第五部 3
「じゃあ、悪いけど、これ動かしてもらえる?」
「あ、ハイ……。」
「足元、気をつけてね。」
「ええ、大丈夫です。」
僕らの新生活のための作業なのだが、完全に時子さんに仕切られ作業は進む。
初めに懸案のタンスは無事車に乗り、その後、鏡台、チェスト、衣装ケース、そして色々と詰められた段ボール箱が続く。どれも古いものだが、丁寧に扱われていた様で、どれもアンティーク物みたいな風格があった。
物の移動ではどうしてもホコリが出るので、家中の窓は空いている。部屋の中は海から吹いてくる夏の熱気でいっぱいだった。僕はオジサンっぽいとは思ったが、背に腹は変えられぬと、首にタオルを掛け、頭にタオルで鉢巻をして、流れる汗と戦いながら、荷物を抱えて車と部屋とを行き来する。
アパートの二階にある鈴子たちの部屋を出ると、そこから街並みの向こうに海が見える。もう夏も終わろうとしているこの時期、さすがに海水浴客でごった返すということはない様だったが、それでも、サーフィンやウィンドサーフィンしている姿が小さく見えていた。
<あ、これ……。>
家具の動かした跡をふと見ると、壁にポスターが貼ってあった跡や、その下の方には子供の落書きっぽい女の子の絵があったりする。きっと、鈴子たちがしたんだろう。
彼女が子供時代から今に至るまでの時の流れ感じ、確かにここで彼女が暮らしていたんだと、ズンと実感が湧いてきた。
そしてその彼女は、今度は僕と暮らすのだ。
二人で同じ時を同じ空間で生き、同じことを体験し、泣いて、笑って、それから同じように老い、生涯を閉じていく……。
今まで考えもしなかったことを、真剣に考えている自分に思わず苦笑してしまう。しかし、笑っている場合じゃあないのだ。僕はもう自分のことだけを考えていれば良いのではない、僕に人生を預けてくれた鈴子にも、幸せな人生を過ごしてもらいたいんだから。
何とも言えない充実感と使命感が、胸にグッと来るのだった。
「ちょっと掃除機かけるから……。」
「あ、済みません……。」
壁を見ながらボーッと物思いに耽っているところに、声をかけられ我に返る。変なところ見られたと、僕は少し照れながら目の前の箱を抱え、その場を空けた。
「これで終わりだね!」
「あ、はい。」
僕はその最後の荷物を車に載せ部屋に戻ると、時子さんは荷物がなくなったところを、雑巾で拭いていた。跪いて畳に雑巾をかける時子さんの背中は、いつも「強い」感じなのに、思いの他か細かった。それを見て何かドキッとしてしまう。
<鈴子はどっちかというと、ムチッとした感じだからな……。>
女の子に関しては和風が好きな僕には、見た目に関しては、時子さんの方がずっと僕好みだと思った。
「じゃあ、ちょっとそこに座って待ってて。」
ひとしきり掃除をしていた時子さんは、それが終わると笑顔でそう言って、僕をキッチンのテーブルに座らせた。何が始まるのかと思ってジッとしていると、適当に摘めるようににお茶とお菓子を出してくれ、自分はキッチンに立って料理を始めた。
透き通るような色白のうなじが、黒い髪をポニーテールに見え隠れする。しなやかな身のこなし。それはまるで一枚の「美人画」の様だった。僕の目は時子さんに吸い付けられる。
「下村くんさあ、辛いの大丈夫?」
そんな時、時子さんがふっと振り返って聞いた。僕は思わずビックリしてお茶を噴いた。と言うのは、その言い方や仕草が、余りに鈴子に似ていたから。
「あら、下村くん、どうしたのよ?」
ゲホゲホしている僕を見て、少し呆れたような顔で微笑む時子さん。
「あ、いや、何でも……。」
<……鈴子と、すっげーそっくりだった……。>
「あ、辛いのですか? すんませんけど、ちょっと苦手です……。」
「了解!」
ムセるのをやっと抑えて答えると、時子さんはニッコリと微笑んで、また料理を再開する。僕は時子さんとはいえ、鈴子以外の女性をうっとり見ていたのを見咎められ多様な気がして、微妙にヘコむ。そして、償いと言っては何だが、鈴子の事を思い浮かべてみた。
<鈴子、どうしてんだろ……。>
そう思った瞬間、僕の中にフッと冷たいものが過った。
そして後の残るのは、妙な不安……。
僕は思わぬ自分の心の動きに、内心と惑った。すぐに紛れるものだと、受け流そうとするも、高まっていきはすれど、一向に静まらない胸騒ぎ……。
<鈴子、早く、来いよ……。>
思わず、口の中で呟く僕だった。
「ご馳走さまでした。」
「はい、お粗末でした。」
「あ、とっても旨かったです。」
食後、時子さんは悪戯っぽい顔で、お茶を啜る僕の顔を覗く。
「なんかそれ、『定例文』みたいな言い草!」
「あ、いや、ホント、旨かったです……。」
「でさ、あの子、ちゃんと君んちでご飯作ってる?」
「え? あ、ハイ。」
「あの子さ、ついこの間まで、料理なんか全然出来なかったんだけど、この半年、私でも感心するぐらい頑張ったんだ。」
「……そうですか。」
それって結婚の準備で、初めて料理を勉強したってことか?。正直、その話はすぐには信じられなかった。というのは鈴子の料理は、本当に感心するほど旨かったからだ。それに何より、鈴子は毎日の炊事を、心底に楽しそうにしてた。だから、もともとそう言うの好きだったんだと、今の今まで思い込んでいた。まさか半年の付け焼き刃なんてことは……。いや本人が、趣味は家事だって言ってたんだぞ。
しかし、どう見たって、時子さんは嘘付いている様には見えなかった。じゃあ、あんなにハイレベルになるって、それだけ努力の結果だって?
