第五部 9
第五部9をアップするにあたり、第五部8の最後を、再編集しました。変更しまして、申し訳有りません。
時子さんが、家を片付けると言って帰ってから、僕らは二人で作業を続ける。
部屋いっぱいに無造作に積まれている荷物、初めは先の見えない作業に気持ちは塞ぎ勝ちだったが、コツコツとやっていく内に積まれた荷物の山は低くなり、次第に視界が開けていく。
<これ、僕の部屋?>
そこに現れた光景に、思わず目を見張った。見慣れた昨日までの僕の部屋のそれとは、ずいぶん違うものだったからだ。
僕の机の横には、磨き抜かれた古い三面鏡。コンピューターラックの横にはベージュ色のチェスト。ボロボロだった卓袱台は、パステルカラーのローテーブルに入れ替わっていた。
更にはカーテンも素っ気ないライトブルーの無地の物から、小さな上品な花柄の明るい暖色の物に変わっている。そのカーテン・レールの端には、片付けられるのを待つ、カラフルでエレガントなワンピースとかスーツが幾つか掛かっていた。
実家にいた時ならいざ知らず、こんな風景を自分の部屋で見ることは、全くもって有り得ないことである。
僕は掛かっているミニワンピを眺めているうちに、それを着て、眩しくってまともに見れないような笑顔を湛えながら、僕に寄り添い嬉しそうに歩いている、彼女の姿が目に浮んできた。
<こ、これって……。>
まさに男なら一度は夢見るシチュエーション。そしてそれが、これからの僕の日常になるのだ。胸はキュンと鳴り、ジワッと暖かいものが胸に広がっていく。
「功太郎さん、これ、ここに置かしてもらって良いかなあ?」
「えっ、あ、なに?」
振り返ると、水屋の横のスペースに、小物入れを置こうとしている彼女が居た。
「あ、い、良いよ」
<……はー、今のバレたかな?>
ボーっと妄想してるの見られちゃったかもと、思わず声が上ずる。
<こんなこと考えている場合じゃない。>
その後、変わらず作業を続ける彼女に、胸をなで下ろすも、手際よく片付けを進める鈴子の姿に、油を売っていたのが恥ずかしくなる。
<じゃあ、これからいくか>
気を取り直して、さあ再開だと、邪魔になっているダンボール箱に手をかけた。見ると小さく「インナー」とか「スカート」とか書かれている。ウワッと思わず固まってしまう。
<何やってんだ、僕。>
……このテンパり方、有りえない。
悲しいかな、余りにもそっちの経験の無い僕は、偉そうな事を言ってみても、実際はこうなのだ。僕は無性に自分が情けなくなり、隠れて大きなため息をついた。
でも……
どうしたんだ? 今日の僕
テンパっている自分を、冷笑をもって見つめるもう一人の自分は、自身の中に不思議な違和感を感じていた。それは他ではない、彼女と一緒に居られる幸せを、今まででは有り得ないほど素直に、心から喜んでいるということ。
そう、今までみたいに「どうせこんな上手い話、いつどうなることやら……」みたいな、斜に構えた投げやりな思いが、見事に沈黙しているのだ。
<「だって、大好きなんだもん……。」か>
僕の心の底に、あれからずっと響いている声が、またフッと意識に上って来た。あの時心に芽生えた信頼は、確かに今も僕の心を静にしっかり包んでいる。
そう、この部屋はもう「僕の部屋」ではなく、「僕らの部屋」なる。今まで、ここに「やって来て」いた彼女だった。でも明後日からは、ここから買い物に行きも、ここから仕事に通い、そしてここに帰ってくる。
彼女の家はここであり、彼女は僕と生涯を共にする家族になるんだ。
……僕の、家族。
もう一度、部屋の中を見渡してみた。すると、今度は今日やって来た家具の一つ一つが、ちょっとはにかみながらも、居心地良さそうに据えられている様に見えた。
「あー!! こんなところにあった!」
物思いに耽る僕の後ろから、いきなりの鈴子の悲鳴のような声がした。反射的に向き直ると、そこには自分のケータイを手に、ヒッと身をすくめた鈴子がいた。
<そっか……>
彼女はガバっといきなり、頭を下げた。
「ゴメン、わたし、こんなに酷いことしたんだね。」
ちらっと、ギュッと握り締められているケータイの画面に、着信履歴が映し出されているのが見えた。そこにズラッと並んでいるであろう僕からの発信履歴。思いっ切り必死だったのが暴かれたようで、僕は慌てた。でも、それ以上に慌てていたのは鈴子だった。
「功太郎さん、ゴメン……」
ケータイの画面を見つめる彼女は、苦しそうに顔を歪め押し黙る。
