第四部 1
「何? 義男のヤツ、フランスに行ったって?!」
俺が店に入っていったら、時也がカウンターの向こうの雅司を睨めつけ、ダン!とアイスコーヒーのコップを置いたところだった。
「そうなんだ。店もホテルの仕事も、全部、弟子達にやっちゃったらしいんだ。」
雅司が溜息混じりに答える。
海からの帰り、俺は雅司の店に寄った。そこには久しぶりに来た時也が、妙に興奮して雅司となにやら話していた。
「お、和夫か。」
俺に気づいた雅司が声をかけた。雅司はコップを磨きながら、つまらなそうにそう続けた。
「あいつ、『自分の人を見る目に自信がもてなくなった。人のキモチを察せなくって、料理人は出来ない。一からやり直すって』って。どうも、あっちに、居つくつもりみたいだった。」
義男は、もうメディアへの露出は一切断り、本業の料理に打ち込むつもりでいて、それを徹底する為に、フランスには一介の修行中のコックとして、再留学したとのことだった。
「おい、なんだよそれ…。こんな急に挨拶も無しに。」
「俺にも分からん……。」
時也が噛みつくように言うと、雅司は溜息交じりに応えるばかりだった。
……重い沈黙……
義男がなあ……。
自信満々、ハイソな面子と面識がある事や、シェフとして大成功していることを、微妙に鼻にかけるところはあったが、根はとても気さくで良いヤツだった。
しかし、「人を見る目」がどうのこうのって、一体何のことなんだ。それに、自慢してたもの全部弟子にやってしまうって、まったく何考えてんのか分からん。
「忠も、名古屋に行ったって?」
時也が口を尖らせながら、苛立った声でそう言った。
「ああ、それは知ってる。」
数日前、道端で忠とバッタリ出会った。忠はカッターシャツの腕を捲り上げ、安物のスーツを小脇に抱え、汗を垂らしながら急ぐその姿を見たときには、腰を抜かしそうだった。
いつもの浮かれた明るさは鳴りを潜め、すっかり大人の雰囲気を醸し出し、目に真剣さを宿していた。
今までの忠は、創業者のところのお坊ちゃんと言うことで、かなり優遇された環境にあった。しかしその時のヤツの話によると、自分から敢えて名古屋の営業所に移動してもらったということだった。そして、その素性を隠して一営業マンとして働き始めたという。
<こいつ、俺をからかってやんのか?!>
そのありえないほど殊勝な姿に、思わずそんな悪態が、口を付いて出るほどだった。
しかし当の本人は、頭を掻き掻き、結構こういうのって良いぞと、良く分からんことを吐いて、道端に停めてあった営業車のライトバンに乗り込むと、さっさと行ってしまった。
「しっかし、忠にしろ、義男にしろ…。」
時也が呻く様に呟く。一体何が起こってんだ、俺らの間で。どっちも、そんな急なことをする理由を、どうしても言おうとしない。店に流れるポップな曲が、今日はやたらに癇に障る。
カウンターの5つの席は、ここの常連の指定席。端から鈴子、俺、忠、義男、時也と、順番まで決まっている。
でもこの半年、この席が全部埋まったのは一度だけ。そう、スーちゃんの婚約について、話のあったあの晩、それが最後だ。
思わず溜息が漏れる。その中の二人は、もうこの町を離れてしまったのだから、今となっては、五人揃うってのはまず不可能ということになってしまった。
「なんか、湿気た話ばっかだよな。」
「ほんと。」
空気の重さはさらに増すばかり。
そうしているうちに、雅司が何か思い出したような顔をした。俺らの顔を見比べていたヤツは、一つ咳ばらいをした。そして眉間にシワを寄せ、耳打ちするように言った。
「それよっかさ、スーちゃんの話、聞いたか?」
「何を?」
「今月末なんだってよ、結婚式。」
「はあ?!何でそんなに急に……。」
雅司の言葉に絶句した。
ちょっと待て、スーちゃんとそいつ、まだ出会ってから半年そこそこなんだろ。まだ赤の他人に毛が生えたぐらいじゃんかよ。それでいきなり結婚か……。
今時、結婚なんて、そんな急いですることじゃないじゃないか。まだ、スーちゃんだって、二十代半ばなんだぞ。
時也はこの話は知っていたようで、苦虫を噛み潰したような顔をして、コーヒーを一口含んだ。
しかし分からないのは、あのめちゃくちゃ慎重なスーちゃんが、相当思い入れのあると言っていた結婚を、何故こんなに急ぐかだ。今まで、二十年以上付き合いのある俺らが、どんなに誘っても絶対にそう言う関係になろうとしなかった程、ガード高い娘なのに……。
なんで……。
……って、おい、これって、残された時間……。
唸るように俺は言った。
「お、おい、どうすんだよ。」
「どうするかな……」
