっかけに吹雪に会う決心を固めた。
喜三郎が豆津の船着場から渡し舟に乗り込むと、すぐに渡し舟は船着場を離れた。
寺坂喜三郎は弥太郎に助けられた川辺を振り返ると「行ってくるぞ弥太郎」ボソリとつぶやいた。
筑後川を渡れば筑後の国から肥前の国へと国が代わる。
肥前の国へ渡ったが茶屋の一見も見当たらない。
渡し舟を待つ客の為に粗末な小屋が一つポツリと立っているだけである。
その後ろには田畑が広がり、田畑の中にまばらに農家が見える。
寺坂喜三郎は土手に上がり駕籠屋に教えられた方角を見ると遠くに木立が見えた。
「あれに相違ない」
駕籠屋の独り言によれば、遊女を送り届けた家の近くに鎮守の森があるはずである。
寺坂喜三郎は鎮守の森を中心に農家を一軒一軒それとなく覗いて回った。
すると、まばらに立っている藁ぶきの農家の中に一軒だけ小ぢんまりとした瓦屋根の家が有るのを見つけた。
元は農家と思われるが手を入れたのだろう。
きれいにツゲの生垣で囲まれており敷地の入り口には格子戸があった。
「駕籠屋の話が本当なら、ここに違いない」寺坂喜三郎はしばらく遠巻きに家の様子を伺っていたが人の気配がまるで無い。
家のそばまで近寄り、息を殺して聞き耳を立て、しばらく立ち尽くしていたが「出直すか」そう思い定めたとき、だれもいないと思っていた家の障子が開いた。
下女と思われる少女が一人出てきて寺坂喜三郎を見つけると怪訝そうな顔をしながら小さく頭を下げた。
「どうかした」家の奥から女の声がした。
「吹雪」寺坂喜三郎は家の奥に向かって声をあらげた。
その声の主が吹雪であることに寺坂喜三郎は迷いがなかった。
少女を押しのけて女が顔を出した。
「喜三郎様」吹雪である。
寺坂喜三郎はすぐそばにある格子戸に回ることなく生垣を押しのけ庭に入り、吹雪は縁側から裸足で庭に駆け降りた。
「心配したではないか」寺坂喜三郎が腕を広げると吹雪は寺坂喜三郎の胸に顔をうずめた。
「喜三郎様ごめんなさい、わたしは、わたしは・・・・」あとは涙声で聞き取れぬ。
寺坂喜三郎はあの日の夫婦になる約束が偽りで無かった事を確信した「よいのだ吹雪、あの日の約束が誠であったなら、それで良いのだ」寺坂喜三郎の目からも大粒の涙が溢れていた。
二人は抱き合い、再会を喜び合った。
やがて吹雪の白く細い腕が寺坂喜三郎の首に回り、寺坂喜三郎はさらに力強く吹雪を抱き寄せた。
口づけを交わそうとしている二人に「吹雪様、行けません」割って入った少女がいた。
顔を真っ赤にした下女の「お静」である。
◇ ◇ ◇
縁側に座る二人にお静がお茶を運んできた。
「ありがとう」今までになく吹雪の声がはずんで聞こえた。
最初は寺坂喜三郎を見張るように見ていたお静であったが、今は吹雪の幸せそうな横顔を見ていた。
いつもどこか寂しげな吹雪様が、今はこんなにも明るく色々な表情を見せて笑っている。
頬が紅潮し何時もより美しく、そして可愛く見えた。
お静は吹雪の事が好きであった。
未熟な自分を叱る事もなく時には手ほどきしてくれ「吹雪様が本当のお姉ちゃんなら良いのに」と思っていた。
お静は二人のじゃまをしているであろう自分がいたたまれなくなり「吹雪様、用事がありますので出かけて来ます、帰りは夜に成ります」と言うと吹雪の返事も聞かずにそそくさと家を出た。
すぐに吹雪が追ってきて「お静、これで何か食べなさい、あまり遅くならないように」そう言ってお小遣いをくれた。
お小遣いをもらったは良いが、この辺りに気の利いたお店などは無い。
「少し遠出になるけど町まで行って、いつか吹雪様と入った甘味屋で甘い物を食べよう、時間つぶしに丁度良いし」とお静はとぼとぼとあぜ道を歩き始めた。
お静はこれまでの吹雪の生涯を知らない、だが幸せであったとは思っていなかった。
でも「思いが通じ合った人が居たんだ」先ほどの吹雪の幸せそうな横顔を思い浮かべ心から安堵した。
◇ ◇ ◇
日が沈み月が昇るころ、お静は家の前まで帰ってきた。
「喜三郎様と言う人がまだ家に居たら入ってはいけない」お静はそう思い、様子を伺いながら恐る恐る庭に回ると、灯りもつけず吹雪が一人縁側に座って月を眺めていた。
月に照らされた吹雪は美しかった。
お静は蚊の鳴くような声で「吹雪様」と名前を呼んだ。
吹雪はお静を見つけるとニコリと笑い、手招きをしてお静を自分の横に座らせ「こんなに暗くなるまで何処に行ってたの」そう問いかけると優しく抱きしめてくれた。
お静は嬉しくて吹雪に抱きつき顔をうずめた。
だが同時にお静は「吹雪様がいつもの寂しい吹雪様に戻ってしまった」と思った。
お静は昼間の吹雪の笑顔を思い出し「喜三郎様と言う人がまた来れば良いのに」と心の中で呟いた。