第五部 6
「今日、友達に『お別れ』を言いに、あちこち回ってたんです。」
「え?」
そう言うと、目を逸らし言い辛そうに言った。
「そ、その、……『男の人』にも。」
「えっ、……そ、そっか。」
僕は鈴子のいきなりの告白に、口篭もるしか出来なかった。
<何やってんだか……。>
……赤くなったり青くなったり、かと思ったら真っ暗……。
今日の僕はとことん鈴子に振り回されっぱなしだ。もう彼女が何を考えているのか、訳わかんなくなってる。
誰よりも分かり合えている僕らだと自負していた。だからこそ僕等は結婚するんだとすら思っていた。だけど今日一日で、その自信は木っ端微塵に砕け散った。
力がゲッソリと抜けていく。鈴子はそんな僕を済まなそうに見つめていた。
このキャンパスが山の中にある、郊外型であることもあってか、街中よりもずいぶん涼しい。そして夜空にはこんなに星が有ったんだとビックリするぐらい星が瞬いている。
街からすれば空気が幾分か澄んでいて、なおかつ邪魔になる光も大学構内の明かりだけなので、星を見るには良い条件なんだろう。
そう言えば、ここは結構知られたデート・スポットというのを聞いたことが有った。なるほど僕らが居るところからも、綺麗な夜景が見渡せるし、星の光と夜景……確かにそれも頷ける。
そんなロマンティックなシチュエーションなのだが、僕らの周りにはどんよりと重い空気がたなびいている。
僕らは時折人が通る駐車場横じゃこんな話できないと、そこから移ってキャンパスの片隅に設けられている広場に行った。そこにはベンチが何台か据え付けられていて、僕らはその一つに並んで座った。広場の真ん中には一つ街灯。薄暗く公園全体を照らしていた。
人通りはほとんどといってなく、聞こえるのは時折吹く風が、木を揺らす音がするぐらい。これで落ち着いてはなせるかと思ったが、逆にこうなると、何か話して場を繕わねばと焦ってしまう。
焦りは頭の中を余計こんがらがらせる。沢山言いたい事があったはずなのに、どうしても言葉にならない。途方に暮れていると、鈴子のほうから話の口火を切った。
「前にも話したことがあると思うけど、わたし、幼なじみがいるの。小さいころからずっと過ごしてきた人たち……。」
鈴子は押し黙る僕に、ポツポツと話し始める。
「ああ、聞いた事がある。」
やっとのことで応える。
鈴子の幼馴染……。確かにそれまでも何度か彼女の話に出てきた。
時子さんが高校生の時、学校のアイドル的存在であった事でも分かるように、天原姉妹は誰とも仲良く出来る人たちであり、人付き合いの苦手な僕にしてみれば、憧れてしまうほど友達の多い人たちである。
その友人の中でも、鈴子達が小さい頃からずっと天原家と親しくしていたのが、鈴子の言う数人の幼馴染。そう、あの鳥越でバトルした森山忠や、タレントの笹塚時也、例のサーフィン・コンテストに優勝した小森和夫などである。
「わたし、本当の兄弟みたいだった……。」
彼女は懐かしさと寂しさが入り混じった笑顔を作り、フッと視線を満天の星の輝く夜空に向けた。
「でも、いつの間にか、変わってたんだね。」
そう言って溜息を付く。そんな彼女の横顔は端正で、少し憂いを漂わせるそれは、ゾクッとするほど綺麗だった。
思わず彼女に見とれていると、彼女はやっと聞こえるような声で、呟くように言った。
「はは、……みんなに、プロポーズされちゃった。」
一瞬、心臓が止まったかと思った……。
自分の耳が、本気で信じられないと思ったのは、後にも先にもこの時だけだった。
確かに「幼馴染」達が、鈴子に気があるのは僕の目で見ても間違いなかった。だが、プロポーズをするまでの関係だったとは、全く考えてもいなかった。
僕なんか太刀打ちできないようなスペックを備えた彼らのプロポーズ。一体、彼女は……。
完全に虚を突かれた形になった撲の心は、いきなり襲ってきた嵐に弄ばれる木の葉のように、激しく揺れる。
「わたしたちが婚約した頃、急に皆で集まろうって連絡が来て……。」
鈴子は僕の知らなかったその幼馴染との一連のことを、訥々と語り進める。
「……それでね、みんながわたしに結婚して欲しいって……。わたし、びっくりしちゃって、それで、ろくに返事も出来ないで、そのまま、みんなを置いてお店を出た。」
僕は鈴子の話を聞きながら、森山忠とのバトルの時のことを思い出していた。
いきなりうちの会社に尋ねて来て、やたらと好戦的で、そのうち脈絡も無く決闘を申し込んできた。世間で言われている、日本経済を背負って立つ次世代のホープの風格なんか、どこにも感じられなかった。あまりに直情的で子どもじみた行動に思えた。でもそれは形振り構わず、最愛の人を取り戻そうとしている、一人の男の姿だった。
