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欲と反射  作者: くろわつ
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第一章 side香月瑠一

 ガタンゴトン―と、市電が踏切を通過していく音が、すぐそこのはずなのに遠くに聞こえた。赤や橙のテールランプがポツポツと現われては消えていく様子を、僕はむしろ穏やかな気持ちで河川敷に向かって歩きながら眺めていた。

 日野君に振られた。まぁ、当然だろうな、同じ男から告白されたのだから。

 「日野君が好きだ」と伝えた瞬間から、右頬とスマホの間は少し汗ばんでいるのに、さぁっと頭から血の気が失せていくのを感じた。しかし通話が終わって夜道を歩くと、徐々に平常心を取りもどしてきた。ついさっきまで、この平ぺったい物体が日野君と自分を繋いでいたのが現実でないような気さえする。

―「もしもし、日野君?」

―「はい、日野です」

―「今、ちょっと話せるかな?」

―「うん、大丈夫だよ」 

―「急にこんなこと言われても困ると思うんだけど・・・僕、日野君が好きなんだ」

―「・・・・・・恋愛的に?」

―「うん」

―「そうか、・・・ありがとう」

―「あの、返事をもらってもいいかな?」

―「・・・ごめん、俺、香月をそういう風には考えたことなくて・・・」

―「そうだよね、ごめんね、遅くに。時間とってくれてありがとう」

―「うん、じゃあ・・・」

 本当に、幻みたいに一瞬だった。日野君を好きになってから、僕はずっとやり場のない気持ちを抱えていたが、それもようやく片づけられそうだ。初めから可能性なんて無いと分かりきっていた。それでも直接本人から気持ちがないことを伝えられると、やはり、という安堵と、少し胸が痛かった。

 時は五月の、生暖かい夜。両親に告白を聞かれないように外で電話をかけ、振られた傷心の僕は、心をまとめるために家の近くの河川敷まで来たのだった。川に沿って並ぶ街灯が、どこまでも堤防道路に点々と、淡く丸い光を落としていた。黒々した水面を、穏やかに光の筋が揺らめく。川のゆっくりと、たっぷりした運搬を見やると、僕はオレンジの街灯に照らされた暗い川沿いをどこまでもたどるべく、海まで誘われるような気持ちがした。遠くにランニングをしている人を見かけたが、当たりに人はほとんどいなかった。

「ごめんね、日野君」

 こんなことを伝えられても、君には迷惑しかかからないだろうにね。そっと河面を見つめながら僕はつぶやいた。どんなに好きになったって、受け取られることがない気持ちならば、無意味極まりないな。ふっと苦笑して、僕は家路に就いた。

 その日は何事もなかったかのような顔で帰宅し、意外にも特に悩むことなく、あっさりと眠りに就くことができた。このときの僕はまさか、翌日以降日野君との関係が奇妙にねじれていくことなど、予想だにしていなかったのだ。



 「おはよー」という声が教室で飛び交う。自分も引き戸をがららっと開けて、「おはよー!」と・・・言えたら良いのだが、引き戸を開ける音も最小限に、そそくさと机の間を縫って自分の席に着いた。二年二組は四月のクラス替え以降、もう何となくグループが固定されていた。でかい声で存在を誇示する陽キャの男子グループ、それを横から眺める陽キャの女子グループ、二、三人で話している男子グループ、女子グループ、僕と同じように席に着くなり本を広げる陰キャの男子、女子、数名。

 僕は陽キャの男子グループにちょっかいをかけられて笑っている日野春樹を一瞬で目に捉えてしまって、心臓がバクバクした。こんな状態でまともに小説なんて読めるはずがない。長い前髪の奥からそっと日野君の方を見やると、向こうも何か言いたげな表情でこちらを見ているのが見えた。一緒にいる陽キャの男子グループもこちらを見てニヤニヤしている気がする―もしかしたら日野君はあいつらに昨日のことを話したのかもしれない。でも、あいつらはいつもあんな感じだからな・・・。

