己の誇りに火をつけよ
王朝もの的な雰囲気を出していますが、「歴史小説」ではなく「純文学」のカテゴリーの通り、時代考証等は一切行っておりません。なにかミスがあってもファンタジーで見逃してください。
古代ローマ、ディオクレティアヌス帝の御時である。
帝国の権威が衰えを見せはじめ内憂外患に怯える皇帝は、せめて自らの栄光のみを守らんとするかのように、皇帝崇拝を国民の義務とし、従わぬ異教徒──すなわち、キリスト教徒への大迫害を開始した。
そのありようは、まさに地獄の一言である。ひっそりと信仰を守っていた何千という無辜の人々が捕らえられ、残虐な処刑方法で悲しみとともに血と涙を流した。赤黒く染まった十字架は最早ガラクタであり、彼らに救いを与えることもない。そして、その骸は都市の外縁に放置された。当然ろくな葬儀も挙げていないから、その死体は腐り、蕩け、死をついばむ畜生が群がってくる。都市の中には絶望の匂いが充満し、外縁からは怨嗟の声にも似たカラスの鳴き声が朝晩都市の中に響いていたという。
そんな街で、キリスト教徒であることを隠して生き延びている男が、一人。
男は処刑人であった。代々処刑を司る家系に生まれ、処刑人として育てられ、自らもそうなることに一切の疑義を抱くことなく生きてきた。人の命を弄ぶ汚れた一族と罵られようとも、彼の背筋は常に棒のように真っ直ぐ立ち、精悍な黒い瞳はより良い社会を作る者としての誇りに燃えていた。当然、身に纏う鎧や護身用の槍の整備を欠かしたことはない。常に輝かしい光を放つそれは、自身の正義感の写し身のようで、男の自慢であった。
しかし、近頃の情勢が、彼の誇り高き人生に影を落としていた。
キリスト教徒であることを隠し、同胞たちを手にかける日々。その中で主のためと黙って処刑場へ送られていく彼らを見る度に、男は途方もない罪悪感が、その背にへばりついてくるのを感じていた。今すぐにでもその鎧と槍を打ち捨てて裸になり、額を道に擦りあてその正体を叫びたい気分に襲われたのも、一度や二度ではない。
だが、男はそれをしなかった。恐ろしかったのだ。勿論死ぬことが、ではない。誇りを失って生きるくらいなら、死を選ぶことなど造作もないことだ。彼が何より恐れたのは、自らの悪辣である。幾人もの同胞を裏切り、のうのうと生きている自分が、死後天国に行けるとは到底思えない。男にとって、神に「悪」と切り捨てられることこそ、何より恐れることであった。
死ぬならばせめて、この罪に与う善を成してからでなければならぬ。
同胞の死体の目尻に浮かぶ涙を拭き取る度、男はそう思わずにはいられなかった。
◇◆◇
そうして胸に刺さる痛みを押し殺し、無心で仕事を続けていたある日。また一人、キリスト教徒が牢獄へと連れてこられた。まだ少しだけ肌寒い、冬の日のことである。
それは、実に美しい女であった。
透き通るような白い肌に、高く、けれど主張しすぎない鼻筋。鎖に繋がれていても艶やかで汚れ一つない肉体と、腹や太ももに伸びるふくよかな脂肪はその生まれの高貴を伝え、蕩けるように潤んだ瞳は今にも闇に溶けていきそうだった。
彼女には、扇情的と言う言葉をあてはめることすら無粋である。女としての魅力であるとか、そういう性的なものを超えた純粋な美を湛えるのが、この女であった。
「あの、」
思わず、男は話しかけていた。
「貴女のお名前は、なんと言うのでしょう」
女は座ったまま、その視線だけをこちらに寄越した。そして、表情ひとつを変えることもなく、打ち捨てるように告げる。
「────アナスタシアと、申します」
暗がりの中、瞳の煌めきの中にかろうじて映る自分の像に、男は一瞬だけギクリとした。清純な女とその目に映る薄汚い男との残酷な対比は、まるで自身のおぞましい罪を訴えているかのようだったからである。
