第七部 3
それからの鈴子は、すっかり元気を取り戻した。
でももう、運転する気は無いらしく、すっぽりとタンデムシートに収まって、いかにも楽しげに旅を続けている。僕もそんな彼女といると、つられて楽しくなって、いつしかお気楽でのほほんとした、僕ららしい新婚旅行となっていった。
それにしても、改めて思わされたのは、彼女の顔の広さである。
言い過ぎではなく、マジで行く先々で小さな子供から、お爺ちゃんお婆ちゃんまで、声をかけられるのだから。
小さな町ではあるが、それでも何万人と人口はあるわけで、普通の人間の知名度とは、全く違う。
かくして、あちらこちらで声を掛けられ、いろいろな人から祝福を受けながら、彼女が小さいころ遊んだ公園、小学校、良く行った駄菓子屋、みんなで作ったという「秘密基地」跡、その頃のお友達の家などなど、小さな鈴子が走り回った面影を追いかけるのだった。
彼女はそんな僕を、満足そうにニコニコしながら眺めていた。
ひとしきり町内を回った僕らは、続いて隣町の彼女の母校である潮騒高校にやってきた。
山の中腹の切り開かれたところに建っているこの高校、彼女は三年間、キツい山道を登って通ったという。
実はその裏山に当たる丘の上に登ることができて、その天辺には、学校全体を一望することが出来る広場があった。そしてこの広場は、良く知られたデート・スポットとなっていた。
僕らは学校の脇の細い道から頂上を目指した。道は軽自動車がやっとの幅の道で、「つづらおり」の続く、良いとは言えない道だったが、ちょっと行くと直ぐに視界が開け、その広場に出た。
バイクを適当に置いて広場の端まで来ると、写真を撮ったらそのまま募集要項の表紙になりそうな、気持ちよい風景が広がった。グラウンド、校舎、体育館、プールが一望できた。
彼女は爽やかな風の流れる小高い丘に立ち、かつて通った高校を飽きることなく見詰めていた。サラサラの髪が風に揺れ、ちょっとピンク色になった白い頬が、彼女を余計に幼く見せている。僕はそんな彼女に、またも胸がホカホカしてくるのを感じていた。
僕は彼女の「今まで」を巡りながら、小さかった時の彼女を垣間見せてもらった。
例の倉庫で発見したアルバムには、どれもこれも、隙の無い、近寄りがたさばかり感じさせる彼女が写っていたが、今日、言った先々で知った彼女の姿には、僕がよく知っている鈴子、そうドジでおっちょこちょい、寂しがり屋で甘えん坊な、本当に身近さを感じさせる彼女を感じ取った。
引越の時の失踪事件以来、僕等は確かに仲直りし、色々と話し合って分かり合ったつもりではいた。でも今日みたいに、彼女の懐かしい人と出会って話を聞いたり、そんな人たちと楽しそうに話す彼女の姿を見ると、やっぱり彼女は彼女なんだなと、もっと納得することができたように思った。
そう、鈴子はやっぱり、僕の知っていたとおりの女の子だった。
僕が大好きな、そして、どんなことをしても守り抜きたいと思った、鈴子だった。
こんな風に、僕としてはとても充実した気持ちで過ごしているのだが、自分が満足すれば満足するほど、逆に気になり始めていることがある。それは他ではない、彼女自身のの心情についてだった。
僕が今日、色々と案内して貰った先々に、当時、間違いなく居たであろう人たち、そう、鈴子を巡って僕と遣り合った、あのイケメンたちのことだ。
もちろん、今更、彼女を巡ってのことで気にしているのではない。そうではなく、彼女自身についてのことである。
幼い時から一緒に成長してきたあの人たちは、彼女にとって、間違いなく大切な人である。そして彼らは、彼女の大切な思い出の、多くの部分を占めているであろう。
……しかし、彼女は、一言もそのことについては語らない。
結婚したばっかりの僕に対し、しかも新婚旅行の最中に、昔、かかわっていた男達の話題に上らせるなど、やってはいけないことだと思っているからだろう。
確かにそんな話されると、こっちだって、思いっきり引いてしまう。
でも、彼女自身はどうなのか。厳然として存在する沢山の思い出を、無かったことのようにスルーしてしまうことは、彼女自身は苦いんじゃないだろうか?
