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第三部 12

 その晩、僕は生まれて初めて、キスをした。

幻の世界に行ってしまったような、今までの現実とかけ離れた一瞬だった。でも、唇に残った感触は、それが幻ではないことを示している。

 僕らは唇を離した後、ボーッとお互いを見つめつづけた。今、この唇とキスしたのかと、知らず知らずのうち視線が唇に向く。そして、やっと恋愛をしているような気がしてくる。

<僕が恋愛ねえ…。>

夢オチとかじゃないよな。頬をつねりたくなる。


 そんな風に、初めはキスの感触に、天国に居るような浮かれた気分の僕だった。しかし、浮かれ切れないのが、僕の良い所でも悪い所でもある。時が経って実感が加わっていくにつれ、今度は喜びとと同じぐらい、不安が頭をもたげ始める。

 もう何の心配もない程の間柄であるはずなのに、こういう類の不安は、いつもは静でも、思い切った一歩を踏み出すと、必ず後ろ向きな事をつぶやき始めるのだ。

<ちょっと、無理やりだったかな?>

 そんな目で彼女を見始めると、顔が怒っているようにも、見えなくもない。

掻き立てられた不安に耐えかねて、僕が口からこぼした言葉は、謝罪の言葉だった。

「鈴子、ごめん。」

そういうと、ボーッしていた目が、クルッと動いて僕の方をジッと見た。眼差しが驚いた色をしていたので、良く聞こえなかったんだと思って、改めて頭を下げた。

「あのさ、ごめんね。」

でも、僕の謝罪に目を瞬かせるばかりの彼女。

「何が?」

 何がと言われても…、説明が居るなんて考えていなかったんで、慌てる僕だった。でも、本当に不思議そうな顔をする彼女を前に、このままうやむやには出来そうもない。口に出すのが恥ずかしいが、覚悟して打ち明ける。

「…キスなんか…しちゃってさ。」

「どうして…?」

 彼女はこそっと動いて、僕の方に真直ぐ向き直ると、ジッと僕をみつめ直した。さっきまでのボーッとしたそれではなく、僕の心を伺い知ろうとしている目だった。そして、彼女は何か言おうとする。でも、唇が僅かに動く度に、ポット赤くなるだけで、言葉にならなかった。

 言いかけて言葉を飲まれるって言うのは、くしゃみが出そうで出ない時みたいに、無条件に気になるものだ。今度は僕が、眼差しで続きを話すように促す。

 しばらく考えて、それでも躊躇する様子だった彼女だが、観念した様に視線を少し逸らし、一つ肩で息をしてから、確かめるように言った。

「ちょっと恥ずかしかったけど、…わたし、嬉しかった…よ。」

 <ははー、僕があんまり自信無さげなんで、励ましてくれてるんだ…>

気を遣ってくれるのは、本当にありがたいと思う。彼女はどこまでも心根の優しい娘なのだ。ルックスだけではなく、中身も自分より格段もレベルが上であることを思わされ、僕は複雑な気分になった。それに、そこまで気を遣わせていると思うと、自分が情けない。

 彼女は自分の言葉によって、僕の顔がさらに曇るのを見て、僕の目にも分かるほど慌てた。うまく伝わらなかったと思ったらしく、もう一度、僕の目を見て、念を押すように続けた。

「わたし、嬉しかった。ホントだよー。」

「いや、ああ、ありがと。」

僕は一応、礼を言った。何だか苦い気分。

 そんなことやっているうちに、僕の中の甘い空気は霧散してしまい、夢のなかにいるような感覚は、冷たいリアルに取って代わられた。こうなってしまうと、こだわっていた鈴子のお泊まりの理由についても、もうどうでも良くなる。

 僕は鈴子と、こんな風に顔つき合わせ続けるのが気まずくなって、ここら辺りで切り上げて、さっさと寝ることにした。

 僕はPCをシャットダウンして、歯磨をしに行こうとしたとき、彼女の声が飛び込んできた。

 「功太郎さん!待って!!」

いつにない強い調子に、ビックリして鈴子の方に向くと、彼女が今度こそ怒った顔で、僕を見ていた。

 「な、なんだよ。」

僕はそんなに悪いことだったのかと、思い巡らすが、確かにちょっと投げやりな返答はしたけど、それで?……まさかな。鋭い彼女の視線の前に、僕はちょっとタジッとなる。訳分かんなくって、頭を掻いた。

