第五部 2
「スーちゃん、もう、来ないと思ってたんだけどな……。」
「あ、うん……。」
それっきり重たい沈黙。時折、お客さんの応対でカウンターを離れることもあったが、その間もスーちゃんは押し黙ったままだった。俺はそんなスーちゃんに、この時期うちに来たら必ず注文するアイス・コーヒーを出す。
今まで、どっちかというと場を盛り上げるキャラだったスーちゃん。俺らはみんな、スーちゃんと一緒にいると、いつしか吹っ切れて元気になったものだった。だが今日はそうではない。重い空気をしょって、背中を曲げてカウンターに座っている。
いつもがいつもだから、スーちゃんが醸し出す重い空気は、余計俺には耐え難かった。どうにかこの息も詰まりそうな所から抜け出そうと、適当な話を振る。
「そ、それはそうと、サーフィン、調子どうだい? 海水浴の人、少なくなって、これからだもんな…… アハハ。」
「え?……う、ううん、行ってない。っていうか、もうしないかも。」
思わぬ切り替えしに、言葉が詰まる。
「だって、スーちゃん、あんなに一生懸命……。」
「……う、うん。」
ウグッ、全然、抜け出せなかった……。じゃあと話題を変える。
「これからだなツーリング。涼しくなってきたら行くんだろ? お、そう言えば、浩二んとのサークル入ってるんだったよな。あいつ今度、紅葉見に、日光まで行くって言ってたぞ。」
「あ、……ちょっと。」
彼女、苦笑して言葉を濁す。
前のスーちゃんとは、随分勝手が違う。今まで間違いなく食いついてきそうな幾つかの話題を振っても、見事に空振りだった。
そこには既に、ガキの頃から一緒に団子になって大きくなってきた、天原鈴子はいなかった。そしてこれが、スーちゃんが人妻になり、別の世界の住人になるということなんだとを、噛み締めるのだった。
そう、もう二十年以上思いつづけてきた。そして今はまだ、こんなに近くに居るスーちゃんなのだが、数日後には声もまともに掛けられない人間になってしまう……。それはまるで……俺の心の一部が、無くなってしまうようような喪失感。
カラン……
俺はスーちゃんが弄ぶ、アイスコーヒーのグラスの中で、氷が転がる音で深い思いの中から呼び戻される。
……スーちゃん。
カウンター席、俺の斜め右前に、俯いて座る彼女。その物憂げなその表情は、元気で明るい時や、サーフィンやバイク乗っている時のあの精悍さとはまたちがう、魅力に輝いていた。
<やっぱ、スーちゃんはたまんなく可愛いし、俺は彼女を今でも好きだ……。>
心底そう思った。
「ありがとうございました!」
昼下がり、これからティータイムまでが、店が一番静かな時間帯。俺は昼食時の最後の昼のお客さんを送り出すと、後は店の中は晩夏を思わせる、有線から流れる少し物悲しいサウンドが響くのみ。
どちらかと言ったらオープンな造りのうちの店なのだが、エントランスのレジから店の中に向かうと、夏の日差しの逆光で少し薄暗く感じる。
奥のカウンター席に一人残ったスーちゃん。彼女の背中を眺めながら、俺はレジから戻っり元居たカウンターの中に入った。
スーちゃんはやっぱり何か考え込んでいて、氷の解けてなくなったアイスコーヒーのグラスを弄んでいる。そんな彼女を見ているうちに、ふと一つの考えが浮かぶ。
そうなのだ、考えてみたら、これでこんな風に話せるのもこれが最後だろう。だとするなら、今、言いたい事を言わずにいたら、後々悔いが残るだろう。それに逆に言えば、これでお終いなのだったら、別に取り繕う必要もないってことだ……。
<そう、今しか、……無いんだ。>
そんなことを頭に巡らしているうちに、俺は一世一代の覚悟をする。
俺はゴソゴソッと動いて、スーちゃんの真ん前に立った。そして、一つ深呼吸をすると、不思議と言葉が口から零れ始める。それは俺がずっと心にしまってきた思いそのものだった。
「俺、スーちゃん、いなくなると、……寂しいよ……。」
彼女はスッと顔を上げた。僕はボーッと向けられるその視線に、つぶやくように言う。
「俺、やっぱ、スーちゃん好きだ。もう、結婚が決まっているとしても……。」
彼女はそれでも視線を逸らすこともなく、ジッと耳を傾けている。
「スーちゃん、……俺と一緒にならないか?」
俺は耐えられなくなり、視線を逸らしそう言った。敢えて彼女の反応を確かめることをせず続けた。