相容れないものだから、両立なんて考えること自体、無理有りまくりであることは、良く分かっているつもりだ。
…… だから、どう彼女に接していったらいいのか分からない。
初めはちょっと気になる程度であったけれど、彼女のあまりにも楽しそうなその姿は、僕のモヤモヤを増幅する。そんなこと忘れて、楽しめよと自分に言い聞かせてはみるが、こと、彼女のこととなると、僕の心は自分でも信じられないほど、ウェットになってしまう。
「功太郎さん?」
「あっ、え、はあ?」
ハッとすると目の前に鈴子の顔があり、キラキラ輝く濃いブラウンの瞳が、じっとこっちを見ていた。
どうも思索の渦の中に入り込み、この世から離れていたようだった。こんな風に覗き込まれても、声を掛けられるまで気付かなかった。
その大きな瞳の持ち主は、さっきまでの大はしゃぎの顔から、一転して心配と不安に戸惑った顔をしていた。
「何か、……あった?」
いかにも心配そうに、そう尋ねた。どうも彼女は、自分が知らない間に、また何かしでかしてしまったのかと思っているらしい。
「いいや、何にもないよ、大丈夫」
そう言うと、彼女はさらに不安で顔を曇らせた。
思わず苦笑する。彼女は僕が「何でもない」と答えるとき、大いに問題があることは、もうよく知っているのだ。
そんな彼女を見ていて、僕は経験則を思い出していた。隠し事は結局は問題をこじらせることにしかならないこと。彼女が聞きにくいであろう話題についても、こっちが誠意を持って話すなら、彼女は本当に良く分かってくれ、それが問題解決の最短コースだということ。
だから僕は、せっかくの新婚旅行に、もしかしたら水を差すことになるかもしれないけれど、このままこの迷いを抱えていても良い事は無いと、思い切って感じているままを、話してしまうことにした。
「鈴子、鈴子の思い出には、たくさん、あの人たちも出てくるんだよな」
「あの人、え? あ……うん」
「……苦しくない?」
いきなりの問いに、何のことかと思い巡らすもすぐに分かったらしく、一瞬顔を曇らせた。でも彼女は気を取り直したように僕をまっすぐ見て、ありったけの誠意を動員した顔をした。僕も今だけは、旅行の浮かれた感覚は仕舞って、まっすぐ彼女に向かって姿勢を正す。
彼女は少し視線を落とし、まるで自分の心をくまなく確かめるように、瞳を揺らした。そして、言葉になることから、一つ一つ口にする。
「自分でも不思議なの、なぜか心がすごく静かで落ち着いてる。」
「……そうなんだ」
「なんだか、ついこの間のことだったはずなのに、今のわたしとはあまりにも違って、凄く遠くで起きたように感じるんだ。」
静かに顔をあげた彼女は、少し微笑んで話を継いだ。
「あなたと一緒にいたら、今までの全部が『良い思い出』になっていくの。きっとこれって、『今』にすごく実感があって、満たされてるからなのかなって。」
思い出に、なる……か
「あの頃のこと、今思い出してみるとね、なんだか、いつも置いて行かれちゃいそうとか、いつこれってなくなるんだろとかとか……、うんそう、そういう切羽詰まった感じ、ずっとあった。それに、一緒に遊んでいても、どこか気持ちが通じないイライラっていうか、言いたい言葉、いっぱい押し殺していたみたいなことか、いつもあったかな。だから、いつも気が張ってて、どこか疲れてた……」
彼女は言い終わるとフーと緊張が抜け項垂れた。結構長くそうしているもんだから、どうしちゃったかと声をかけようとしたら、パッと顔を上げて、朗らかに笑うと、ウーと背伸びををした。
「白状しちゃうとね、こういう気持ちって、功太郎さんといるようになって、初めて気づいたの。それまで、みんな、そんなもんだって思ってて、もっと何かがあるなって、考えられなかったから」
そして、「背伸び」のせいか、ちょっと涙をためた目で、ニッコリと笑った。
「そうなんだよ、わたし、功太郎さんといるとね、どこでも、……そこで有ったどんなことも、普通に『懐かしい』って感じちゃうんだ。だから、大丈夫」
僕はジーッと彼女の瞳を見つめた。彼女も僕を見詰め返す。
ウン、大丈夫そうだ。
「ん、分かった」
僕はその話を聞いていて、自分の中にあったモヤモヤが、サーッと消えていくのがわかった。
「心配してくれて、ありがとう! ……それより、功太郎さんだよ。何か考え込んでたの?」
僕はいきなりこっちに話が飛んできたので、目を瞬かせた。
「はあ? 僕の??」
思わず吹き出す。すると彼女は怪訝な顔をした。
「功太郎さん、何、悩んでるの? わたしにだけ話させておいて、自分のこと……」
彼女の叱責を手を振って制すると、
「僕の問題、今、解決した」
「え!! それ、なに?!」
「だから、鈴子が楽しいんだったら、もう僕の問題は解決!」
ちょっとあれ?って顔をしたが、それもすぐはち切れんばかりの笑顔に変わった。
「……そっか」
ちゃんと通じて、こっちもホッとする。彼女は口の中でそういうと、ぽーっと顔を赤らめ、しばらく突っ立っていた。
その丘はまた、静寂に包まれる。
気持い風が、また吹き始め、ほっとした僕らの間を、優しく通り抜けて行った。
そして僕は、ちょっとさっきとは違った思いを胸に抱き、彼女の母校の全景に目を向ける。
彼女はここで、青春してたんだな……。
耳を澄ますと、仲間たちと元気に駆け回る、真っ黒に焼けた鈴子がはしゃぐ声が聞こえたような気がした。それは彼女の大切な人生の1ページ、懐かしい思い出。
「功太郎さん」
「なに?」
キョロキョロ周りを見回し、ススッと近づいてきたと思ったら、僕の正面で立ち止まった。
何故か赤くなって目が泳いでる。
「か、髪の毛が、乱れてる」
まあそうだろう、メット一日中かぶってるからな。
「直してあげる」
「ん? そう」
彼女の指示で僕はちょっと膝をかがめ、頭を突き出した。するとちょっと上を見てと、促される。僕は言われるがまま、顔を上げると、目の前の彼女の瞳が待っていた。
そしてそれがクルッと動いたとおもったら、フッと閉じる。
ちゅ……
次の瞬間、彼女の唇が僕の唇を捕えた。そしてそのままジーっとしている。
正直、ビックリしたけれど、彼女の唇を通し伝わってくる思いに、僕は身動きできず、胸にいっぱいになっていく温かいものが、注ぎ込まれるに任せるしかなかった。
しばらくして、彼女はスッと体を引いて、耳まで赤くなって照れ笑いする。
「なんか、言葉じゃ伝えきれないよ、こんな気持ち……」
体を捩って言い訳っぽく言う彼女に、僕の心臓はバクンと打った。
「鈴子……」
「あ、んん……」
僕は真っ赤になっている彼女を、かき抱いた。