川辺の童 弥太郎
筑後川、熊本県阿蘇郡の瀬の本高原を水源とし有明海に灌ぐ言わずと知れた九州地方最大の河川である。
江戸時代、筑後川の河口より人の足で半日ほどさかのぼったこの辺りは、筑後国と呼ばれ久留米藩が治め、川辺に笹原城が建てられていた。
この辺りは現在でも川幅が400m近くもあり、明治になり常設舟橋が出来るまでは渡し舟が川向うへ渡る唯一の手段であった。
かつて、ここらにも渡し船の船着き場があり、町の人々から「豆津の渡し船」と呼ばれていた。
元禄4年(1691年)4月
旧暦の4月は初夏である、初夏と言えば清々しく聞こえるが九州では陽射しが肌をチクチクと刺すような、真夏とはまた違った暑さがある。
この陽射しの中、豆津の船着場で息を切らして渡し舟を睨んでいる若い男の姿があった。
急ぎの用事が有って渡し舟に乗ろうと走って来たのだろうか、大量に汗をかき、片ひざをついて肩で息をしている。
だが渡し舟は今し方出て行ってしまったようである。
この男、名を「寺坂喜三郎」と言い、笹原城藩主有馬頼元の家臣である。
寺坂喜三郎は深いため息をつくと、うなだれたまま船着場の柱に手をかけ立ち上がろうとしたが、泥か苔かでツルリと手が滑りドボンと川に落ちてしまった。
「痛っ」川に落ちた拍子に背中を何かに強くぶつけてしまったようで、身体がしびれて手足に力が入らない。
「どうした事だ、体が動かん」息を切らしていた寺坂喜三郎はあっという間に川の水を飲み、助けを呼ぶ事も出来ず沈んでしまった。
「俺は死ぬのか」そんな考えが寺坂喜三郎の脳裏をよぎった。
そして「吹雪」そうつぶやくと寺坂喜三郎の意識は遠のいて行った。
その時にである。
「何やってんだよお侍さん」子供の声がした。
寺坂喜三郎は肩をつかまれ水面から顔だけ引っ張り上げられた。
「こんな浅瀬で死のうなんて、どれだけ努力家だよ」
寺坂喜三郎はゴホゴホと水を吐いた。
なんて事は無い、大人なら川底に座れば顔が出るほどの浅瀬である。
「お侍さん死にそうな時になににやけてんだよ、女の事でも考えてたのかい」子供は笑った。
図星である、冷たい川の中に居るにも関わらず喜三郎は赤面するのを覚えた。
よろよろと川岸に這い上がり寺坂喜三郎は改めて子供に礼を言った。
「夏場で良かったよお侍さん、真冬だったら凍えてたよ、助ける方の身になってこれからも身投げは夏場に頼むよ」と、なかなか手厳しい。
「お主の名前は何と言うのだ」寺坂喜三郎は恩人の名前を聞いた。
子供は「日吉神社の弥太郎、皆にはそう呼ばれているよ」そう答えた。
「お主はあの日吉神社の者か」寺坂喜三郎は瞠目した。
日吉神社とは平安時代後期に創建された長い歴史をもつ神社であり、良縁結びや子授けに安産、また若返りのご利益もあるとして特に女性に崇敬されているこの辺りでは一番大きな神社である。
「そんな訳ないよ」弥太郎は再び笑った。
日吉神社から1町(約109m)ほど離れた所に放置されている荒れ寺があり、弥太郎はそこで寝泊まりしていると言う。
改めて弥太郎の風貌を見れば、ガリガリに痩せた体に垢染みた顔、着物は擦切れ泥水が滴っている。
(食詰者か)と喜三郎は思ったが顔や言葉には出さない。
ふびんに思い「よし、命を助けてもらったのだからお礼をしたい、なにかほしい物とか、食べたいものは無いか」目線を落とし寺坂喜三郎は優しく弥太郎に尋ねた。
「うーん」弥太郎は考えているような素振りをしたが、すぐに目を開けニヤリと笑い「あれが食いたい」と、うなぎ屋を指さした。
うなぎと聞けばかば焼きや丼を思い浮かべる人も多いと思うが、この辺りでうなぎと言えば「せいろ蒸し」の事である。
うなぎのせいろ蒸しとは、タレをまぶしたご飯に焼いたうなぎと錦糸卵を乗せて蒸したこの辺りの名物料理であり、現在の福岡県柳川市にあるうなぎ屋の老舗「元祖本吉屋」の初代主人が、うなぎが冷えぬようにと江戸のかば焼きに工夫をこらし考案した料理と言われている。
「よし、付いてまいれ」寺坂喜三郎は弥太郎を連れ、なじみのうなぎ屋に顔を出した、と言ってもこの濡れネズミでは正面からうなぎ屋に入る訳にはいかぬ。
寺坂喜三郎は裏に周り勝手口から顔を出し「女将、女将わたしだ」と、たまたま居合せたうなぎ屋の女将を手招きした。
女将は「あらま」最初は驚いたが、ずぶ濡れの二人を笑いながら迎え入れてくれた。