思わず、男は自身の槍を握りしめた。じっとりと張り付く手汗の感触。あまりに強く握ったので、掌と持ち手が擦れて痛んだ。もしかすると、皮が剥けたのかもしれない。だが、今はその痛みが必要だった。
「処刑は、明後日より行われる。餓死刑故今少しの余裕はあるだろうが、それでも心の準備はそれまでに済ませておくがいい」
動揺を悟られぬよう、努めて冷静な声を偽り、言う。それから男はすぐに踵を返すと、真っ直ぐに牢獄の外へと出ていった。とにかく、ほんの一瞬でもこの女と同じ空間にいたくなかった。
アナスタシアはそんな男に何を言うでもなく、ただじっと澄んだ瞳を向けていた。
◇◆◇
処刑までの二日間に、男はいくつものアナスタシアの噂話を聞いた。
彼女は貴族の家に嫁いだ後夫を亡くし、莫大な遺産を相続したということ。その遺産のほとんどを貧者の救済に使い込み、そして獄中のキリシタンたちをも支援しようとして捕らえられたということ。今回の処刑は、他の貴族が彼女の遺産を奪い取るために決定した謀略であるということ。
いずれも、真実のところはわからない。所詮は処刑人の間の噂話にすぎず、実際調査した者は一人としていないのだから。だが一つだけ明らかなのは、彼女が非常に高潔な人物であり、そしてまたいつも通りに、自分が間違っていると言うことだった。
「────出ろ。時間だ」
気づけば、処刑開始の日を迎えていた。
女に与えられた刑罰の名は、餓死刑────三十日の間特別な牢獄に閉じ込め、一切の食事を与えないというもの。たったそれだけの刑だが、それだけで十分残酷な刑であった。
その牢獄は完全に四方を壁に囲まれ、当然日の光など通らない。自分の体すら見えない暗闇に包まれ、虚無の中放置される。「餓死刑」などという名はつけられているものの、実際は発狂して死ぬか病となって死ぬか。いずれにせよ、安らかな死が訪れることはないだろう。完全な密封はできないため窒息の心配はないが、寧ろそのことすら「すぐには死なせない」という、考案者の底意地の悪さが透けて見えるようであった。
「………………」
独房から処刑用の牢獄まで、男とアナスタシアは二人きりだった。日に焼けた薄橙色の石廊下に、ジャラジャラと鎖の音が響き渡る。
カサ、と一匹の虫が、二人の前を横切っていった。
「────あんたも、哀れな女だな」
気まずさに耐え切れず、男の口が開いた。普段は死刑囚と会話など決してしないが、なぜかこの日だけは、無言のまま終わりたくなかった。
女は振り返る仕草こそないものの、一瞬だけ鳴った鎖の音が、確かにその言葉に耳を傾けていることを示していた。
「聞いたよ、あんたの処刑理由。ひどい話じゃないか。遺産欲しさの謀殺だなんて……女とはいえ、夫から正しく受け継いだものならどうしようとそいつの自由だろうに。しかも、その遺産だって私利私欲じゃなく人助けのために使ってたときたもんだ。それを邪魔するなんて、ノブレス・オブリージュはどこに行ったって話さ。こんな調子じゃ、最近の帝国が落ち目になるのもむべなるかなと思わないか?」
男の口はよく回った。もともと人付き合いの多い方ではない彼にとって、人生で最も饒舌な瞬間と言ってもいいほどである。境遇への同情から始まり、その美しい体への賛美、高潔な精神への憧れ、果ては最近あった幸運の話など、他愛もないものすら口にした。飛ぶ唾も気にせずに、一瞬の間隙すらも産ませぬ矢継ぎ早の語り口。なぜ、と言われてもわからない。ただ、がむしゃらであった。
だが、女は一向に会話をしようとはしなかった。男が何を言おうと、うんともすんともいわない。ただただ前へ、糸につるされた人形のように前へ進むだけである。男の必死な語りは空回りするばかりだった。