なんでそんなに、って、
そっか、僕のためか……。
なんだか、キュンと胸が鳴った。
こうして昼飯が終わり、とりとめもない話をして、午後の作業に取り掛かる。僕が立ち上がろうとすると、時子さんが呼び止めた。
「あ、そう言えば、外の倉庫に、少しだけど持って行く物、有ったと思う。」
「外ですか?」
「うん、ちょっと来て!」
僕は時子さんの後についてアパートの裏に回る。そこにはアパートの住人用の、スチールで出来た倉庫が並んでいた。時子さんはその一つに真直ぐ歩いて行って、エプロンのポケットから鍵を出してそれを開けた。
「ちょっと待っててね……。」
時子さんは倉庫の中を覗いて、確認した後、くるっとこっちに向いてニッコリと笑った。
「じゃあ、この手前にあるダンボール、お願いできる?」
指差した先を見ると、幾つかのダンボールが置かれていた。
「これ、全部ですか?」
「うん、そう。あ、それと、その向こうのはゴミだから、置いてたままにしておいて。」
そして、じゃあ、家具動かした所掃除するからと言い残し、時子さんは部屋に戻った。
<結構、あるな……。>
小さくため息を付き、作業に取りかかる。その箱には保管されていた季節外れの靴などの、屋外で使う雑貨とかが入っている感じだった。
僕はそれらの箱を抱え、何度か車との間を往復して行くうちに、その箱の山は平らげられていった。
<えっと、邪魔だな……>
こうして順調に作業は進み、とうとう最後の箱となった。ただその箱のそばに、ゴミに分類されている、ちょっと大きめのダンボールがあった。箱を抱えるのに邪魔になったので、まずゴミの箱の方を少し動かそうと、それを抱えて動かそうとした。
<うわああ、ちょ!!>
ダンボールの底が見事に抜けて中がこぼれ落ちてしまった。その箱の中身はやたらに重く、不用意に動かしたのが間違いだった。
薄暗い倉庫の中、ドカドカと音を立ててこぼれ落ちたものを、それは何冊ものアルバムだったのだ。目の前に落ちた一冊が、弾みで開いた。何だろうページを覗くと、そこには鈴子のポートレートが見えた。
<鈴子のなんだ……。>
人のアルバムを覗くなんて、良い事じゃあない。とっさに目を背けた僕だったが、僕の内側に突き上がる好奇心は、僕の良識に獰猛に飛びかかって来たと思ったら瞬殺する。
かくして僕は、汗ばむ手で、その中の一冊を手に取った。
……これ、この間みたいなサーフィン大会のだ、こっちは九十九里浜へのツーリング?、こっちは中学生の部活? 水泳部だったんだ……
貼られている写真は、小学生になってすぐの頃のものから極最近のものまであった。そして沢山の仲間たちの真ん中には、キラキラと充実した笑顔を輝かしている鈴子が収まっていた。
しばしば、でかいトロフィーとか花束とか持っている写真が出てくるのは、流石にただ者じゃあないんだなあとは思ったが、それ以外は仲間たちと過ごした、一人の女性のどこにでもある歩みであった。
でもなぜなのだろうか、そのアルバムのページをめくるごとに、胸が締め付けられるような圧迫感を感じる僕がいた。
いや、鈴子がめちゃくちゃ人気があったことや、超イケメンの男友達がいることは、ここのところの一連の事件の中で、彼女の気持ちを知り、また自分の気持ちも確かめることで、解決したつもりでいる。
……じゃあ、この脂汗が流れるような戸惑いは何なんだ?