 鈴子は逃げる隙を伺う僕を、眼差しで捕まえたまま離とはしなかった。いつもは手に取るように分かる彼女の気持ちが、今に限って霧の中のように、皆目検討がつかない。

 しびれが切れて、力技で彼女から逃げようと腹を決めたとき、鈴子は静に、しかし、抗うことを許さない迫力を持って、僕に迫った。

「功太郎さん、目を瞑って。」

「へ?」

「良いから。」

何のことか分からなくって戸惑っている僕に、彼女はグイと一歩近づいた。

 僕を上目遣いで見つめ、視線をすら逸らすことすら許そうとしない。僕はこりゃどうしようもないと、言われるがまま目を瞑った。

<何だってんだ?、いきなり目なんか瞑らせて…>

目を瞑って立たせるって、何か悪戯でもする気のか? 彼女が酷いことをするようにも思えないし…。

え?…まさかな。

しかし、そのまさかが、僕の口を襲った。

 <鈴子?>

不器用に僕の唇に押し付けられる、柔らかい物。思わず目を開くと、果たしてそこには、ギュッと目を瞑った鈴子の顔があった。


 「わたし、功太郎さんのこと好きだよ。本当に…本当に好きなんだよ。」

彼女は少し潤んだ目をして、強い意志を込めた口調で断言する。

「だから、わたし、功太郎さんとキスするの、嬉しかった!」

その言葉尻には、悲しみと悔しさが滲んでいる。

「なんで功太郎さんとキスするの、わたしが嫌だと思うの?」 

「だってさ、僕なんか…。」

「そんなことないよ。わたし、功太郎さんのこと、凄いと思ってるって!」

彼女はいつもの様に自虐的な話をしようとした僕の言葉を遮り、切実な眼差しで、僕の目を覗き込んだ。口を尖らせて視線を落とす。

「わたし、功太郎さんに『初めて』をしてもらって、すごく嬉しかったのに、そんなこと言うんだもん。わたし、そんなに功太郎さんに、惨めな思いさせてるかなあ…。」

僕はその言葉にハッと顔を上げる。

「これでも精一杯、少しでも功太郎さんの良い妻になろうって、努力してるつもりなんだけど。」

「いやあ、鈴子は『良い妻』だと思ってるよ。」

僕は僕の取った態度が、考えもしなかった意味に取られていることに驚いた。というか、彼女って僕の思っているより、もっともっと良い娘なんだ。

 自分のことを僕の「妻」と言ってしまったことに、一人慌てふためきながら、それでも褒められて、単純に嬉しくなっている彼女の無邪気な仕草は、僕の濁りかけた気持ちを、透明な清流に変えていく。

「本当にそう思ってる?」

そう聞いた彼女の声は、ちょっと甘えているようなそれで、もう深刻なものは無かった。

「思ってるって。すごく『良い妻』に来てもらったって、感謝してる。」

「そ、そう。」

頭カリカリ掻いて、照れながらも、益々嬉しそうにする。その笑顔、マジ反則だぞ。

 そこで、ちょっと悪戯心がまた目を覚ます。

「どれ位、感謝してるか教えてやろうか?」

「ん? うん。」

教えてほしいけど、どうするんだろうと、小首を傾げた。僕はその姿に更にキュンとさせられつつ、その悪戯を実行に移した。

「目を瞑って。」

「あ、うん。」

全く抵抗せず目を瞑る鈴子。あまりの単純さに今度は僕が頭を掻く。

それじゃあ…。

「え!?…アン。」

僕は彼女を抱き寄せ、さっきよりずっと大胆に彼女の唇にキスを落した。

「功太郎さん…。」

「僕、鈴子とキスするの、すっごく嬉しいよ。」

「うん、わたしもだからね。」

そう言って、今度は彼女が僕にキスをした。


 僕らはベッドに寄りかかって、フローリングに座り込んでいた。お互い、緊張が緩んで、さっきからため息ばかりしている。彼女は自分の唇に触れながら、独り言の様に呟いた。

「こんな気持ちの伝え方があるなんて、知らなかった。」

「ん、だな。」

 今までの僕は、キスなんて「恋愛」という攻防戦の「戦利品」みたいに思っていた。

でも本当は、キスをするって、お互いの気持ちを分かち合うための、豊で暖かい「ツール」であり、またそれは、愛し合う二人の、とても自然な営みなのだと思った。

 確かにその時、僕の心はキス自体よりも、キスによって伝わってきたものに、胸がいっぱいだった。そう、彼女が僕の妻になるために、どれほど心砕いてくれているか、どれだけ僕を助けようと、真剣に考えていてくれるか。

