第七部 1
第六部4から第七部1に、名前を変えました。
夏のあのギラギラが少し和らぎ、ツーリングには良い季節になってきた。僕は海岸通りを鈴子を後ろに乗せて快走する。
ピタっと僕の背中に体を寄せる鈴子。こういう場合、今までは微妙に遠慮しがちにすがっていた彼女だったが、初夜を終えたからだろうが、もうそんな硬さは無くなっている。
<っていうか、ちょっとおい!>
いや段々、密着力が強くなっているのは気のせいか? これってもう、すがっているというより、完全にぎゅっと抱きついてる。
お互Tシャツ、ジーンズなわけで、当然、彼女の豊かの胸と下着の感触が、遠慮なく伝わってくる。その感触が、昨晩のことを生々しく思い出させ、今まで以上に刺激的である。
そしてそんな格好で、彼女ときたら、風切り音に負けないほどの大きな声で、ずっと僕に話しかけ続けている。
走ってるのは車通りのかなりある幹線道路、行き交う車からのジトっとした視線は、後ろの車からは当然、対向車からのそれも、はっきりと分かるほどであった。
更には、信号に止まったら止まったで、今度は、ほら、信号待ちをしている人たちが目を瞬かせてジロ見してる。
……最悪だ
これを精神的拷問と言わでなんと言う!
コンコン
僕が痛い視線でザクザクにやられ、冷や汗流しつつ早く青になれとジリジリしていると、彼女が僕のヘルメットを叩いた。
何事かと思って、シールドを上げ後ろに振り向くと、そこにはいかにも嬉しそうな笑顔がある。
「なに?」
「功太郎さんの背中って、広いね!」
「……」
ウチの嫁さんは、ちょっと腹がたつぐらい幸せそうである。
僕らが乗っているのは、鈴子のSR400。小気味良いエギゾーストノート、ビッグ・シングル独特の振動が、力強くもありユーモラスでもある。
言うまでもなくこのバイクは、武村の親父さん夫婦と共に、僕らの間を「取り持って」くれた、掛け替えの無い存在である。
そうなのだ、なぜかこのバイクに乗っていると、僕らの気持ちが微妙に行き違った時でも、不思議と通じ合うのだ。それはたった半年そこらで何度もあった。
ところで、こんなひどい思いをしながら、結婚式の翌日から何をしているかというと、ほかではない「新婚旅行」をしているのである。
いや当初僕は人並みに、格安海外旅行でもしようと考えていた。でもそんな時、鈴子が提案したのが、このバイクにまたがって、お互いの思い出の場所を回るという企画だったのだ。
「見て、見て! ここが、わたしが生まれたとき、住んでたお家なんだ!」
小一時間海岸を走り、海岸通りから少し離れ、昔ながらの町並みの残る集落に入っていった。古く曲がりくねった道をしばらく行くと、彼女はシールドを上げ大きな声を上げた。
グイグイとシャツを引っ張る鈴子の合図に、バイクを端に寄せて止めると、古くもう人が住んでいそもないアパートがあった。
そこは古びた町のはずれ、周りはまだ畑や田んぼが広々と広がっている。
「わあ、まだあった……」
彼女はバイクから降り、ゆっくりとそのアパートの方に近づいていく。僕もその彼女の後に従って行った。
彼女は錆びついた階段の登り口のところまで行くと、二階の一つのドアを指さして、「あれ」と呟くように言った。
静かに佇む彼女、初めに輝いた嬉しそうな表情も、直にしんみりとしたものにとって代わられる。
僕は彼女の「思い出の場所」という言葉に篭った色々な気持ちというものを、この企画を彼女が言い出したときから、ずっと考えてきた。
こういうことは、どちらかというと僕の意向を優先してくれる彼女が、殊更にこうしたいと言い張った理由も考えた。
そして、予想通りではあったが、この複雑な表情を見せる彼女の姿に、この旅の意味を知らされたような気がしている。
彼女のこれまでの人生は、沢山のキラキラした、人のうらやむことも少なからずあった。しかし、彼女と一緒にいると、その類の思い出よりも違う思い出が、彼女の深いところにどっしりと沈んでいるのが良く分かった。
それは、彼女の寂しい思い出の数々、父母との死別に始まる、天原姉妹の過ごしてきた、苦労の連続の日々である。
彼女を見ていると、一見、それを立派に克服しているように見える。確かにそういう面もあるのだが、しかし、それだけではない。
僕を生涯の伴侶として選んだのも、また、僕に対する深い愛情も、彼女自身のそんな寂しい体験に、少なからず影響を受けているのを、僕は知っている。
彼女はキラキラした自分ではなく、寂しく惨めで、弱々しい自分を、僕に紹介したいと思っている……。今のところ、彼女がこんな新婚旅行がしたいと言い出した理由について、行き着いた結論はそうだった。
そして僕はそんな彼女に、ただしっかりと寄り添っていたいと願うのだ。
理解してやるとか慰めてやるなんてのは、まだできそうもないから。
……鈴子
彼女の背中が、ふと、ここに住んでいた頃そうであったであろう、小さな少女のように、細く小さくか弱く見えた。