そして、その廊下は男の忍耐を試すには長すぎた。数百も歩を重ねないうちに、男はめっきり心が折れ、女へと話しかけるのをやめた。よくよく考えれば、今から自分を殺そうという男に仲良く談笑しようというのが、土台無理な話である。わかりきったことも忘れ必死になって話しかける浅はかな自分を、男は恥じた。
それからの数分は、ただの沈黙。いつも通りの処刑道で、風が中庭の草を揺らしている音に耳を寄せながら、カリカリと自身の槍を搔いていた。
「着いたぞ」
ジャラ、と、女の手首で鎖が音を立てる。
二人の目の前には、餓死刑用独房の重い扉が沈黙していた。
石扉の奥からは、強い、濃厚な死の気配が漂ってくる。装飾は長い時間の中ですり減って、元の形はもはやわからない。凹凸の目立つ無骨な閂が、不恰好な鉄の杭にかけられている。
「少し待て。逃げるなよ」
少しばかり脅しをかけてから、男は閂に手をかけた。ずし、と木の重みが腕を襲う。正義の重さだ、と男は思った。
なんとか閂を外すと、男は額に滲む汗を拭いながら後ろを振り返った。もちろん、そこにはアナスタシアが立っている。彼女はまっすぐとこちらを見つめていて、逃げようとするそぶりすらない。堂々とした佇まいに、男は一瞬罪人が誰だったかを忘れてしまいそうになる。
「…………来い!」
男は恐怖から、つい強引に彼女の腕を引いてしまう。だが、その軽さからかえって自分がつんのめってしまった。壁に手つきながら、先ほどの重々しい閂とはえらい違いだ、と、心の中でひとりごちる。あの杭が正義の重さだというのなら、彼女の軽さは無垢の軽さなのかもしれぬ、と、そんなことも考えた。
だが、彼女がいかに無垢とて、すでに刑罰は決定されている。彼にはそれを撤回する権限も、勇気もない。
「……入れ」
扉を開き、暗闇の中へ彼女を力一杯押し込める。すると、長い投獄のせいで弱っていた彼女は踏ん張りが聞かなかったのか、力無く倒れ込むと、ガシャン、と鎖が床と擦れる音がした。
外と中を隔てる部屋の暗闇が女を男の視線から守るように立ち塞がる。最早薄く光る女の瞳だけが女の実在を証明し、それ以外の何も、体勢も、表情も、読み取ることはできない。
どこにいるとも判然としない女にしっかりと声が届くように、男は大きな声を張り上げた。
「今から、この扉を閉める! それで、この独房は完全に密室となる。次に扉が開くのは一月後だ! それまで、何があろうとこの扉は開かない。どれほど苦しもうが、足掻こうが、脱出は不可能だ! 故に────」
貴女はもう助かりません、と。
そう口にする瞬間、思いがけず、男は言葉を詰まらせる。
「────あ」
それは涙だった。胸の奥からついて出た悲しみが喉を埋め、形となって溢れたのだ。
男は慌ててそれを拭ったが、それは止めどなく溢れ出て、白い頬に湿った跡を残していく。だが、それすらも拭い去らんとして強く擦るので、皮膚はどんどんと赤く腫れ、ヒリヒリとした痛みが襲った。
なぜ。
男は困惑していた。
今まで何人もの同胞を死へと追いやってきた。何人もの善人を保身のために手にかけてきた。それでも涙は流さなかったのに、なぜ今自分はこんなにも悲しいのだろう。悪逆に自ら手を貸しておきながら、涙など。どうしてここまで厚顔無恥でいられるのか。
恥ずかしい。
ただ、とにかく、男は恥ずかしかった。
「───可哀想な方」
その声に、男はハッと顔を上げた。目先には暗闇。しかし、その包むような哀れみの言葉は、確かにそこから放たれている。
男は今更になって、闇に浮かぶ小さな双光がこちらに向けられていることに気がついた。
「死と共に生きる高潔な戦士さま。貴方の名誉は、この暗闇の時代でも未だ衰えておりません。貴方の優しさが、愛が、貴方自身を罪の穢れから守っているのです。しかし、その性質がゆえに、貴方の心は貴方自身のためだけに苦しんでおられるご様子。そのことを、私はとても残念に思います」