女将は手ぬぐいと浴衣を用意してくれたまでは良いが、弥太郎の着替えを手伝いながら事の成り行きを色々聞き出した様で、そのうち衝立の陰から女将の含み笑いが聞こえてきた。
「おい弥太郎(余計な話を)」寺坂喜三郎が衝立から二人を覗き込むと女将と目と目が合った。
女将の含まぬ笑い声が聞こえてきた。
楽しそうな女将に案内され個室に通してもらうと「おれこんな所は初めてだ」と弥太郎は押し入れを開け閉めしたり、行灯をのぞき込んだりと落ち着かない。
そうこうするうちに女将がお茶をはこんできた。
女将はお茶を並べながら「寺坂様、弥太郎ちゃんはどこのお子様ですか」とたずねてきた。
垢染みてガリガリに痩せた弥太郎の姿を見れば当然気にもなるだろう。
寺坂喜三郎は「川で助けてもらった礼にうなぎをご馳走に来ただけで詳しい事は何もしらんのだ」と答えた。
女将は「弥太郎ちゃんのお父さんやお母さんは何をされてる方なの」と直接弥太郎に話を聞き始めた。
当然寺坂喜三郎も聞き耳を立てる。
弥太郎の話によると、父親は小さい時に死んでしまい、母親が一人で弥太郎と弟を育てていたがたいそう貧しい暮らしだったらしい。
それで、十歳の時に材木問屋に奉公に出された。
その後しばらくして母親は病死し、弟は遠くの親戚に引き取られ、弥太郎は独り取り残されたと言う。
当の弥太郎は奉公先の材木問屋の番頭に一人意地の悪いのが居て相当イジメられたらしく、母親が亡くなるとさらにイジメがひどくなりとうとう我慢出来ずに逃げ出してしまい、今に至るらしい。
「可哀そうに」女将はそう言うと弥太郎を抱きしめた。
女将のふくよかな胸に半分顔を埋めて弥太郎は固まってしまった。
そうこうしているうちに「上がったよ」厨房の方から声が掛った。
女将は厨房に戻ると、うなぎのせいろ蒸しとうなぎの白焼きをお盆に乗せて戻ってきた。
うなぎのせいろ蒸しと小鉢を弥太郎の前に並べ「お食べなさい」と目を細めた。
弥太郎は「熱い熱い」と言いながら嬉しそうにうなぎのせいろ蒸しを食べ散らかした。
「あらあら」そんな弥太郎を嫌な顔せず女将は面倒を見ていたが、他の客が来たので案内に席をたった。
寺坂喜三郎はうなぎの白焼きを肴に酒を飲みながら弥太郎を笑って見ていたが胸の内は複雑であった。
しばらくして女将が再び顔を出した。
手に鯉のあらいを盛った小皿を持っている。
鯉のあらいとは薄く切った鯉の刺身を冷たい水で締め酢味噌やわさび醤油で食べる鯉料理の一種で、夏が旬とされている。
「弥太郎ちゃん、これもお食べなさい」と女将は鯉のあらいを弥太郎の前に差し出した。
それを見た寺坂喜三郎は「女将おれも早くに母親を無くして淋しい思いをして来たのだ」と自分の身の上を話した。
女将は「もう、うちの人には内緒ですよ」と膝で立つと寺坂喜三郎を抱きしめようとしたが「いや、ちがう鯉のあらいの方だ」寺坂喜三郎は大慌てで飛びのいた。
弥太郎と女将は大笑いである。
「ほら寺坂のおっちゃん半分あげるよ」弥太郎は鯉のあらいが乗った小皿を寺坂喜三郎の前に差し出した。
「気前がいいな、遠慮なく」寺坂喜三郎は鯉のあらいを口に運ぶと「うまい、熱いのをもう一本たのむ」空になったお銚子をうなぎ屋の女将に差し出した。
◇ ◇ ◇
寺坂喜三郎と弥太郎がうなぎ屋を出ると、すでに日は暮れていた。
夕焼けが空と川面を赤く鮮やかに染め上げていた。
昼間は真夏を思わせるほど暑くとも、そこは初夏である。
日が沈むとすっと気温がさがり、ほてった体に心地よい風が吹いていた。
「心地よい風だな」と言う寺坂喜三郎の言葉に「そうだね」と弥太郎はそっけなく答えた。
うなぎ屋を出てから弥太郎は寺坂喜三郎の顔を見ようとはしなかった。
ばつが悪いのだろうと寺坂喜三郎は思った。
うなぎ屋を出る時女将が弥太郎の浴衣の乱れを直してくれたのだが、その時弥太郎は女将の胸に顔を埋めた。
(母が恋しいのか)弥太郎はまだ小さい、無理もない、いや当然だ、寺坂喜三郎は見ぬふり気づかぬふりをして先に店の外に出て弥太郎を待った。
下を向いてうなぎ屋から出てきた弥太郎に「今日のうなぎは特別に旨かったぞ、また一緒に食いに来よう」と寺坂喜三郎が声をかけると弥太郎はコクリとうなづいた。
何も語らず二人は筑後川のほとりを歩いていたが寺坂喜三郎の歩みが次第に遅く成りそのうち止まってしまった。