僕はほとんど無意識のうちに彼女に近づき、彼女の腰に手を回しキュッと抱き寄せた。……彼女の肩が少しだけ震え、横目で見ると、その頬に一筋の涙が落ちて行くのが見える。
「せっかく来たんだけど、ここにいたころ頃のこと、あんまり覚えてないんだ……。」
へへーって、涙を溜めた目を細めて、頭かきながら申し訳なさそうにそう言った。
「そっか」
この家にいた頃は、まだ家族四人揃って楽しく暮らしていた時代。でも、そんな温かい時代の具体的思い出は無いという。
僕の心がギシッと軋んだ音を出した。堪らず鈴子を抱く腕にキュッと少し力を加えた。彼女はそれに応じるように、僕の方に頭を持たれかけ、何か感触を確かめるようにじっとしていた。
静かな時が流れる。伝わってくるのは彼女の鼓動、そよぐ風に吹かれる少し色づき始めた木の葉。
じっと身動ぎ一つせず佇む僕ら。でもこの静けさの中で、彼女の中では色々な思いが行き交っているのが手に取るように分かった。
そうしているうちに、もたれかかっていた頭が不意にふっと持ち上がり、こっちに向いた。見るとニーっと笑った笑顔。
「じゃあ、今度、わたしが運転するね!」
「あ、もう良いのか?」
「うん、……ありがと」
明るく軽やかな声でそう答えた。まあ一応、何か答えが出たらしい。その答えが気にならないではないが、それを話すかどうかこそ、彼女の気持ちに任せるべきことだと、自分に言い聞かせた。
彼女はさっさと自分のバイクに近づくと、前の席にまたがった。そして、立ち尽くしている僕に向かって、さあいこうよという顔を向ける。
ジーンズにTシャツ。それにしても、昨日はあんなに色っぽかったのに、今日はずいぶんボーイッシュで雰囲気が違う。バイクに跨った姿は、ものすごく決まっていて、正直文句なしでかっこ良い。
とても女の子らしい鈴子、無茶苦茶かっこいい鈴子……
僕はその2つの彼女の間で、結構、振り回されてきたものだった。でも、その両方が鈴子なんだ。
僕はひとつ頷いて、彼女の方に近づいていった。
<な、なんだ、この細さ>
言われるままタンデムシートにまたがって、じゃあということで、片腕を彼女の腰に回しかけた僕は、余りの華奢さに捕まるのを躊躇してしまった。
「どうしたの?」
跨ったまま、一向に準備をしない僕をいぶかしがって、シールド越しに聞いてきた。
「あ、うん」
覚悟を決めて、彼女の腰に左手を回す。右手はタンデム・バーを掴む。
しかしできるだけそっとまわした片腕だけでも、服を通して伝わってくる彼女の体の生々しい質感はちょっとヤバい。思わず昨日の晩のことを思い出してしまい、またハッと手を離す。一気に鼓動が早くなり、ちょっと、どうするんだよこれ。
「どうしたの!?」
微妙にいらだちの含まれた声が飛んできた。
「あ、なんでもない」
まさか、昨日の晩のことを考えていたとも言えるはずもなく、鼓動が伝わらないように、出来る限り体を離し、覚悟を決めて彼女の腰にしっかりと腕を回した。
「はぅ……」
声を漏らした彼女は、急いで口に手を当てる。
「どうした?」
「な、な、なんでもない……よ」
真っ赤になって、消え入るような声で彼女は答えた。
「じゃ、じゃあ、行くね」
ちょっと上ずった声でそう言った彼女は、ストンとシフトを入れ、スロットルを回してクラッチを当てる。
トントントン……
僕らまた、鉄馬上の人となる。
しかし、残念ながら、さっきまでの快適なツーリングとは行かなかった。
今までこういう時はいつも僕が運転していた。だから前後ろ入れ替わっても、別になんでもない「二人乗り」だと思っていた。しかし、それは余りにも甘い認識だった。
嫁の手がハンドル操作で不自由なとき、自由な夫の手がその腰に回されるというのは、物凄い妄想をかきたてる状況なのである。
腰だけではなく、ちょっと動かすならば、腕はその上に鎮座している、豊かな胸に接触する。更にまずいことに、そういう妄想にとらわれているのは、僕だけはなく、彼女自身もそうみたいで、何だか時折、ハーと溜息ついたり、クニュと体をくねらせたりするし、さっきとは違ってやたらに無口だったりするのだ。
「鈴子……」
「あ、うん」
「代わる?」
「……うん」
結局、次の目的地への旅程の半分も行かないとこで、さっさと前後ろを交代することになったのだった。
<やっぱ、こっちがまだ良い……>
人目を集めて仕様がない僕の背中にへばりついている鈴子に苦笑しつつ、再びバイクを走らせる。ずっと続く海岸通り。心地よい風に吹かれながら、次の目的地へと向かっている。
初めの訪問を終え、僕の胸には予想外の大きな満足感があった。初めは新婚旅行らしくない新婚旅行に、ちょっとひっかかっていたが、これは思いの外、多くの思い出が出来そうだと、ここに来てワクワクし始める。
「功太郎さん」
「ん?」
「海、綺麗だね!」
「功太郎さん」
「あ?」
「船だよ!」
「だな」
さっきにも増して、楽しそうに話し続けてくる鈴子。おまえ、どんだけ嬉しいんだ!と突っ込みたくなるほどのはしゃぎ様。
……そしてそんな彼女を、息が詰まるほど愛おしく思う自分がいる。