男が彼女の声を書くのは、あの日、名を尋ねた時以来のことだった。暫くぶりに聴いたその声は、しかし記憶の中のものとなんら遜色なく煌めいていて、鼓膜に染み入るように届いた。
男は思わず膝を折り、彼女に縋りついてしまいそうになった。だが、身に纏う鎧の重さが、自らの職務をかろうじて思い出させる。
「……はっ、何を────我が家は代々自らの職務に専心してきたのだ。今更何を迷おうか。見当違いなことを言うな。俺は迷ってなどいない」
「いいえ、貴方は迷っています。そして同時に、恐れています。私には、それがわかる」
闇から染み出してくる女の口調は、嫌に断定的だった。自分のことであるはずなのに、彼女の方がよっぽど自身について詳しいのではないか、と本気で思わせられてしまうほどの迫力。
ガチャガチャ、と。鎧の金属が擦れる音が鳴る。男は震えていた。
「────ならば!」
震えを打ち消さんと、男は声を張り上げる。
そして、その勢いで、女のいる方向すらも掴めぬままに、暗闇へと真っ直ぐに穂を向けた。
場合によっては、今ここで、と。震えた瞳には獣の如き殺意が混じっていた。
「ならば、答えてみせよアナスタシア。俺は何を恐れているか。俺の何が悲哀たるか。チャンスは一度。それ以上の私語は許さぬ。出鱈目はもう、たくさんだ!」
だが、そんな男の凶行にすら、女の声は何一つ揺らぐことはなく。
「それは────」
「神」
「────ぁ」
その瞬間、男に訪れた衝撃の大きさは、もはや語るまでもない。
体は雷に打たれたように硬直し、顔に背中に手に脚に、全身の穴という穴から玉のような汗が吹き出して、目は残像をのこさんばかりに動き回り、天が、地が、その女を軸に百八十度ひっくり返ったようになって、槍は強く握られたためかミシミシと柄が軋む音を立てている。
男の狼狽は、もはや誰の目にも明らかであった。
神と、彼女は言った。皇帝ではなく、唯一神と、確かに。それが意味するのは、ひとつ。
すなわち、知られている。
「なん……なぜ。どこで…………?」
声にもならない声で男は呻いた。もはやそれは彼女に向けての言葉ですらなく、ただ理性の堰を超えてまろびでたものだった。
だが、女はそんな男の様子も構わず喋り続ける。
「何も疑問に思うことはありません。貴方の愛が、主へと届いただけのこと。主は常に貴方を見ておられるのです。貴方が何を成そうとも、主には関わりのなきことですから。……故に、貴方の行いも、貴方の苦しみも、すべては主の思し召し。貴方は何も恐れることはない。主は、今なお貴方を愛しておられる。貴方はただ、主への愛を心の中で持ち続ければいいのです。それだけが、貴方を天の国へと導くことでしょう」
そこまで聞くと、男はついに耐えきれなくなって、扉を力任せに押し閉じた。瞬間、独房と廊下は完全に断絶される。女の声は聞こえず、残るのはただ「そこに女がいた」という記憶の残滓のみ。そしてそれすらも、そろそろ頂点にも登ろうというギラギラとした陽光が、風景画と塗りつぶしてしまった。
だが、尚も男の心は平静とは程遠かった。石の扉には汗でできた手形がベッタリとついて、震える膝は今にも崩れ落ちてしまいそうだ。
「……なんで。なにが……どうなってる? なんで俺は、こんな……神の思し召し? これがか? 俺の愛……愛? 愛とはなんだ。愛とは、主へのものか? 愛が俺なのか? 俺が……」
ぶつぶつと、漏れ出る独り言は止まらない。どこを見つめるでもなく浮かんだ空虚な瞳は薄暗く滲み、すでに陽の光さえも映さない。それでも、今日の仕事はまだ終わっていないからと、次の囚人の元へ、次の処刑へ、自然と足取りは動いていく。