僕はもう一度、その写真の中で、一番彼女が輝いて見える、四切の写真を見つめた。
そして気づいた。その写真の中の鈴子が漂わす雰囲気は、僕が知っている鈴子とは、全く違っているということを。
僕の知っている鈴子は、どっちかと言ったら、仕草も見た目も性格も、ちょっと天然がかったカワイイ系の女の子である。しかし、その写真の中の鈴子は、そんな隙なんか微塵も感じさせない、浅黒い肌が似合った、まるで女戦士のような、クールで精悍な美女。
僕の額に汗が吹き出していた。しかし目に入る汗を拭う余裕すらない。僕はもう一度、一番、古いものであろうアルバムのから、丹念に見直してみた。
僕はアルバムを静かに置いた。
熱い夏の潮風が、建物の間を抜けていく。夏の日差しは大分傾き、建物の影が長く伸びて、僕の作業をしている倉庫も、いつの間に日陰に入っていた。さっきより涼しくなった倉庫で、僕は滝のように嫌な汗をかいていた。日陰になり尚は暗くなった倉庫の中、僕は一人座り込んでいた。
初めから終わりまでどこを見ても、同じ顔をした別人のような鈴子ばかり。
結局、「僕が知っている彼女」の写真は、一枚もなかった。
これがどういう意味なのか……。
必死にその理由を考える。鈴子は僕の前で、演技しているのか? じゃあ僕は彼女の素顔を、実は全然知らない?
でも彼女は言ったんだ、僕を選んでくれたのは、誰よりも彼女のことが分かっているからって……。
いや、それよりも笑えるのは僕自身だ。僕は自分の妄想が作り出した鈴子と、結婚しようとしているのかもしれない。
思わず、苦い失笑をしてしまう僕だった。
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「下村くん、悪いね。でも助かる。」
「こんなこと、お安い御用ですよ。」
倉庫の荷物を車に運び終わると、今度は空いた部屋に、時子さんの部屋のものを動かすことになった。初めは自分だけでするといっていた時子さんだった。しかし、ここに来るはずの鈴子はまだ来ていなかったので、一人で家に帰るわけにもいかず、暇だからと半ば無理やりに手伝う。
恐縮する時子さんに、僕は愛想良く答える。僕は倉庫のアルバムの一件以来を、重い気持ちをずっと引きずっていたが、捨てるはずのものを盗み見したというのが引っかかって、時子さんに自分の変化を悟られたくなかった。
「この箱、ここで良いですか?」
「うん、ありがと。じゃあ、悪いけどこれも運んじゃおうかな?」
「良いっすよ。」
僕は時子さんが動かそうとしていたタンスを、一緒に動かしにかかった。
表面では、どうにか繕っているが、さっき感じた戸惑いは、僕の中で益々激しく渦巻いていた。
僕はあの写真を見て、自分の判断に自信が持てなくなってしまっていた。そして今まで疑うなんて考えたこともなかったものが、全部、幻想に思えてくる。
疑念はあらゆるものを揺さぶっていった。初めは詮索することすら思いつかなかった今日の鈴子の単独行動。ここに来て不審を掻き立てる黒い感情が僕を苛み、苦しめるのだった。
<あの、僕の知らない鈴子の顔で、僕の知らない間に、僕の知らないヤツと……。>
いや、まさか、鈴子に限って……。
でも、お前の知っている「鈴子」ってのが、怪しいんじゃないのか?!
……思わず、眩暈してしまう。
「ほんと、ありがとー、こんなにすぐに終わっちゃうなんて、思ってもみなかった。助かったよー。」
「いえ、どうも。」
時子さんに感謝されてるも、素っ気ない答え方をしてしまう。もうそのころには、負の感情は僕の胸を息も出来ないほど圧迫していた。
オプションの時子さんの溜の模様替え作業も終わってしまうと、完全にやることがなくなってしまった。これ以上、ここにいる意味は無いのだが、それでもまだ鈴子は帰ってきていない。部屋が夕日の赤で染まっていく。長い夏の日は、もう沈もうとしていた。
「鈴子、遅いね……。どうしたんだろ。」
つぶやくように発せられた言葉。ポロッと零れた時子さんのその言葉に、僕は生傷を触られたような激痛が走るのを感じた。今まで、膨らむ不安をやっとのことで抑え込んでいたのが、この一言を耳にした途端、意志とは別に音を立てて動き始める。
時子さんは鈴子に電話をかけようと、ケイタイを手に取る。
<鈴子、どうしっちゃったんだ……。どこにいるんだ……。>
心の中がギシギシと軋み始め、まさに溢れようとしていた。
「あれ? 出ないね……。」
時子さんの顔にも、不安の色が浮かんだ。
「あ、あのう、僕、鈴子探しに行きます。」
「って、どこに行ったか分かるの?」
「え? ……いや。」
一瞬、答えに詰まるも、もう、ここでじっとはしていられない。
「どうにか、探してみます。」
僕は心配そうに見る時子さんの視線を振り切り、外に飛び出そうと立ち上がった。
「あ、ちょっと待って、あの子、この昨日の電話でなんか沈んだ声してたから、海に行ったかもしれない。あの子、なにか悩むと、絶対に海に行くのよ。それと、車で行ったら小回りが利かないだろうから……。」
え?!っと思ったら、時子さんが何かを投げて渡した。キャッチした手を見ると、キーだった。
「私のバイク使って。」
「あ、ありがとう……ございます!」
僕は挨拶もそこそこに、アパートの外に飛び出した。