第三部 5
「あ、先生からだ……。」
「先生って、何の?」
「え? 大学の。」
「ふーん。」
仕事から帰って、卓袱台でPC弄っていると、鈴子がお茶と一緒に、今日届いた郵便物を持ってきてくれた。その中にDMではない手紙、しかも速達を見つけたのだ。
手にとって差出人を見ると、大学のとき思いっきりお世話になった、恩師からのものだった。
さて、ここで僕の生活が最近、急激に変わったことを、説明しておかなければならないだろう。
まず、生活スタイルについてだが、何と言っても、僕の左側にストンと座った鈴子である。
あの初めての「お泊り」の翌朝、やはり鈴子は時子さんに、しこたま叱られたようだった。ただ事情を詳しく説明し、僕からもちゃんと話した結果、分かってもらえた。
大変だったのは「お泊まり」の件ではなく、その後の森山忠のことだった。
時子さんには、それは相当ショックなことだったようだ。と言うのは時子さんにとっても、森山もまた小さい頃から良く知っている、弟のような存在であり、それが鈴子の大事な結婚に、こんな横槍を入れるなんて、絶対に有ってはならないことだったのだ。
凄い剣幕で怒っていた時子さんだったが、僕が森山とは確かに色々有ったけれど、最終的にはどうにか話は収まったことを説明し、これ以上事を荒立てると、そちらの方がずっと混乱するだろうから、そっとして欲しいとお願いした。それに結果的には、今回のことを通して、僕らの絆が深まったことを話し、結果オーライだったことを強調する。
時子さんは、ある意味身内である森山が、僕に対し失礼なことをしたことにも、少なからず胸を痛めていたようで、その僕が熱心に願うことということで、今回はだけは、これ以上、この話しはしないと言うことになった。
ただその後、こんなことになったのは、僕ら自身にも問題があることを、時子さんは指摘した。時子さん曰く、
「どう考えても、あなたたち、実が伴っていない!」
大の大人で、しかも結婚直前の婚約者の二人が、中学生のカップル以下の状態で甘んじているから、要らぬ隙ができるのだと。だから、もっと婚約者らしく振る舞って、自分達のことをアピールしなければなければならないのだと、こんこんと諭された。
かくして、結婚式一ヶ月前に至っても、週一のファミレスでデートで満足なんてのは、即刻止めにして、「鈴子は毎日、下村さんと会うこと!」という、「厳命」が下った。
毎日会うと言っても、外でデートとなると経済的にも時間的にも大きな負担になる。よって、鈴子自身が、自分が毎日僕のところに通うということを提案した。
「しかしなあ…。」
「仕様がないでしょ! あのうちの姉さんの言ったことなんだから。それに、わたし、仕事止めたから、ずっと暇だし…。」
そう言って、フフと意味ありげな笑いを浮かべる。
「ま、まあなあ…。」
鈴子の「毎日家庭訪問」が始まるということで、なんかそわそわし始める僕に、鈴子はさらに追い討ちをかける。今回の「緊急指令」を傘に着て、我が家の合鍵の製作を迫ったのだ。
「この間だって、鍵が一つだったから大変だったでしょ。」
そうなのだ、あの森山の「襲撃」の日、鈴子は鍵がなくって、どうしようかとうろたえたのだそうだ。結局、大家さんに頼んで、鍵をどうにかしてもらったようだが、いきなり男の一人暮らしの部屋の鍵を、若い女の子が借りに行ったと言うので、かなり面食らわしたようだった。ただ、結婚のことは話していたので、何とかなったようだが。
「ま、まあね、確かに…。」
そう言って、合鍵を作ることを承諾した。
しかし、これが間違いだった。
「おはよーございまーす!」
その朝、涼やかな声が薄いアパートの扉の向こうから聞こえた。
「あ、…ああ…って、え?!」
ガチャガチャと鍵を開ける音がして、誰かが入ってきたって、
鈴子?!