するべきことを、するべきように。それが、男の最後のプライドであるが故に。
そんな男の空虚な足取りを、廊下の果て、暗がりの隅より、一羽の白鳩がじっと眺めていた。
そして、その一ヶ月後。
男は他の囚人の処刑の最中に、アナスタシアの餓死刑失敗という報せを受けることとなる。
◆◆◇◆◆
「────クソッ! 一体全体何がどうなってる! なんなんだ、これは!」
男の部屋に鈍い音が響く。
それは、机を男の拳が叩いた音だった。
既に、女の処刑は三度失敗していた。
一度目は、餓死刑。一ヶ月の間締め切った部屋の中で完全に絶食させたはずが、刑期満了後死体回収役の警吏が中を確認すると、なんとそこには痩せ細りながらも毅然とした態度のままの彼女が座っていたのである。警吏は驚きと恐怖のあまり錯乱し、泣き叫んだ状態で男へ事情を伝えた。
その内容は狂乱のうちにあるがため詳しくは聞き取れなかったものの、その瞳は嫌に曇りなく澄みきっていて、狂人のそれというよりは、どこか素晴らしいものを目の当たりにした人間のような、恍惚としたものに見えた。
二度目は、再び餓死刑。死刑失敗という前代未聞の事態に対し、裁判所は「どこかに抜け穴があり、彼女に食事を与えた者がいたに違いない」として、刑の再施行を命じた。収容する独房を変え、その周りを警吏たちが30日の間暇なく見回りを続けることで、不正を防ごうとした。
しかし、これも失敗。見回りには男も参加したが、前回同様何一つの異常もなく30日は過ぎ去り、そしてまた前回と同様に、女は独房の中で生きていた。よく空の晴れた、鳥たちの麗らかな囀りがよく聞こえた午後のことであった。
三度目。ついにしびれを切らした裁判所は、今までのような間接的な罰ではなく、直接的な殺害を命じた。刑は溺死刑。湖の真ん中で乗っている船に穴を開けて沈めてしまうという刑罰である。
処刑当日。湖で彼女を出迎えた男が見たのは、長い絶食で肉はそげ、他の警吏に、あるいは同乗予定の他の死刑囚たちに粗雑に扱われて身体中があざだらけになった、見窄らしい女の姿だった。かつての美しさなど見る影もなくなっていた彼女は、しかし、なぜか気品をかけらも失っていないように男には見えた。
男が女へ恐怖したのは言うまでもない。男は秋の枯葉のように散り散りとなった思考をまとめることもできぬまま、震える手で女の乗った船を湖へと押し出した。船の侵入に凪いでいた水面は大きく波紋を立て、水辺に休んでいた小鳩たちが一斉に空へと飛び上がった。
そしてその後、彼女の処刑はついに失敗する。何度穴をあけても、あけてもあけても、蜂の巣のようになっても、彼女の乗る船だけは悠然と湖の上に浮かび続け、最後まで沈まなかったのである。その上空には、さながら光輪を形作るかのように、白い羽毛を陽の光で反射させた鳥たちが輪になって旋回していた。
そして、今日。ついに処刑は四度目を迎える予定であった。判決は焼死刑。その名の通り、棒に縛りつけ焼き殺す刑罰だ。
男は、その刑の監督役を務めることになっていた。
しかし。
「なぜ……何故? 何故殺せない、何が原因だ。何が悪かった!? 俺は処刑人なのに、殺せない処刑人など聞いたこともない! 俺の価値は、誇りは、どこに消えたんだ……!!」
男は、すでに平静を失っていた。
瞳は虚で、髪は整えられておらず、全身からは不潔さが招くむせかえるような臭いが立ち上がっている。鎧を着ているにもかかわらず、男の姿はもはやボロを纏った物乞いと見紛うほどになっていた。
恐怖と屈辱は、男の神経を過敏に尖らせる。心が何倍にも肥大したかのように胸を圧迫し、体の穴という穴から泥のように吹き出しそうな気分に襲われる。筋肉質な腕には今にもはち切れんばかりに膨らんだ青白い血管が浮かび上がっている。視界にはチカチカと赤い光が点滅していて、それが怒りによる幻覚か、それとも本当に血が出ているのかさえ男にはわからなかった。
