第七部 6
またまた、大変長い間お待たせしてしまいました。
……こんなこと、いつものことだろ?
僕は自分の中のもやもやを宥めつつ、階段を下りて行った。
以前から、直ぐに寝てしまうのが鈴子なのだ。いくら起きてて頑張ると言っていても、一旦睡魔が襲って来るとどうしようもない。字を書いていても、食事をしていても、何をしていても、そのまま寝てしまうのだ。
彼女に悪気があるはずもない。そんなことは良く分かっている。
だのに、言い様の無いイライラが、自分の中に渦巻いて収まらない。理性は彼女を全く責めるつもりはないのに、それで済まない自分がいる。
「なにやってんだか」
こんなことに振り回されている自分自身に対しても、腹が立ってならない。こんなことをスルッと流せない器の小さなダメな自分。
こんなむしゃくしゃした気分をいつまでも抱えていたくないと思った僕は、兎に角、風呂に入ろうと、下の階へ降りていった。すると、キッチンの明かりが目に入った。とたんにのどが渇いているのが気になり始める。
じゃあということで、風呂はコーヒーでも飲んでからにすることにした。
「あら、鈴子さんは?」
「ん?」
僕が一瞬、口ごもっているとお袋は言った。
「何よ、お嫁さん放っておいて良いの?」
「つか、こっちが放って置かれてるし」
「なんで?」
「……あいつ、寝ちゃった」
「え?……そう」
僕が投げやりにそう答えると、お袋はビックリした顔をしたけど、直ぐに「そっか……」と納得する。そして、僕の顔をまじまじと見たと思ったらすっくと立ち上がった。
「まあ、コーヒーでも飲んだら」
「ああ……」
初めからそのつもりだと椅子を引いて腰を掛け、ペットボトルからアイスコーヒーをコップを注いでいるお袋の背中を見ているうちに、胸の内はコーヒーとは違う、嫌な苦さで満ちて行った。
言わなくていいこと、言ってしまった……。
鈴子はここに来るにあたり、どうにかうちの親たちと良い関係を築こうと、本当に心砕いていた。それを知っていた僕なのに、今みたいな言い方は無いよなと、思うのだった。
「い、いや、あいつ、疲れてるから。いや、今日、ずっと緊張してて。」
どうにかフォローしようとするも、今更感、満載。どうしようもない。
「そうなんだ……」
しかしお袋の反応には、彼女を責めるような感じはなく、というか、物凄く落胆した顔をした。
「そうよねえ、そう簡単にはいかないよねえ。」
ため息交じりでそう言うと肩を落とした。僕はその反応の意味が今一つ読み切れなくて考え込む。
この年になって、母・息子で、そうそう弾むという事もないだろうが、それにしても空気が重すぎ。こうなったら逃げるしかないと、このコーヒーをさっさと飲み干して、風呂に行こうと心に決めた。
アイスコーヒーをすするペースを上げたところで、お袋が急にこっちを向き直った。
「それとね、言っとくけど」
「え? ああ」
「自分の気持ちは、ちゃんと言葉にしないと伝わらないから」
「はあ」
「嫌なら嫌、嬉しいなら嬉しい、ちゃんと言う。いい? 『以心伝心』とか『阿吽の呼吸』とかやるの、30年早い」
「そ、そうなんか」
なんか、思い当たる節あり過ぎ。
「だからさ、あんた、鈴子さん寝ちゃって嫌だったら、はっきり言う! そんなくだらないことでも溜めこんでいったら、ろくなことになりゃしないよ。ソースは私たち」
……ソ、ソース、って
完全に見切られている……。
お袋は俺の心中が、ばっちり分っているようだった。
でも、ドヤ顔で「自分の親の秘密」みたいなのカミングアウトされて、息子の僕はどんな顔したら良いんだよ。
しかしお袋は、引いてる僕のことなんか無視して続けた。
「女は話をしながら、相手を知っていくんだよ。だから、どんな話でもいいから、沢山話してやりなさい。分かったか、肝に銘じておきなよ」
「……分かった」
その時だった、二階からバタバタと言う音がしたと思うと、ドタドタと騒がしい足音が聞こえてきた。これは親父ではない、ということは……。
しばらくしたら、髪を振り乱して、息せき切った鈴子が、キッチンを覗いた。
僕を見つけてホッとした顔をしたかと思うと、おふくろの存在に気付いて、直ぐにアワアワと慌てはじめる。
そんな彼女に、ちょっとビックリした顔をしたお袋だったが、その直後、お袋がそうは見せることもない、可愛くてたまらない時の最高の笑顔を浮かべた。
「どうしたの?」
「え?……あ、あのう」
鈴子、目が泳いでいる。お袋はすっと立ち上がり、冷蔵庫に向かいながら言った。
「何か飲まない? コーヒーとか、リンゴジュースとかあるんだけど」
ふと見ると、鈴子がこっちに向かってSOS出してた。僕が顎でお袋に応えるように促すと、鈴子は一瞬困った顔をしたけれど、ちょっと肩を落として口を開いた。
「え、あ、…… では、リンゴジュース、……お願いします」
まあ座れと僕が席を勧めると、彼女は椅子に浅く座った。彼女の表情からは自責の念がにじんでいる。まあ間違いなく、一人、寝ちゃったんで自分を責めてるのだ。
そうしている間に、お袋はジュースが入ったコップを座った彼女の前に丁寧に置いた。
「ほらこれ、100パーセント・ジュースなのよ。ちょっと飲んでみて」
「あ、はい」
勧められるままにジュースを一口含んだ彼女は、少しびっくりした顔をした。
「あ、……美味しい」
「でしょ」
リンゴを作っている農家に知り合いがあり、毎年そこから買っているのだ。
そこの町ではジュース作りにも力を入れていて、マイナーなブランドだけれど、良いリンゴで出来ているこの瓶詰ジュースは、独特の美味しさがあり、毎年必ず箱で買うという人も少なくない。
「さ、沢山あるからお替りしてね」
「はい」
お袋は鈴子の向かいの席に座り、おいしそうにジュースを飲む鈴子を、優しく見守っていた。
「それにしても、バイクで新婚旅行なんて。功太郎が無理強いしたんでしょ?