寺坂喜三郎は対岸を見つめて微動だにしない。
「寺坂のおじさん」弥太郎が呼ぶと寺坂喜三郎は静かに振り向き優しく弥太郎の肩に手をおいた。
「弥太郎お前はまだ若いから何度でもやり直しが出来る、私が働き口を探してやるからもう一度働いて見ぬか」
弥太郎が小さくうなづく。
「そうか」寺坂喜三郎もまたうなづいた。
再び無言で歩き始めたが、そのうち弥太郎が手を伸ばし寺坂喜三郎の手を取った。
寺坂喜三郎が弥太郎を見ると、弥太郎はうつむいている。
弥太郎の心の内は分からぬが、弥太郎の小さな手をにぎり返すと寺坂喜三郎の瞳に熱い物が込み上げてきた。
弥太郎にそれを気づかれまいと寺坂喜三郎もまた顔をそむけてしまった。
豆津の船着場が見えてきた。
「寺坂のおじさん、うなぎ旨かったよ、またね」そう言うと弥太郎はにこやかに笑い、元気に走り出した。
時おり振り向き手を振る弥太郎に、寺坂喜三郎もそのつど手を振って答えた。
◇ ◇ ◇
溺れているところを弥太郎に助けられてから数日後、寺坂喜三郎は弥太郎が寝泊まりしている荒れ寺を探していた。
寺坂喜三郎は笹山城の改修工事の手伝いをしており、仕事がら口入屋との付き合いがある。
弥太郎に良い働き口が無いか顔見知りの口入屋に相談したところ、「寺坂様が保証人と成ってくださるならお引き受け致しましょう、一度その弥太郎さんとやらを連れてきて下さいまし」と聞き入れてくれたのである。
口入屋とは現在の職業安定所、ハローワークのようなところで正式には「人宿」と言う。
「かたじけない」口入屋に礼を言うと寺坂喜三郎はその足で弥太郎を探しに来たのだが、弥太郎から聞いた荒れ寺が見当たらない。
困り果てて目印の日吉神社まで戻って見るとムシロを引いて座っている物乞いの年寄りが目に入った。
寺坂喜三郎はそそくさと物乞いに近寄りムシロの前に置かれたお椀に小銭を入れながら「弥太郎と言う名の子供を探しているのだがご存じないでしょうか」と丁寧に訪ねた。
物乞いは寺坂喜三郎を見上げ「首を吊って死んだよ」と一言答えた。
寺坂喜三郎は事態を飲み込めず、物乞いに改めて弥太郎の歳や背丈や顔立ちを事細かに伝えようとしたが「旦那様でございますね、弥太郎にご親切にして下さったのは、彼奴は本当に死んだのでございますよ」
物乞いの年寄りは言葉を被せた。
「本当に弥太郎は死んだのですか」寺坂喜三郎は釈然としない。
「アイツはこないだ良い浴衣を着て帰って来ましてね、うなぎを食べたとか店の女将さんがおっ母さんみたいだったとか、それは嬉しそうに」物乞いの年寄りは顔をしかめた。
「旦那様、私ら乞食などはどうあがいても野垂れ死に以外にございません。どうせろくでもねえ死に方をするなら、楽しかった幸せだと思えた時に死んでしまえ、そうでございましょう」
「弥太郎はきっと嬉しくって今死のうと思ったんでございますよ」
寺坂喜三郎は言葉を無くした。
現在日本では人が亡くなるとどんなに遠くともそのご遺体は家族のもとに運ばれる、しかし江戸時代では旅の途中など遠方で人が無くなった場合はその土地にあるお寺で供養されていた。
亡くなった人が通行手形などを持っていれば家族のもとに無事供養されたとの連絡が届き、それで家族も納得していたが、身元が分からない行き倒れや引き取り手が無いご遺体は通称投げ込み寺と呼ばれるお寺に運ばれ無縁仏として供養されていた。
寺坂喜三郎は物乞いの年寄りに聞いた投げ込み寺に弥太郎を訪ねてみたが弥太郎はすでに埋葬された後だった。
住職に案内され無縁仏の墓の前まで行って手を合わせたものの寺坂喜三郎には弥太郎がそこに眠っている実感がわかなかった。
住職にお布施として僅かながらの金を包むと、寺坂喜三郎は弥太郎と出会った川辺までとぼとぼと歩いた。
そこで川面を見つめながら今は亡き弥太郎に問いかけた「お前それで良かったのか」
あの日の弥太郎の笑顔と同時に、寺坂喜三郎は弥太郎の生い立ちを思い出していた。
「父親は小さい時に死に、母と弟の貧しい暮らし、十歳の時に奉公に出され、その後母は病死し、弟は遠くの親戚に引き取られ・・・・」
「幼い子供が、なんという事だ」そう呟くと寺坂喜三郎の目から涙があふれた。
寺坂喜三郎はしばらく川辺にうずくまっていたがいつしか対岸を見つめていた。
そして「吹雪」そうつぶやくと渡し船の船着き場に向かってふらふらと歩き始めた。