もはやこの部屋などにじっとしてはいられない。部屋の石壁に入った小さなヒビ一つ見るだけでも、自分の不完全を突きつけられているようで腹が立つ。なにか、気を紛らわせる何かが、必要だ。
そう思い立った男は乱雑に扉を開け放つと、それを閉めることもせずに逃げるように歩き出した。
しかし、男には逃げ場などどこにも無かった。
所詮男は処刑人。それ以外の生き方を知らない。無辜の市民たちから存在を忌み嫌われている処刑人は、街道の上に「自由」などない。外の男たちからは汚らしい野次を飛ばされ、人気のないところに行っても窓の中から、扉の裏から、女たちの舐めとるような視線に晒される。
それでも普段の男ならばそれを跳ね除け街を歩くだけの自信と誇りがあったが、今日ばかりはその自身も底を尽きている。
だから、結局、男が行ける場所など一つしかなく。
「アナスタシアッ────!」
身体中に染みついた死の匂いに導かれるままに、男は廊下を突き進む。
白く滑らかな大理石の感触を踏みしめる。
額の脂汗を煩わしげに拭い去る。
吹き付ける風を肩で切り裂き進む。
目の前を横切る黒い虫を踏み潰す。
中庭で擦れ合う草花の歌を足音でかき消す。
柱の横に佇む白い鳩を無視して横切る。
そうして男は、ただ真っ直ぐに、彼女の独房へと向か「───待て」うことはなく、突如としてその歩みを止め、振り返った。
「……白い、鳩?」
白い鳩だった。
中庭と廊下の境、寸分違わず等間隔に幾つも並び立っている柱のその一つに、そっと寄り添うように立つ鳩。その羽毛は雪のように白く、おろしたての掛け布団のように汚れがなく、絹のように照り輝き、少年の如き無垢な心を思わせる。凡そ色と呼べるものは瞳孔の黒だけで、日光の元ではさながら太陽そのもののように真っ白に光り輝いている。
これほどにまで純粋で美しい白鳩は珍しい。普通の白鳩は白変種であろうと多少なり柄が残っているものだからだ。都市の中では、一生に一羽見られれば幸運とすら言える。
だが、不思議なことに、男にはその鳩に見覚えがあった。
それも、ここ数ヶ月に、三度ほど。それは。
「───ひっ!」
鳩と、目が合った。
黒く澄んだ瞳が男の目の中へ抉り入り、脳髄を掻き回し、血管を巡り暴れ、心の臓を破裂させんばかりに男を射抜く。衝撃、と表現することすら生ぬるい、雷霆をも思わせる激震。たった一羽の鳩が、今や男には自身の何倍も大きく、恐ろしく感じられる。
ガチャリ、と、後退りして響いた鎧の音で、男はついにその鳩のことを思い出した。
「そうだ、処刑の日……! 処刑の日になると、いつも彼女のそばにはお前が現れていた…………!」
そう、そうなのだ。なぜ今まで疑問に思わなかったのか。そんなことすらわからなくなっていた自身の追い詰められように男は愕然とする。
いつもそうだ。彼女が独房に閉じ込められた日も、警吏が彼女の生存を見て発狂した日も、彼女が湖の上に浮かんだ日も、いつだって、鳥たちの囀りが、羽ばたきの快音が、彼女を包んでいた。
同時、男は気づく。
今、この瞬間もそうだ。この鳩がいる場所。鳩の視線の先。もはや鳩は男の方を見ていない。目が合ったのは一瞬で、それ以降はまるで全ての興味を失ったかのように視線を逸らし、中庭越しにただ一点を見つめている。
即ち、アナスタシアの独房を。
「──ああ、そうか」
そのことに気づいた時、ふと、男は最初の処刑のことを思い出していた。
あの日、処刑の失敗を狂った警吏から伝えられた日。支離滅裂な文章、不安定な発音、幻のように捉えどころのない言葉の奔流。そんな、何もかもが暗い記憶の海に消えてしまいそうな混沌の文字列の中で、しかし、男はその最後の一言だけは、確かにはっきりと聞き取っていたのである。