「わたし、からかわれてるんだと思った。いきなりそんなこと言われて。今までそんなこと全然無かったし、わたしだって一度も考えたこと無かった。」
彼らの思いは空回りだった。プロポーズの言葉は彼女にトキメキどころか、大きな痛みを与えていた。彼女は話している内にも涙は目から溢れ、話は嗚咽でしばしば中断する。
「兄弟だと思ってたのに、急に『男の人』になったり、何でも話せる優しい人だと思ってたのに、功太郎さんにあんな酷いこと言ったり、みんなで仲良くできたら良いなって思ったのに、お互いに喧嘩みたいになったり、シカトし合ったり……。」
彼女は胸に手を押し当て、呻くようにそういった。
どこにでもある恋のバトルの情景だった。しかし、彼女にとってそうは簡単ではない。彼らは物心付いてからずっと、家族のない彼女の「家族」だったのだ。その理想的な「兄」たちが自分のことで、骨肉を争う争いをするのだ。
彼女の拠り所であった「理想の家族」が、一瞬の内に消し飛んだ。彼女が深く傷つくのも無理はないことだと思った。
ここまで聞いた話は、ほとんど僕の知らないところで起きた出来事だった。彼女は僕の知らないところでこんなに傷つき、戸惑い、苦しんでいた。
そしてそれでも、僕のところに帰ってきてくれた……。
かつて僕は、半分押しかけてくるみたいな鈴子のことを、迷惑とは思わないまでも、周囲の目も気になって、重荷に思わないでもなかった。
おまけに半分住み着いて、すっかり奥さん気取りの鈴子を見ては、よっぽど僕のことを好きなんだと、身の程知らずなことを考えたりもした。
鈴子はそんな僕をどう思ったんだろう。嬉しそうに世話を焼く家での彼女の姿を思い、今、目の前で涙を流す彼女と比べ、僕はやり場の無い恥ずかしさと情けなさとで、身の置き場に困っていた。
「わたし、もうすっかり訳が分からなくなって……。怖くって、ずっと、みんなに連絡取れなかった。でももう結婚式が近づいたでしょ。このままやっぱりダメだって、日曜日に、みんなに電話したんだ。」
嗚咽が静まり、静かな空気が僕らに帰ってくると、彼女は独白を続けた。
プロポーズした男たちへのアポ……。知らない間に鈴子がそんなことをしていたのを知り、少なからず戸惑ったが、それより彼らからどんな反応が帰ってきたのだろうかと言うことが気になった。話の続きを待っている僕に、鈴子は呟くように言った。
「……そうしたらね、電話出てくれたの、一人だけだった。……ほとんどみんな、この町、出て行っちゃってたの。」
それは僕にしても思わぬ展開だった。
電話をしても通じない友人達。彼女は色々知り合いを当たって、その幼馴染達の消息を尋ねたという。
「みんな、仕事は東京とかでも、ずっとこの街にいたんだよ。みんなこの町が大好きで、子どもの頃からずっと一緒、最近まで、時々集まって遊んだりしてたんだ。」
彼女は足元の小石を一つ蹴った。コロコロと小さな石が闇に消えていく。
「今日、まだこの街にいる幼馴染のところにも、……行ったんだ。」
そこで彼女はまた、言葉に詰まらせた。固く口を一文字に結び、一点を見つめてたままピクとも動かなくなった。
どれぐらいの時間、そうしていたんだろう。また思い詰めた顔をしたまま、身じろぎ一つしなくなった彼女のことが心配になり、僕は恐る恐る顔を覗いた。彼女はそんな僕を、目に涙を溜めた目でそっと見た。
「あは、……つくづく……自分が、嫌になっちゃった。……わたしって、ほんとうにオコチャマ。はっきり言って笑える。」
鈴子らしくない、妙に荒れた、投げやりで自虐的な言い草だった。薄い笑いを浮かべると、また星空を仰いで声を張って言った。
「今日、雅司くん……、あ、その友達だけと、の所に行って色々話ししてて、やっとみんながどんな気持ちで、あんなこと言ったりしたりしたのか、……分かった。」
そして絞るようにして言葉を続けた。
「人を好きになるって、奇麗事だけじゃ済まないんだよね。大切なもの全部なくしちゃっても、どんなに無茶苦茶なってでも、誰から何て言われても、それでも、……それでも好きな人と一緒に居たいって、思うんだよね。」
「わたしだって、きっとみんながやったのと同じようなことするだろうなって。ううん、もっと酷い事をするかもしれない。もし功太郎さんが、どこかの誰かと、どっかに行っちゃうなんてことになったら。だって、……だって」
涙は益々溢れ、頬を濡らしていく。
「大好きなんだもん!」
次の瞬間、悲痛な泣き声が僕の心を貫いた。