「結婚、ドタキャンするなんて、一生、悪く言われるかもしれない。なら、俺が無理やりに略奪したことにしたら良い。スーちゃんと一緒になれるなら、俺、何でもできる。」
……そう、何でもできる。自分の心に確かめると、躊躇無く頷くもう一人の俺がいる。
「もしさ、この街に住み辛くなるからっていうなら、その時は……。」
一つ深呼吸をして、最後の一言を紡いだ。
「もし、そういうことになるなら、俺、この店たたむ。そんで俺の実家に一緒に行ってくれねーか。そこで一緒に暮らそう。この店高く売れるだろうから、それで小さな店でも構えてさ、な、良いだろ!」
……あ、……言えた……。
俺の心臓は早鐘のように打っていた。ずっと考えていたことを、とうとうスーちゃんに言った。それは俺の人生の全部を掛けた、プロポーズ。
恐る恐る彼女の顔を伺うと、俺に向けられた目には、涙が溢れていた。
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「あ、下村クン、それこっちね。」
「あ、ハイ……。」
<こんなに柔らかい雰囲気の人だったっけ?>
僕は今まで、時子さんのことを、何でも鋭い上目遣いで見る、気を許したら何言われるか分からない人だと思っていた。
しかし、今日、一緒に片付けをしている時子さんは、僕がイメージしていキツい感じは全くなかった。それどころか、どこまでもやさしく穏やかで、配慮の溢れる女性だった。
時子さん&鈴子の家は、築二十年は下らない2Kのアパート。でも、隅々まで手入れが行き届き、汚いと感じる所は一つもしない。
小さな玄関を上がった所に流しがあって、玄関の横が洗面所と風呂らしかった。奥に行くと手前が時子さん、奥がが鈴子の部屋。
鈴子の部屋には、色々と荷造りがしてあり、引き出しを出した枠だけのタンスが置いてある。あと小さな鏡台と衣類などが入っているような段ボール箱。台所用品とかは、もう買い揃えたので、これを運び込めば引越しは一応は完了ということだ。
タンスも鏡台も新しいものではなく、大切に大切に使われてきた感のある、古いものだった。もしかしたら、今は亡きお母さんの形見とかかもしれない。僕の中になんとも言いようのない、温かいものを感じた。
「時子さん、大丈夫ですか?」
僕らは二人でタンスを抱え、アパートの階段を降りていた。
「大丈夫! こう見えても、かなり力仕事には自信があるの。ふふ、でも、こんなことしてると、文化祭のときのこと思い出すね。」
さもうれしそうに、時子さんは僕に笑いかける。
<文化祭……か。>
「足元、気をつけてくださいよ。」
「ハイハイ」
「じゃ僕、先に車乗って、引っ張りますから。」
「OK!」
僕らはヨイショヨイショと、1BOXのバンに、そのタンスを押し込んだ。
「フー、出来た。」
「出来たねー。」
タンスの向こうから、汗だくの時子さんの満足そうな顔。
<いやあ、暑い!>
僕は車を降り、上手い具合に納まっくれたタンスを眺めながら、手のひらをウチワにして深呼吸する。
「下村クン!」
後ろから声が掛りビックリして振り向くと、髪を乱れさせ頬っぺたを真っ赤にした時子さんが、満面の笑みを湛え、冷たい麦茶がいっぱい入ったコップを持って立っていた。
「あ、どうも……。」
男には気付かない女性の細やかさを実感し、感動してしまう自分。そんな僕に満足したのか、時子さんはさっきよりもっと親しげな口調で、話を始めた。
「私、覚えてるんだぞ。生徒会長しているとき、下村くん、春の生徒総会で発言したでしょ?」
「発言?」
そんなことあったっけ?? いくら頭の中を巡らしても、何も蘇ってはこない。
「やっぱりね! 文化祭の前の生徒総会の時、下村くん、発言したよ。」
だから、僕が一年で、春の総会といったら、五月?……んっと。
そんなことないと言おうとしても、時子さんの目が、間違いないと迫ってくる。あっ、そう言えば。
「……あ、そういえば、何か無茶言う眼鏡の人、やりこめた様な……。」
「そ! そうそう! 覚えてるじゃん。君、扇山が、しつこく揚げ足取りして議事の邪魔をするのを、一発で黙らせちゃったよね、あの時!」
確かにそうだった、どうでも良い事に拘って、ど顰蹙だったその人。むちゃくちゃ執拗で、目に余った僕は、一年坊主のくせに、論点のすり替えを指摘して、立証責任とかについて追求して、最後には沈黙させたっけ。