全てを理解した男は、ただ事実を述べるが如く、自然とその口を動かして。
『───神ありき』
アナスタシアは、神に守られている。
「は、はは、ハハハハハハハハハハ!!」
男は、笑いが止まらなかった。喉の奥が爆発でもしたかのように飛び出てくる笑い声が、閑静な廊下に響き渡る。独房の囚人たちが何事かと隙間から顔を覗かせるが、男はそんなことも気にせずに笑い続けた。
神の御業。そう、神なのだ! この目の前にいる白い鳩こそが、神の顕れであるに違いない。ならばアナスタシアを殺せぬのも当然のこと。神が彼女の死を拒んでいらっしゃるのであろう。アナスタシアは神の恩寵のもとにある。神に選ばれた聖なる存在なのだ。それを殺すなどと、なんたる不敬、なんたる傲慢。人の愚かしさここに極まれり。
男は、そんなことも悟らず悩んでいた自分の愚鈍さが、何も知らず自らを崇拝させようとする皇帝の無知が、何をしても死なない死刑囚に恐れをなしていた同僚たちが、その他全てがおかしくておかしくて、とにかく笑っていた。
そうして男は一頻り大笑いして、漸く笑いが収まってくると、全身の疲労感に身をまかせて、廊下の途上にどっかりと座り込んだ。なんだか、活力という活力が全てからだから抜け切ったような、不思議な酩酊感だった。
だが、そのまま茫然とその鳩────あいも変わらずこちらには目もくれない───を眺めていると、今度は突然、先ほどとは真逆のある感情が、ムラムラと男の中で立ち昇ってきたのである。
それは、憎悪だった。
彼女を殺さなかったのは、神に守られているから。それはわかった。しかしそれは逆説的に、殺せた者は、神に守られていなかったことになるのではないか?
勿論、男はそのこと自体に怒っているわけではない。神に信徒を守る義務はない。全ては神の望むままにあるべきで、神はその者の生死を自由に決定することができる。そして、信徒たちもそれに準ずる覚悟がある。
だが、だとするならば、だ。自分がしてきたことも、全ては神のご意志ということになる。そう、あの日、アナスタシアが言った通りだ。自分は『殺されるべき者』を殺しただけで、今も、『殺してはいけない者』を殺せていないだけ。同志たちを裏切った、などとは片腹痛い。全ては神の意志。自分は神への愛に従っただけのこと。そこに罪などひとかけらだってありはしない。よしんばあるとすれども、それは神の名の下に正当化されて然るべきはずだ。
故に。
「────ふざけるな」
それが、男の正直な思いであった。
自らの行いになんの罪もないのだとしたら、なんのために自分は今まで苦しんでいたのか。ただ男は神の望む通りに働く。男もそのことに不満はない。全てを悟った今、男は同志たちを葬るのになんの躊躇もない。
だが、その覚悟が決まった今になって、神は自分の指示を覆そうとしている。殺してはいけない、と啓示を与えるでもなく、ただ男の仕事を妨害している。その行動の意味が、男には理解できなかった。
「……っ!」
ふと、男の右手が強く痛んだ。
槍である。男の誇りの象徴たる、固く、しなやかに伸びた長槍。そこに、赤々とした血が涙のように伝っている。怒りのあまり、男は気付かぬうちに手の張り裂けんばかりの力でその柄を握ってしまっていた。
男は、その時改めて自身の姿を見つめ、そして自らの姿のあまりにも見窄らしいことに気がついた。
体が不潔なのはまだ良い。青い肌の色も落ち窪み濁った目も血管の浮かぶ肉体もかまわない。だがなんだ、この汚らしい鎧は。この錆びた槍は! なんという生き恥。なんという体たらく。なにより、そのことに気づかなかった自分自身の甘えた心が情けない!