 

 頬をほのかに色づかせ、幸せを噛み締める様に微笑んでいる彼女の横顔を見つめる。そして思うのは、今まで色々あったけど、鈴子と出会えたってことだけでも、自分でも恐ろしくなるぐらい、ラッキーな人生だなということだった。


 こうしてファーストキス騒動も、キスによって解決した。


  ++++++++++++++++++++


 僕は鈴子にベッドを明け渡し、僕は床の上に毛布を引いて寝る。鈴子は最後まで、僕にベッドに寝る様に言っていたけど、そうはいかない。

「功太郎さん、ベッド取ってゴメンね。」

「ああ、良いよ。」

「功太郎さんの匂いがする。なんか、抱っこして貰ってるみたい。」

おい、抱っこって…、何かドキドキするぞ、その言い方。

 しばらく、そんな他愛もないことをポツポツと話していてが、急に口を噤んだと思ったら、ちょっと深刻な声で、話を始めた。

「あのね、わたし、昔から夢を見るの。」

「うん。」

「お父さんの夢。家を出て行く時の後ろ姿なんだけど、わたしのたった一つ覚えている、お父さんの姿。」

そんな話は初めてだと、僕は耳をそばだてて、彼女の話に聞き入った。

「辛いときとか、寂しいとき、良くその夢を見るんだ。それで、元気が出るの。」

「そうなんだ。」

「それがね、この頃、同じ夢なのに、前とちょっと違うの。」

何だろうと、僕はベッドの方に向かって横になる。すると、ベッドの上から声がする。

「お父さんじゃなくって、功太郎さんなの、その夢に出てくる男の人が。」

僕はそれがどういう意味か分からずに、鈴子のコメントを待った。

「もう、励ましてくれるのは、お父さんじゃなくって、功太郎さんなんだって思った。」

なんか、凄いことを聞いた時感じる、衝撃が走った。

 そこまで話した鈴子は、ゴソゴソとベッドの上に起き上がったと思うと、クルッとこっちを向いてベッドの腰かけた。しばらくそのままで居た彼女だったが、スッと立ち上がったと思ったら、僕の前に座った。

「功太郎さん、お願いがあるんだけど。」

「何?」

「手を繋いで、寝てくれない?」

暗闇でも目を泳がせているのが分かった。僕はポカンと彼女を見つめていると。

「もう一つだけ、お父さんの事で覚えているの、小さいとき、寝かせてくれた時、手を繋いでたことなんだ。」

「ま、良いけど…。」

…って、どうするのよ。

僕は目を瞠って、闇の中で彼女が動く影を見ていた。彼女はベッドから今まで着ていた綿毛布を持ってきて、僕の横でゴロンと横になった。そして、ゴソゴソ僕の手を探って握った。 

 でもその仕草は、女のそれではなく、怖い夢を見て、親の布団に潜り込むみたいな、小さな少女のそれ。一瞬バクついた僕の心臓も、納得して大人しくなった。

 細い指、ツルツルの手。どっちかといえば大きくて、節くれだっている僕の手の中に、彼女の手がすっぽりと収まっている。彼女の手には、まったく力が入ってなくって、完全に僕の手のひらに、自分の手を託していた。

「功太郎さん、もう、功太郎さん無しじゃあ、生きていけないみたい、わたしって。」

呟くような一言に、僕の胸はさっきより更に強い衝撃をズドンと受けた。

<一人の人の人生を託された。もう、一人じゃない、自分の人生は僕だけのものじゃない。>

 それは僕を奮い立たせ、充実感、責任感、そして、是が非でもこの人を幸せにするんだと、固い決意を僕に与える。

「だから、だからね…。」

「何?」

「絶対に、わたしを一人ぼっちにしないでね。」

「ああ、そりゃ。」

「お父さんみたいに、絶対にならないでね。」

 横に転がっている彼女の横顔を伺うと、天井を見つめる彼女の目から、涙が止めどもなく流れていた。

 

 

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