「……鈴子」
白くなるまで手を握り締め、深々と頭を下げている彼女の頭の天辺を見詰めていると、昨日の色々なシーンが蘇って来る。今、彼女の右手にあるあのケータイに、何度となく祈るような思いで発信したことも。
<でも、電話、ここに忘れてたってだけ、ってか……>
誰もいないこの部屋で、虚しく鳴るケータイが目に浮かぶ。そりゃいくら掛けても出ないはずだ。なんだか無性に可笑しくなってしまった。
そこで、また思った、
<あれ? やっぱり、僕、いつもの自分と違う。>
そこに見出すのは、この期に及んでも、なお不思議なほど静かに落ち着いた自分自身。
「鈴子、もう良いんだ。」
自然とそんな言葉が出た。
「……もう、良いって」
彼女は驚いたような顔をしたかと思うと、急に表情が崩れて泣きそうな顔になった。
「良いって、……良くない、良い訳ない!」
啖呵を切った後、口を尖らし「そんな風に言わないで、お願い……」と蚊の鳴くような声で続ける。まるで別れでも告げられたみたいに、焦燥し涙を流す彼女に、僕は内心ため息をついた。
<一体、どういう勘違をしてるんだろう?>
誰よりも思いを分かり合えていると感じる半面、当然のことが通じ合わない苛立ちに、何度となく驚かされ悩まされた。後で全部取り越し苦労だった事が分かって、ゲッソリとしたのは、一度や二度ではない。
さめざめと泣く鈴子を眺めながら、つくづく思ったのは、このままではいけない、取り越し苦労する前にどうにか出来るようにならなければ、いつか必ず、取り返しが付かないことになるということだった。
<じゃあ僕は、どうしたら良い?>
そんな問いに、ハッとする。
いやそもそも、小心な僕なら、テンパってしかるべきこんなシチュエーション。にもかかわらず、尚もこんなに色々な事考えちゃったりして、余裕をかましてる今日の僕って何?
思い当たるのはたった一つ、彼女のあの告白の言葉だった。
<そっか>
結局は、そう言うトラブルって、一番大切な思いを伝え合い切れていなかったからじゃないのか? 信頼はしていても、どこかに不安を置き忘れてきたから、些細な事でも、揺さぶられてしまうんじゃないだろうか……。
<だったら、これしかないよ。>
僕は腹を決めた。
「ごめんな、ずっと不安なまま置いといて。」
「ん?」
「鈴子、僕な、あのな」
涙に濡れた彼女の瞳が、ジッと僕の方に向けられる。
「鈴子、僕も鈴子が大好きだ。ずっと大好きだった。」
僕は鈴子が芽生えさせてくれた、この素直な思いを全部傾け、彼女に語りかける。
「そしてこれからも、ずっとずっと、……大好きだ。どんなことが有っても、大好きだ」
「……功太郎さん」
「愛してる」
彼女は、宙を見つめて固まった。
「だから昨日のこと、本当にもう良いよ。それにもう僕は、鈴子が居なくなってしまったり、気持ちが変わってしまうなんて、思わないから」
「え?」
「ほら見ろよ。」
僕はだいぶ片付いた、部屋を見回しながら、彼女に語りかける。
「もうここは鈴子の家になったんだ。夢じゃないぞ。鈴子は明後日には間違いなく、僕の家族になるんだからな。」
「家族……」
「それに、昨日な」
「うん?」
「鈴子、僕のこと『大好きなんだもん』って言ってくれた。」
「あ、……うん」
「はっきり分かった」
「な、なに?」
「鈴子はこんな僕のことを、本当に本当に、大好きでいてくれるって」
彼女は目を瞬かせ、唇を噛む。鼻を啜ると急に顔が歪んだ。
「今更、……それに『こんな』は、いらない……し」
それっきり顔を伏せて黙りこくってしまう。余りに長く動かないでいるので、何か不味かったかと心配になり、恐る恐る鈴子の顔をの覗き込むと、彼女はホロホロと涙をこぼしていた。
「悲しい?」
「また、……何で、そうなるの?!」
キッと睨んだ彼女は、バンと手のひらで僕の肩を突こうとする。しかしその手の平は、僕の肩に優しく達するや、突くのではなく二の腕をギュッと捕まえた。
「わたしには、もう功太郎さんしか居ない。でもね、後悔はないよ。本当に不思議な程。これで良かったと思ってる。」
……僕しか、居ない……
その一言に、僕はドキッとした。
父母を失い、昨日、ずっと過ごしてきた友達に、別れを告げてきたと話してくれた。今日は姉と過ごした家を出て、全部を持って僕のところに来た。
フッと恥らいをごまかす笑顔を作ると、ちょっと戯けたように言った。
「言っておきますけど、わたしは功太郎さんとは違って、功太郎さんナシでなんて、『一瞬も』生きていけないんだから……って、功太郎さん?」