時也が独り言の様に零す。すると雅司がフッとため息をついて言った。
「俺、もう良いわ。スーちゃんの心、すっかりアイツのものじゃんか。今更、俺らの割って入るところ無いって感じ。」
雅司はスーちゃんはあれ以来、どこにも顔を出さなくなり、婚約者とやらにベッタリらしいと言った。
「じゃあ、じゃあさ、マジ、諦めんのかよ?!」
俺が食ってかかると、二人は黙りこくった。
「はい、いらっしゃい。」
そんな空気から逃げるように、入店してきた客の対応をする雅司。チャンスとばかりにカウンターを離れる雅司の背中に、俺と時也は、フンと鼻を鳴らした。
<このままじゃ、諦めるにしても悔しすぎる。>
俺は呆然とスーちゃんの、人妻になる様子を想像していた。小さい頃から、スーちゃんは俺の嫁さんだと決めていた。それが他の奴等と俺もだ俺だとやっているうちに、こんなことになってしまうなんて。まさに「トンビに油揚げ」じゃんか。ジリジリと胃の辺りが音を立てる。
<あーあ、リング……。>
家の机の上にある、リボンの掛かった小さな箱。それはスーちゃんに渡そうと思ったリング。
あの日は、俺のコンテストでの優勝報告のためのミーティングだった。そして、その優勝を祝福し、スーちゃんが手渡してくれる花束の返礼に、隠し持ったあのリングを渡して、みんなの前でプロポーズするはずだった。
……でも、スーちゃんはそこに来なかった。
その直後だった。不貞腐れた俺が、婚約者だといって、道端でスーちゃんに知らない男を紹介されたのは。思わず手の中に有る、コーヒーのグラスを握り締める。
「おい、和夫。」
「なんだ。」
いきなり横から呼ぶ声に、ぶっきらぼうに答える。
「雅司はああ言ってるけどな、俺はこのままで引き下がらねー。」
「どうすんだよ。」
「俺、ちょっと考えがある。和夫も付き合わね?」
「どうするつもりだよ。」
「まあ聞けよ。」
「あ? ああ……。」
雅司は客のオーダーを聞きながら、ちらとこっちを見たが、俺はそんなことは構わずに、時也の話に耳を傾ける。
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「功太郎さん、今度の土曜日、暇? ちょっと付き合って欲しいんだけど。」
仕事から帰り、コーヒーを飲みながら一服していると、鈴子が済まなそうに上目遣いで聞いてきた。
「土曜日か……っと、どうだろ。」
ちょっと頭をめぐらしてチェックするも、特にこれといって用事を思い出さない。結婚が目前に迫っているのだが、僕は住む所も変わらないし、披露宴も小さなレストランで、身内だけの食事会だから、もう、今に至ってすることは無い。
<鈴子こそ、大丈夫なのかよ?>
僕の答えを心配そうに待っている彼女の顔を見ながら考える。
ウチに入り浸って、こっちのことばっかりやっている彼女。鈴子は引越しもあるし、色々やることがあるはずだから、ずっと忙しいと思うんだけど。
でも彼女は、どうしても来て欲しいって目をして、僕の答えを待っている。
<まあ、鈴子が言うんだったら……。>
「うーん、一応、大丈夫。」
「あー良かった。」
パッと顔が笑顔で輝く。いつにない喜び様に,ちょっと違和感を感じたりする。彼女は僕が行くと承諾したので、続きの話を始めた。
「海、一緒に来てほしいの!」
「え? 海?!」
「うん、海!」
思わぬ行き先に、目を瞬かせる僕。
「あのね、わたしが入っているサーフィンクラブ主催の、年一度の大きなコンテストがあるの。そこにね招待されたんだ。わたしと功太郎で来てくれって。」
<サーフィンのコンテストって?!>
サーファーといって思い出すのは、例の鈴子に突っかかってきサーファーぐらいだが、まさかアイツが?
「何で、僕も呼ばれるわけ?」
「この間、失礼しちゃったからって、お詫びしたいんだって。」
「お詫びって……。」
間違いない、この間出くわしたアイツだ。けど、アイツだとしたら「詫び」ってどういう事なんだろうか。あの状況からして、詫びをいれるっていうのは、ちょっと違うんじゃないか。僕は一旦は「行く」と言ったものの、話を聞いているうちに微妙に、引っかかるものを感じる。
「あのさ、僕、サーフィンなんかしたことないよ。」
「いいよ、サーフィン見るだけでも楽しいよ。」
「そっかなあ。」
なんか鈴子、とても嬉しそうにしている。こんな顔見てたら、ケチをつけられない。
「わたしのサーフィンクラブって、結構大きいんだよ。みんな、とってもいい人で、……。」
しかし、なんだ、この胸騒ぎ。
僕は彼女の笑顔を眺めながらも、抑え様の無いモヤモヤを感じていた。