第三部 10
「お腹いっぱいだね。」
「ま、まあな。」
ウップ…。
食べた…、兎に角、食べた…。こんな食べたの、高校の時以来だと思う。
我に返った鈴子は食べる僕を見ながら、「すみません、すみません」と恐縮仕切りだったが、しおらしくされると、余計、喜ばしたくなるのが男というももの。それに気分が上向きになると、食欲も出てくる。僕は美味しい美味しいと、彼女の手料理を食べ続けた。
今度は食べつづける僕を見た鈴子は、僕ばかり食べさせるのが悪いと思ったのか、それじゃあと一緒に食べ始める。かくして結局ほとんど平らげてしまった。
一生に何度食べれるかという高級フレンチ食べたのに、気が付くと、さっきまで口に残っていたその余韻は、すっかり鈴子の手料理に取って代わられていた。
<ま、いっか…。>
高級料理も、皆から賞賛されたあの祝賀会のことも、僕のすぐ横に嬉しそうに控えている彼女を見てたら、そう大したことではないと思えてくる。
彼女は、食事をしながらも、チラッとこっちを見ては、クスッと笑うみたいなことを、飽きることなくしてる。僕もやっと気持ちを伝えられたことが、無性に嬉しくって、テンションは上がったままだった。もしかして、こういう感じって、俗に言う「ラブラブ」って言うんじゃないだろうか?
しかし僕が「ラブラブ」ってか…。
これほど似合わないもん、ないんじゃないか?
理屈屋で科学好き。油塗れになるのもへっちゃらな程、機械触るのが好き。着る服だって、トレンドなんか考えたことなんて一度もない。作業着かスウェットで年中過ごしている。
そりゃあ男だから、女の子に興味はないわけではない。しかし残念ながら、生まれてこの方、それに全く縁のない人間だった。と言うか、もっと正確に言うと、どうやったらそういう世界に近づけるのか、チンプンカンプンな人間だったのだ。もし「恋愛音痴」と言う人種がいるとしたら、それは僕のような人間のことを言うのだと思う。
年頃になったら嫌でも耳に入ってくる、付き合う付きあわないのって話を聞き流しながら、自分にはそんな面倒なことは無理だと、いつしか諦めてしまっていた。
<おっと、しまった。>
勝手に独り物思いにふけってしまっていたと、急いで目を上げると、果たして僕をジッと見つめる鈴子の目が待ち構えていた。
自分の世界に浸かってたのを見られたのが気恥しくって、体裁を繕おうとしてみるも、そんな僕を見て、彼女はさも面白そうにクスっと笑う。
「こんな風に、功太郎さんとしていられたらなって、ずっと思ってたんだ。」
そして、視線を落としたと思ったら、赤くなりながら一つ、にじり寄って来た。
「どうしたんだよ、鈴子…って、あれ?」
<ありゃ、さっきから鈴子のことを「鈴子」って呼んでた?>
記憶を辿り無意識の内に、大分前から呼び方が「天原さん」から「鈴子」に代わっていたの気付いた。
婚約者なのに、苗字で呼び合うって、妙かもしれないが、僕は出会った時から使っている、「天原さん」と言う呼び名で、今までずっとで通してきた。
なぜそうするかって言われても、深い意味はない。強いて言えば、今更、呼び方変えるのが、気恥ずかしいことぐらいだ。
普通のカップルなら、付き合い始めたからとか、婚約したからとか、それなりに呼び方を変えるチャンスはあるだろう。しかし僕らは、親しくなる前にいきなり婚約者になったのだ。中の人は、とっくにファーストネームで呼び捨てだったが、どう理由を付けて呼び名を変えたら良いか分からなくって、結局、面倒だと変えないでいた。
戸惑う僕に、鈴子が食いつく。
「『鈴子』で良いよ。」
「あ?…うん…。」
煮え切らない僕に彼女はもっと迫ってきた。
「『鈴子』って呼んでください!」
「あ、そ、そう…。」
僕は迫ってくる彼女の体温を感じ、僕は呼び方どころではなくなってしまう。
今日の彼女は、パーティー帰りだということもあって、メイクも頭も、いつも以上にバッチリ決ってて、美女オーラをむせるほど発散しているのだ。そんな彼女がこんな近くに…。例のごとく、僕の心臓に高負荷が掛る。
「わ、分かったよ。じゃあ、『鈴子』な。」
「うん!」
そう言うと、顔いっぱいに笑顔を輝かせた。
「じゃあ、早速だけど、鈴子。」
「うん!」
「鈴子の家から、デカイ箪笥とか運ぶのは、いつにするんだっけ?」
「ああ、姉さんがね……」
正式に「鈴子」と呼ばれるのが嬉しいらしく、俄かに頬は桜色に染まり、タレ目になり、夢でも見ているような顔をした。さっき以上に、ラブラブ度は確実に上がっている。
<鈴子と呼ばれることが、そんなに嬉しいのか?>
その余りにも分かりやすい喜びように、小さな子供が、何かプレゼント貰って、手放しに喜んでいるのが重なる。