男は立ち上がる。
今すぐにでも自室に帰り、身を元のように整えるために。
自らの誇りを、もう一度その手に取り戻すために。
来た道を戻って自室に向かう男は、廊下の突き当たり、曲がり角の直前で、最後に首だけを白鳩の方へ向けた。
「主よ。死刑場は、俺の領域だ。俺だけの領域だ。貴方の望まれる通り、貴方に任された通り、俺だけが囚人たちの生死を監督できるんだ……! 例え、主よ、御自らの意思であろうとも、その越権は見逃せぬ────!」
もはや男の心には一点の恐れもなかった。職務への義務感だけが頭の中を満たし尽くして、それ以外の枝葉末節は欠片として興味がない。恥も、後悔も、全てはただ神の与えた幻覚であると知ったから。
アナスタシアを殺す。それで、全ては男の元へと返ってくる。神に彼女の存在を奪わせなどしない。あの美しい女は、俺だけのものなのだ。そう、男はその握り締めた槍に誓った。
そして、全てがなされたその後は、男はただあるがまま、自らのままにその人生を歩むだろう。もはや男が神を恐れることはない。天命など気にすることはない。ただ、自らの誇りに従えば良いと、男はよく知っていたから。
日、未だ高く、風薫る春。柱の隙間から漏れた陽光が、大理石の道を眩く照らしていた。
◆◆◆
曇天の死刑場には、美しい火花が舞っていた。
赤く、白く、或いは黒く。混ざり合った色の混沌はその存在を曖昧にさせ、ただ上がり続ける気温ばかりがその実在の証明となる。強い熱は空間を歪ませて、陽炎の中に揺らいだ女の姿は、さながら夢見の天女のようであったという。
西暦四世紀。古代ローマ帝国、シルミウム。
ここに、幾度の処刑を生き抜いた奇跡の女、アナスタシアは殉教した。最後まで高潔な精神を崩すことなく、どこまでも強く美しく生きた女であった。火に炙られるその時になっても泣き言一つ漏らさず、ただただ警吏たちの方へ哀れみの目を向けていた。その死を知らされた人々は、また1人、皇帝の無為な自尊心のために尊い命を失ったのだ、と、日が沈み、また日が昇り、そしてまた沈むその時まで悲しみの涙を流していた。
のちに、その理想的な生き様と哀れな最期を鑑みて、彼女は「大致命者」と呼ばれる聖人として、後世に語り継がれることとなる。迫害を生き延び、ついに平穏を手に入れたキリスト教徒たちは、今日も彼女の肖像画を前に十字架を握っているのだ。
────しかし、かくして歴史に語り継がれる存在となったアナスタシアであるが、その最期、哀れみの視線を向けた先にいたのが誰だったのか。そのことは、世界中のどんな記録にも残されていない。
そこには、槍があった。
それはまっすぐと、かのシンアルの地に建てられた天を貫く煉瓦塔を思わせる様相で聳え立つ。穂の鋼には鯖一つなく、その洗練された手入れの技は、一目見れば誰しもが立派だと感動するに違いない。
だが、その女だけはそう思わなかった。その一瞬で全てを見通した女は、男の行く先を察し、無為であることを知りながら、ただ彼のために祈った。眦には、どんなに苦しい処刑の中でも決して流さなかった涙が、小さく浮かんでいた。
そうして、誰にも知られず、誰にも気づかれず、一人の男の心は弔われる。
ああ、そこには槍があった。
美しく磨かれた鋼は、さながら狂人の瞳の如く、強く、眩く輝き、罪を焼き尽くす悍ましき紅色を映し出している。
それは、なんと勇壮な光景であろうか。なんと荘厳な光景であろうか。処刑人かくあるべし。死の穢れを纏いながらも、芯より発さるる誇りの光輝がその存在を称揚する。
今、暗雲の中から響く鳥の囀りは、きっとかの者の栄光を歌うものに違いないのである。
(了)
最後までお読みいただきありがとうございます。
楽しんでいただけたのなら、⭐︎とブックマークを押していただけると幸いです。
それでは、またどこかで。