「あの人、私のこと目の敵にしてたの、いくら、振られたからって……。」
「そ、そうなんですか……。」
<だからか……。>
何となくあの執拗さの理由が分かったような気がした。ちなみに、その扇山という人は、某超エリート国立大学に行った、うちの学校で歴史に残るような秀才だったそうな。
「あの時から、私、君のことずっと見てたんだぞ。」
……見てたって……
時子さんは小物を箱に詰めるてを止めて、僕の方に顔を向けた。そして、ビックリして時子さんの方を見ると、悪戯っぽくウィンクしたのだ。
その色っぽさ、綺麗さ……、それはそれまでの今まで僕の人生の中で、テレビや街角を含めて、一番、魅力的な女性に見えた。
「んな、からかうの止めてくださいよ……。」
時子さんは、またイタズラっぽく笑っている。
<でも、さっきから何だ?……。>
僕はそんな時子さんに慌てながらも、おぼろげではあったが、自分の中に今までの自分にはなかった、不思議な感触に気付き始めていた。
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時間の流れ方は、一定では無いと俺は思う。そして今、今まで生きてきて、一番長く感じる瞬間を過ごしていた。
俺は話の成り行きが落胆に終わることを覚悟しつつも、それでもと淡い期待も捨てられず、悶々としながら彼女の答えを待っていた。
涙を流していたスーちゃんだったが、しばらくして何かを言おうして唇が動いた。俺は答えが貰えると、テンパっていると、一つ唾を飲み込んでから、今度は思い切った風に言葉を紡いだ。
「分かる……。」
「分かる?」
そして一つしゃくり上げそして、
「雅司くんの気持ち、……分かる。」
「分かる……か?」
<これは、YESなのかNOなのか……。>
俺の頭はその言葉に込められた真意を掴もうと、焼き付きそうなほど回転するも、これだという答えが出なくって途方に暮れる。するとスーちゃんは静に言葉を継いだ。
「わたしね、ここに屯してるの、本当に幸せだった。ターくん、和くん、時也くん、義男くん、そして雅司くん……。みんな、小さいころからずっと一緒で、いっつもバカ言って、じゃれ合って……。」
「ああ、……楽しかったな。」
俺も言われて、色々な思いでが走馬灯の様にめぐり始める。そうだ、本当に楽しかった。それは俺にとっても掛替えのない時間。俺が心の奥に仕舞っている、時に思い出してはニンマリする宝物。そのほとんどは、この店で生まれたものである。
でも……。
今、目の前にある四つの空席。和夫と時也と話したあの晩から、そこは誰も座らない席になっていた。
俺は去っていく親友たちを追うことも出来ず、ただただ空の席を見つめつづけるだけだった。それは言いようの無い喪失感、例え様の無い孤独。
「わたし、みんなのこと、家族だと思っていた。そんな輪の中にいつも居たい、ずっと居たいって心から願っていた。」
<そうだ、そうなんだよ!>
俺自身の思いを余りに見事に綴って見せるスーちゃんに、驚きとともに何とも言えない感動を覚えた。
「でね、そのカウンターにわたしも立って、……みんなのこと迎えて、……そんな風になれたらなって、ずっと夢見ていた。」
<お、……おい。ここに立ってって、それ、もしかしたら……。>
一瞬、耳を疑った。一挙に戸惑いは頂点に達し、自分ではどうしようもない感情の渦が、俺の中で暴れ回り始める。無意識に拳を握っていた。
<おい! ……まさかの、大逆転か?!>
一瞬、気が遠くなる。倒れまいと、思わずカウンターの端を掴んだ。
遊びゴコロとセンスの良いシャレが効いた店内の調度。そんな楽しいはずの空間に、今日はピーンと張り詰めた雰囲気が満ちていた。流れてくる緩やかなスウィングのメロディー、いつもならぴったり来るはずのそれも、今日はちょっとそぐわない。
そんな店のカウンターを挟み、男と女が一生を決定づける瞬間に差し掛かっていた。
声が出ないほどテンパってしまってる俺に、スーちゃんは静に語りつづけた。
「分かったんだ。わたし……。」
彼女は静に目を閉じた。そして自分の心をできる限り正確に言葉にしようとしている様に、一言一言噛み締めるように語るのだった。
「わたしにとって、みんな、本当に掛け替えの無い、大切な家族だったんだって。」
……ま、まあ、そうだけど、それが?