今まで日野君が僕の方を見ることなんてなかったのに。身体が火照るような気恥ずかしさを感じる一方で、本当に僕はあの日野君に告白をしてしまったんだと、その事実が現実に顕在化されていて、空恐ろしい。これから僕はどうなってしまうんだろうか・・・。

 空虚な気持ちで、なるべく日野君を避けて一日を過ごしたが、どうやら彼は僕に告白されたことを周囲には言っていないらしい。そうだよな、そういう思いやりのある所を好きになったんだもの。

 決して目立ちたがる訳ではないのに、勉強もスポーツも出来て協調性があるから、彼の周囲にはいつも人がいる。サッカー部らしい均整の取れた、精悍な身体をしているが、顔立ちは優しい。色素が薄いのか、日本人にしては髪や眼の虹彩が茶色っぽい。日に焼けた小麦色の肌をしていて、ニコッと笑うとまるで夏の向日葵のようだ。

 一方僕のほうは、背は男子の中では平均よりやや低いくらいで、線が細いし肌も白い。黒くて長い髪でほとんど顔が隠れているから、日野君とは真逆の陰鬱なオーラを放っているに違いない。この一年と一ヶ月の高校生活というもの、ずっと空気のような存在でいるが、いじめられていないだけ十分だろう。

 日野君と比べて自分がどれだけ劣っているのか、今なら冷静に判断できる。好きでいるだけで良かったんだ。僕とは正反対でまぶしく、憧れの対象である存在がいる。そのことを心の中で喜ぶだけで。彼の一挙手一投足が愛おしくて、彼が笑っているだけで胸が温かくなった。でも、「好きだ」という気持ちが大きく膨らみすぎて、理性的に制御できなくなってしまった。きっとその顛末が昨日の告白だったんだ。結局、彼への気持ちが冷めるのを待ち続けるのは不可能だっただろう。

 僕が告白をしようがしまいが、世界はいつも通り回っていく。こんな日々に重ね塗りされて、日野君のなかでは昨日のやりとりも、やがて奇妙だが一瞬の思い出として記憶から消し去られてしまうだろう。いつかは僕のなかでも。それでも今の僕は、日野君の存在を感じるだけで、やっぱり胸が締め付けられてしょうがない。



 放課後、文芸部の引き戸を開けたが、まだ誰も来ていなかった。うちの学校には授業教室が集まる本棟と、文化部の活動部屋が集まる部室棟がある。両者はL字型に繋がっており、一階の渡り廊下で移動できる作りになっている。運動部の部室棟は本棟から独立しており、本棟の背面あたりに位置している。文芸部は一階に位置し、窓のすぐ側にずらっとソメイヨシノが植わっていて、その奥にはグラウンドが見えた。

 窓を開けると、新緑の甘いような匂いがそよ風に乗って室内に入ってきた。窓枠に手を置いてそっと耳を澄ませる。今日一日気を張っていたからだろうか。誰もいないこの空間がとても心地良くて、僕はしばらく眼を閉じた。遠くの方で、カキーンとボールがヒットする音や、ランニングのかけ声、何かの管楽器の呑気な音がする。レースカーテンは、それらの音を含んだ暖かい空気絡め取って、優しくパタパタはためいていた。風は前髪をふわっと持ち上げ、木漏れ日は僕の顔の上にキラキラと優しくこぼれた。日は陰りつつあるが、まだ五月晴れの青空を暖かに照らしている。

 まったく大丈夫なような、それでいて少しでも気を許すと、足下から崩れて泣き出したいような不思議な気持ちが渦巻いていた。

「―はぁ・・・」

 僕は深くため息をついて、やがてゆっくりと眼を開けた。その時―

「―香・・・月?」

 何度も反芻した声がした。驚きのあまり僕は身がすくんで、後ずさりする。

―なんでなんでなんでなんでなんでなんで

 まっすぐな首筋から整った目鼻にかけて、日の光が薄緑の影をつくっていた。鎖骨から鍛えられた大胸筋、腹筋にかけての筋肉が、スポーツ用の白いTシャツの上からでも見て取れる。