気がついたら、僕は彼女の手を引っ張って、自分の胸に引き寄せていた。耳元で焦りまくる彼女の声がした。
「鈴子、ごめんな。今まで辛い思いさせて。」
「どうして? わたしこそ……だよ」
<鈴子……>
僕の腕の中に収まって、静に佇む彼女。時折鼻を啜る音がするのは、まだ涙が止まらないからだろうか。
そんなことを考える僕の脳裏には、友達たちに別れを告げる彼女の姿が浮かんで来る。現場には居合わせたわけではなかったが、彼女から何かが伝わってきて、まるでそこに居たような錯角を覚えるほど、クリアなイメージを僕に見せるのだった。
小さいころから、家族のように付き合っていたヤツら、そう、あのアルバムに載っていたように、沢山の楽しい時を過ごした彼らのところから、まだ会って一年そこらの僕と一緒になるためにやって来た。こんな何も取り柄のない僕と一緒になるために、彼女はここに来た。
気が付いたら、僕の奥歯はカタカタ音を立てていた。唇も振るえ、固くつむっている瞼の隙間から、涙が溢れ出ようとする。
彼女にそんな自分に気付かれなくって、必死に我慢していたのだが、思わず咽んだら、静に彼女は僕の体を押し返した。
「功太郎さん?」
声を出すと、それだけで慟哭しそうで声が出ない。グッと嗚咽をかみ殺して居ると、唇に暖かい物が触れた。
ハッとして目を開けると、涙に濡れた睫毛が見えた。睫毛に揺れるいくつものキラキラ光る涙の粒。静かに閉じられた目元から滲んでくる、例え様の無い優しさは、僕の心に響き続けるあの言葉の様と重なって、胸の疼きをすっぽりと包んでしまう。
<鈴子……。>
僕は彼女の体を掻き抱いた。
++++++++++
「けっ、結婚前だから、こんなもん……か。」
「え? あ、……うん」
少しばかり肌蹴た服を、カーペットの上にペタンと座って、恥ずかしそうに直しながら、彼女はそう答えた。でもそれっきり、うつむいて黙りこくってしまう。僕は無性に申し訳ない気分に苛まれる。
「……ゴメンな」
静寂の圧迫感に堪らなくなって、謝罪の言葉を言った。
「え? ……別に謝ることじゃ。婚約者だし」
「あ、いや、ちょっと……早まった……かな」
今まで、軽いキスだけだったのが、今日は気持ちに押されて、キスともうちょっと……。
「だって、友達なんか、……スゴイ話するよ。わたしが目を丸くし固まってると、『今時、何お子ちゃまな事言ってんのよ!!』って、思いっきり引かれちゃったりするぐらいだし」
「そ、そうなんだ……」
彼女は思わず伸びた手のしでかしたイタズラの事を、気にするなと言って許してくれる。でも、彼女の揺れる眼差しを見ては、到底これで良かったとは思えなかった。
「いや、友達なんかどうでも良い訳で、鈴子が傷ついたら、それはそれで十分に悪いことだから」
「え?、……うん」
「ごめん」
「あ、うん」
ホワッと彼女が纏う物が和らいだように見えた。
「あ、でも、ちょっと違うかも、傷ついたって言うのとは。……ビックリした。いつもの穏やかな功太郎さんと違って見えたから」
そう言うとポッと頬を赤らめた。
「そ、そっか……。結婚のこと、凄く大事にしてるって、あんなに聞いてたのにな。ほんと、驚かして悪かった。」
僕は心底悪いことをしたと思って、もう一度、頭を下げた。
「功太郎、さん……」
<さっきは、相当、良い雰囲気だったのに、これで、丸つぶれか。>
僕が内心苦り切っていると、慌てたように彼女は言った。
「で、でも」
「でも?」
「ちょっとワイルドで、いつもより男の人っぽかった」
「そうなんだ」
<これは、赦したということ? それとも非難してる??>
そう言うと、頭をかしげる僕を後に、ガバっと立って、あ、もう夕ご飯だねとか言いながら、キッチンに行ってしまった。
「功太郎さん、ありがと。」
背中を向けて、エプロンを着けながら、彼女はつぶやくように言った。
「あ?……べ、別に、お礼言われる筋合いは、全く」
「明後日にはね」
「ん?」
冷蔵庫から人参と大根を取り出した後、立ち止まってモジモジしていた鈴子は、ちょっとテンパッた声で言った。
「全部、全部、功太郎さんのだから!」
「僕の?」
<……はあ、それって?!>
アチッってポットのお湯を手に掛けて、慌てて耳たぶを掴む鈴子の横顔を見ながら、僕は僕の内側で、またもやムラムラと燃えたぎり始めるコイツを、どこにどう持っていこうかと、途方に暮れるのだった。