ふっと、さっきまで俺の中で轟音を立てて駆け回っていた感情が、微妙に揺らぎ始めるのを感じる。
みんな、家族って……。
過った予感を必死に否定しようと焦り始める。彼女は更に言葉を紡ぐ。
「ちょっと……、イタいかもしれないけどね、わたし、人を好きになるって、命がけなんだって、初めて分かったの。そう、自分が死んじゃっても守りたいモノって、有るもんだなって。」
おい、なんだよ? 突飛に思われた彼女に話に目を瞬かせていると、彼女は涙に濡れた目に、淡い自嘲の笑顔を浮かべた。
「それでわたしが、どんなに悪い人間か良く分かった。どんなに大切な人たちを振り回していたか。どんなにそんな大切な気持ちを、無下にしちゃっていたか。ターくん、義男くん、和くん、時也くん、そして、雅司くんたちの気持ち、わたし、今まで全然分かってなかった……。」
スーちゃんが急に顔を歪ませたとおもったら、その頬にホロホロと涙が転がり落ちる。
「だから、雅司くんが、今、話してくれたお話だけど、わたし、わたし、苦しい……。ホント、わたし、ダメダメなお子ちゃまだったね。」
<ちょっと、……待て……。>
俺の心は、今度は石像の様に固まっていた。
スーちゃんは涙を流しながらも、今まで見たこともない、真剣で深い光を湛えた眼差しで、俺の目をじっと見つめる。
「大好き人のためなら、今まで大切にしてきたもの、全部失ったって良いって、思うんだよね……。」
そうだ、俺はスーちゃんのためなら、何をなくしたって惜しくはない。
<そっか、そうなんだな、スーちゃん、やっぱり、そういうことなのか……?>
覚悟はしていた、でも、それが夢であることを願い続けてきた。情けないけど、俺の目にも涙が溢れ始めていた。
「ゴメンね、わたし、自分の命より大切な人が出来たの。どんなに泣くことになっても、どんな犠牲を払うことになっても、守りたい人が、微笑んでいてほしい人が……。みんなには、『許して』なんて虫が良過ぎて言えない。そうだよね、わたし、最悪の娘だよね。ひどい人間だよね。でも、どうしてもダメなの。」
「……スー……ちゃん。」
彼女は涙が溢れる目で、もう一度、ジッと俺を見た。
「でも本当なんだよ。みんなと過ごした時間、わたしには今までの幸せの全部だってこと。でも、でも……。」
「全部、捨てて行くってか? 友達も今まで築き上げたもの全部も……。」
思わず叫びそうになる。スーちゃんはキュッと目を閉じた。
「なんで、そんなにしてまで……。」
俺は絞るようにそう呟くと、キツく拳を握った。その拳であたり構わず殴りたくなるが、そこでハッとする。
<って、言えた義理じゃない……か。>
今まで築いてきた全部を捨てて、一人の女の子を取ると言った俺には……。
カランカラン……
エントランスのカウベルがなり、仲の良さそうな二人連れが入店してきた。俺は急いで涙を拭き、いらっしゃいませ!と、精一杯明るい声でお客を出向かえた。