形の良いアーモンド型の眼に焦げ茶色の虹彩が澄み、五月空の光がその表面をつややかに流れていた。薄い唇を僅かに開け、彼―日野君は少し戸惑っているような表情をして立っていた。

 僕は見下ろす形で彼を見ている。手を伸ばせば、その柔らかそうな髪に手が届きそうだ。

 ―僕なんかを、見ないでくれ。日野君の瞳に自分が映っているという事実に急激に羞恥心が駆け上ってくる。心臓がバクバクして、僕は瞬時にカーテンの影に隠れてしまった。

「あのさ、香月」

 おずおずと顔を出すと、日野君は困ったような笑顔でいる。褐色のすべすべした肌を、僕のそれと同じく木漏れ日が照らしている。

「俺ら、去年も同じクラスだったけどさ、あんまり話したことなかったよね?」

 窓際から顔を覗かせる彼を、僕はあの日の彼と重ねた。あの日も、こんな良い日和だった。もしかしたら。もしかしたら、あの約束をここで彼が思い出す。そんなこともあるんじゃないか。

 日野君はまっすぐ僕を見て続けた。

「だからさ、電話もらったときは驚いたんだ。でも、直接お礼言いたくてさ」

 日野君が僕にお礼を言う。その申出に心を奪われ、僕は何も考えられなくなった。野球部の声援も、吹奏楽部の音色も、どこかに吸い込まれていったかのように、日野君の姿しか、日野君の声しか―日野君だけがその瞬間の全てだった。

「ありがとうね、そのー、俺を好きになってくれて」

 そう言って、彼は首の後ろに左手をやりながら、キュッと目尻を上げ、ニカッと笑った。裏表のない純粋な、眩しい笑顔に、息を呑んだ。

 それは、日野君が僕に対してだけ向けた表情だった―今、僕だけ・・・僕だけが独占している。普段遠目から見るだけで決して向けられることがないと考えていた、あの笑顔だ。

 心臓が熱い血液を脈打っているのが、かつて無いほど感じられた。

 ―僕はやっぱり、日野君が好きだ。

 胸が詰まって、いっぱいいっぱいで、喉に舌が張り付き、声が出せない。うっすら微笑み返すのが精一杯だった。胸がジリジリと痛む。酒でも呑んでいるかのように頭がクラクラする。僕は、日野君が好きだ。強い衝動が僕の中を駆け巡った。

 僕が何も言わないのを気まずく感じたのだろう、日野君は左手で窓枠をつかみ、腕で勢いよくグッと反動をつけて、後ろにパッと飛び退いた。一瞬、その風圧がこちらにふわっと流れてきた。

「じゃ!また話そうね」

 こう言って、彼はグラウンドの方へ駆けていった。

 しばらく僕は、あっけにとられてそこから動けずにいた。自分が息を止めているのに気付いて呼吸を再開すると、しばし存在を忘れていた心臓がまたバクバクと主張し始める。手が小刻みに震えている。

 ふと思い出して、僕は手元のスマホの録音を停止した。間違い無く今までで最もクリアな音声だ。まだ日野君の匂いが残っているかも知れないと、慌てて窓から顔を突き出してみたが、相変わらずただただ新緑の匂いがするばかりだった。

 廊下を歩く生徒の笑い声、野球部の号令、どこからか聞こえるホイッスル。いつも通りの時間が流れる部室。

 しかしほんの数分前とは、世界はがらりと違って感じられた。

 ずるずると窓の下にへたりこんで、僕は両の手で顔を包み込んだ。どうやら自分の口角が引きつった笑みを浮かべているらしいことに、そのとき気がついた。

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