でもそれを見て僕は、ちょっと胸が痛んだ。今までこっちの勝手な言い分で、こんな直ぐできることについても、我慢をさせたんだなって思ったから。
「そんなゴチャゴチャしたことは、心配しなくって良いよ。大丈夫、わたし、考えてるから。功太郎さんは仕事があるんだから、わたしするね。」
「そっか? いっつも悪いなあ、面倒なこと全部押し付けるみたいで。」
「ううん、いいよ。だって……」
そう言って、また少し頬を染めて明るく微笑む。
<考えてみたら、この結婚って、鈴子がセットアップしたようなものなんだよな…。>
そうなんだ、こんな幸せな関係を築けたのは、彼女の頑張りによるところがほとんどなのだ。当初、余り協力的で無かった僕は、ずっと乗っけられてここまできたって感じ。
これが最後の結婚のチャンスだろうという危機感から、OKした縁談だった。そんな消極的な僕を相手に、彼女はずっと真心を尽くし続けてくれている。ここまで来れたのは、彼女あったればこそなのだ。だから、今のこんな幸せは、全部鈴子からプレゼントされたもの。
傍目には目立ってしまう彼女なのだが、付き合って知ったのは、本来は家庭的で内向的であり、時代錯誤とも言えるほど真面目な女性だということ。でもそんな彼女が、僕と付き合うことについては、凄く積極的だった。
無理をしてるんじゃないのかなあ…。テンパッてる彼女を見ると、心配になってしまう今日このごろ。最近になって、余りに頼りきっていた以前の自分を思い出し、悪かったなあと反省しきりなのである。
「洗濯機どうする? 二槽式だったら大変だって、お姉ちゃん言うんだけど、わたし、ずっと家にいるんだから、今ある二層式で大丈夫だって言ったの。功太郎さんはどう思う?」
「まあ、二槽式だと、付いてなきゃいけないからなあ…。」
これからの生活の為の打ち合わせが続く。僕との新生活のために、嬉々として取り組んでいる彼女を見ながら、僕としては、どうしたら良いんだろうかと、考えるのだった。
++++++++++
そんなことをしているうちに、時間はあっという間に経ってしまう。特に今日は、いつもとは違い、パティーに行った後なので、いつもよりずっと短い時間しか一緒に過ごせなかった。それにしては、かなり濃厚なひと時ではあったが。
僕は時計を見て、いつも帰る時間が近づいているのを確認する。
「鈴子、そろそろ帰らないとね。」
毎日のように彼女が僕の家に来るようになって、彼女を家まで送るのが、僕の生活の一部になりつつあった。でもそれは、僕にとって辛いひと時なのである。
バイクで片道20分以上掛るのを、わざわざ送るのが大変だからということではない。いや逆に、夏の夜のプチ・ツーリングは、僕にとっては良い気晴らしとなっている。
辛いのはそうではなく、彼女に帰宅を促した時の痛々しいほどの寂しそうな顔が、僕の心をタオルが絞られるみたいに、ギュッと締め付けるからなのだ。
「…うん。」
今日も寂しさを滲ませながら、小さく微笑んだ彼女は、そうだよねって、準備を始める。一緒にいた時間が短かったからか、いつも以上に寂しそうだった。
彼女はスッと立ち上がり、卓袱台の食器を集めては、流しに運んでいく。その彼女の背中が余りにも切なくって、僕は思わず彼女を追った。
いつもキッチンのことは任せちゃっている僕が、わざわざ付いて来たのを見て、彼女は何か用があると思ったようだ。
「功太郎さん、どうしたの?…水、飲む?」
「あ、いや。何でもないから。」
そう?じゃあということで、シンクで残っていた皿を洗い始める彼女。
「ああ、そのままで良いよ。遅くなるから。」
僕はこんな時間に、手間の掛る仕事を始めた彼女に、そう勧めた。
「ダメ、どうせ放って置くんでしょ。」
……まあ、そうだが。
彼女は僕の勧めを断って、洗い物を続ける。僕はこんな時間が掛る洗い物を、こんなタイミングで敢えて始める彼女に、単に仕事を後回しにするのが嫌というだけではなく、少しでもここに居るための口実にそれをしているような気がした。
一言も口を開かず、ひたすらに洗い物をする彼女。彼女の背中は、寂しいよ、寂しいよと言っている。僕の胸にじわっと熱いものが広がっていった。
そして思わず口走ってしまったのだ。
「鈴子、泊まっていくか?」
洗い物をしている手が止まった。流れる水道の水の音だけが、家に響く。
僕としては半分本気、半分冗談。彼女のことだから、「何言ってのよ」と、突っ込まれておしまいだろうと踏んでいた。
しばらくして、ボソッと彼女は応えた。
「……じゃあ、…そうする。」
そう言って、何もなかったように、洗い物を再開する鈴子。
僕は自分の耳を信じられなくって、鈴子の後ろで呆然と立ち尽した。