何時?…七時半
あれ? まだ寝てるんですか?とか言いながら、スーパーの袋を台所に持っていく。
「もう起きないと、間に合わないでしょ。」
お袋が言いそうなことを言って、台所で何かを始めた。
いや、8時半までに出勤だから、歩いて5分の職場に間に合うには、起きるのは8時15分で良いのだ。
8時になってもゴロゴロして言う僕に、「功太郎さん!朝ですよ」と、ニコニコ顔で息が掛るぐらい迫って来た。すると僕の心拍は一挙に限界まで上がり、弾かれたように飛び起きた。そんな僕を、「してやったり!」みたいな顔で見る彼女。
どうも、狙ったらしい。なんとも反則な方法で起こしかただろう。僕はまんまと叩き起こされたことに悪態を付くが、彼女はそんな僕に、絶対にご飯食べて行って下さい、一生懸命い作ったんだからと、甘えた声でさらに迫る。そんな彼女にフニャっとしてしまった僕は、一人暮らしをするようになってから、ほとんど摂らなくなった朝飯を、バッチリ食うことになった。
そして、
「気をつけて、いってらっしゃい!」
とにこやかに会社に送り出されたのだった。
僕が会社に行った後は、一日中、片付けとかしたらしく、その日帰ってきて、狭いと思っていたこのアパートも、実はとても広かったのだと言う事実に、今更のように気付かされた。
炊事・洗濯・掃除をかっちりやって、夕食一緒に食べて、一頻り話をして僕が家に送るという、もろフルコース。それからずっとそんな毎日が続いている。
…幾ら実がともっなっていなかったからって…
これじゃあ、完全に「通い妻」じゃあないですか?!
中学生のデートのレベルから、何と言う飛躍なんだろうか。僕はひとりアタフタするしかない。
大分慣れた(というか、強制的に慣れさせられた)とはいえ、生まれてからこの方、お袋以外に、女というものに縁が無かった僕にとって、女の子を部屋に通すことだけでも、超非日常なこと。それがこんなに深く関わり、寝る以外いつも一緒にいて、しかもそれが毎日となると…。
<まあ、あと二週間ちょっとすれば、そんなことも言っていられなくなるわけだが……。>
隣ですっかり落ち着いた顔をしてお茶をすする彼女の横顔を眺め、一人隠れて溜息を零す。
それにしても、この頃は本当に柔らかい表情を見せてくれるようになった。元々彼女はカッコ良くって高貴な感じの美女で、さらに言うならば「近寄りがたさ」や凛とした「強さ」を感じさせる女性だった。でもこの頃はその整った顔に、なんともいえない温かさに潤ませる。
かつては「色白こそ、美しさの絶対必要条件!」と息巻いていた僕だったが、いつもトキメかしてくれる、彼女の優しさの滲む笑顔は、今まで知らなかった美しさに、僕を目覚めさせてくれた。
そして、この頃は彼女を見つめつつ、心から思うのだ。
…彼女は本当に美しい…と。
夜、仕事が終わって家に帰ってきたとき、「おかえりなさい!」と、温かい安らぎがいっぱいの家で、さも待ちかねたように迎えてくれる、一人の美しい人の存在。
一日、思ったこと、感じたこと…、自分の全部を僕に知って欲しくってたまらないと、時も忘れて話す彼女の姿に、彼女の心に宿る僕への思いを垣間見る。
時々と愚痴みたいなことを、言ってみることもある僕だけれど、それも実は、余りにも今が幸せすぎて、怖いからなのかもしれない。
物思いに耽っていた自分にハッとすると、頬杖付いた鈴子が、ジーッとこっちを見ていた。その視線に気付いて僕が目を瞬かせると、彼女はいかにも面白そうにニッと笑った。
それから、あ、そうだったと、僕の手にある手紙を指差す。
「で、なんだったの、先生からの速達?」
「え? ああ。」
速達だなんて、そんな急ぐことって何かしら。彼女は興味深げに僕を伺う。
彼女の催促に、頭が散歩していた僕は現実へと引き戻された僕は、何々と手紙を読み進む。
「ほー、はあ、そっか。そりゃ凄いっ。」
「ん? 功太郎さん……。」
「んな、ちょっと待って、無理。こんな直前に……。幾らなんでも、来週だなんて……。」
渋い顔で唸る僕を、鈴子は座り直して、少し心配そうに見つめた。