「え?…… いいえ、わたし、バイク好きですし、功太郎さんとはいっつもバイクで移動でしたから、大丈夫です」
「でも気を付けてね、親としてはやっぱりバイク、心配だよ」
お袋が、どこまでも自然な気持ちから、僕だけではなく、鈴子のことも全く同じように心配しているのが良く分かった。そんなお袋の自然に出てくる言葉は、鈴子の堅さを少しずつ取り去っていく。
「でも、気持ちは分からないでもない。だってあたしも若い頃は乗ってたんだよ、バイク。こう見えても」
「へえー!」
「うそ、僕も初めて聞いた」
「なんか、あんたたち見てたら、懐かしいよ」
「そ、そうなんだ……」
「よく、温泉とか山とか行ったよ。お父さんとのデートは、バイク・ツーリングと美味しいもの食べ歩きばっかりだった」
「そんな話、聞いたことないぞ」
「そりゃそうでしょ、自分たちの馴れ初めを、いつ結婚できるか分からない息子に、話すわけないよ。そこまで、意地悪くない」
「ま、まあ……そうか」
他愛のない話題ばかりだった。でも、言葉以外の何かが触れ合って、空気を変えていく。半分、パニクっていた彼女は、こうして話すうちに、すっかり鳴りを潜めていった。
いつの間にか、いつも僕に見せているような、柔らかな表情になり、お袋もそれをさも嬉しそうに見ている。
そんな二人の姿に、僕自身もまた、知らない間に張っていた「気」が、ゆるんでいくのを感じる。
「いつか、お義父さんお義母さんも一緒に、温泉とか行きませんか?」
「いいねえ、いつか行こうね、鈴子さん」
「はい!」
横から見ているだけでも、彼女のワクワクがビンビン伝わってきた。
「わたし、家族旅行って、夢だったの!」
そうはしゃいだ鈴子は、本当に嬉しい時に見せる、はしゃぎぷりだった。
……なんだ、もうすっかり、いつもの鈴子だ。
「鈴子さんが、うちに来てくれてよかった!」
お袋はそう言った。一つ間違えれば、薄っぺらいおべっかにすら聞こえるであろう言葉であったが、その時のお袋の言葉は、僕の心にズンと響いた。
ふと見ると鈴子は口を真一文字に閉じて、しきりに目を瞬かせている。こぼれそうな涙を必死に我慢しているようだった。
僕は落ちが付いたし、湿っぽい雰囲気に微妙に照れてしまってたので、当初の目的に戻る。
「んじゃ、僕、風呂行く」
「そう」
お袋の応答を聞き流し、持ってきた風呂の道具をひょいと持つと、席を立ち風呂に向かった。
「何でしょう?」
鈴子は自分をじっと見つめる義母に、ちょっと戸惑った声でそういった。
「鈴子さん、そう、それ大事だから」
「え?」
ちらっと義母が視線を落とした先には、鈴子が風呂に入るべく準備した荷物があった。
「あ、えっと」
「あの子には、そうじゃなきゃ絶対にダメ。頑張ってね!」
そう言って、義母は満面の笑みを浮かべると、さっさと立ち上がって奥に消えて行った。
「……やっぱり、そうなんだ」
鈴子は時子より、何度も何度も言い含められていたことが有る。それは、兎に角、一緒にお風呂に入りなさいという事であった。
時子曰く、同棲してても、あんなに清廉潔白な生活が出来しまうあんたたちじゃあ、いつになったら甥/姪の顔が見られるか分かったもんじゃないと。
「よ、よし!」
鈴子はちょっと上ずった声でそういうと、ガバッと荷物を抱きしめて、やっとシャワーの音がし始めたバスルーム目指して、ズンズンと歩いていくのだった。
***
「ん? どうだった」
「べつに」
部屋に戻ると、机に向かったお父さんがそう聞いた。そっけないふりをしてるけど、私にはわかる。私たちが話していたのが、相当気になってたのだ。
「良い子ね、鈴子さん」
私がそう言うと、そんなことは分かっていると背中で応える。
「惟子がちゃんと育ってたら、あの娘ぐらいだろうか」
「惟子と鈴子ちゃんは違いますよ。でも、……確か、そうですね」
惟子っていうのは、功太郎の次にできた私たちの子ども。でも、やっと自分がいることを私たちに知らるようになった頃、天国へ行ってしまった。だから結局、私たちはその名前を、呼んであげることは出来なかった。
「あの娘はうちを、自分の家のように、思ってくれるだろうか」
お父さんは、独り言のようにそう言った。
私たちはあの娘の境遇を知った時、おせっかいだとは思ったけれど、一つの希望を抱くようになった。
それは、功太郎を好きになってくれたあの娘が、この家を自分の家のように思ってくれること。
「ゆっくりゆっくり、待ちましょう」
「分かってる」
こんなに心がときめいたのはいつ以来だろうか……。
私は家族が一人増えたという何にも代えがたい幸せを、きゅっと噛みしめていた。