第三部 3
脂汗が額から噴出る。忠はプレッシャーに浮き足立つ自分を怒鳴りつけ、やっとのことで冷静さを保っていた。
<しっかりしろ!! お前のバイクは、世界一だ! 負けるかー!!>
気合を入れ直し引き離そうとするも、付いてくる功太郎のCB1000は、まるで強力な磁石で張り付いているように、ぶら下がったまま離れない。いやそれだけではなく、こっちの隙を見ては厳しいアタックをかけきて、強烈に揺さぶってくる。
しかし激しい攻めとは対照的に、漂わせているオーラはゾクッとするほど冷静だった。こっちの煽りになんかにはピクとも反応せず、針のように鋭く冷たい目線を感じさせる。
<こいつまるで、狙った獲物は絶対に逃がさない、獰猛な野獣だ。>
さっきまでの余裕は完全に失せ、立場は全く逆転してしまった。
<くそ、このままじゃ…。>
そんな激しいバトルの最中、忠はさっきの功太郎のことを思い出していた。ボーっとした、何しても冴えない、三流人間の典型みたいなヤツにしか見えなかった。
<下村って何者?>
サーキットのプロ・レーサーのするような、安定していてスマートな走りとは、一線を画するものを感じた。本能に導かれた野生動物のようなそれ、まさに天性の走りだった。
それに、散々バカにしたCB1000は、旧車であるにもかかわらず、実に力強く路面を駆っていた。ノーマルであるはずなのに、こんな走りをするというのは、一体どういうことなのだろうか。バイクの持つポテンシャルを、徹底的に引き出しているということなのか?
何もかも、想定外…
生まれてこのかた感じたことのない切迫感に、忠は意識が飛ばないように捕まえておくのが、精一杯の状態だった。
峠道を轟音を立てて駆け抜けていく二台のバイク。二台はコーナーのインを取り合い、壮絶なバトルが続ける。
バンクセンサーが路面に接触し火花が散る。右に左に車体を振って、エンジンは唸りを上げ、タイヤのゴムが焦げる匂いが鼻を突く。
<……来た!!>
次から次へと来るコーナーをクリアしていく彼らの前に、でっかい「ツヅラ折」を示す黄色の標識があらわれる。このコース最難関の「魔の連続ヘアピン」だった。そこは、このコースでもっとも危険な箇所であり、テクニックの差が歴然と出る場所でもある。
<ちいっ! こんな状態でここか…。>
ミラーに映るヘッドライトが、これを待っていたんだと言っているような気がした。一瞬、戦慄が走るも、兎に角今は、ひた走るしかない。
<行けー!!>
思いっ切ってコーナに突っ込む。一つ目のコーナーをクリア、そして二つ目のコーナー…。その時、忠のバイクのミラーに映っていた、後ろヘッドライトが、フッと消えた。
えっ、あっ!!!
次の瞬間、まさに数センチの間隔で、自分のバイクの横を光の塊が擦り抜けて行った。
<や、やられた……。>
目の前を走る功太郎の操るCB1000は、テールランプの残像を尾のように引っ張って、まるで生きているようにコーナーをクリアしていく。そう地面に爪を立てる走る、虎のように。
虎って……
…… タイガー
…… レッド・タイガー?
「レッド・タイガー」とは、ここ数年姿を見せなくなった、ここ鳥越サーキーットで伝説になっている、謎のライダーのこと。
赤いツナギを着、狂ったようにコースを攻める姿は、まるで虎が獲物に食らいつくような迫力だったと言う。そいつはふらっとここにやって来て、そこを走るライダーと一頻りバトルし、ことごとく完膚なきまでやっつけて、いつの間にか姿を消す。そんな訳だから、誰も素顔を見たこともなく、話をしたヤツもいない。
噂は噂を呼び、遠くからわざわざ挑戦すべく、沢山のライダーがやって来た。しかしそんな挑戦者たちも、彼の敵ではなかった。
そう、まさにこの峠の覇者……。
そして、この謎のライダーと渡り合ったヤツらが、名も知れぬ王者に、畏怖と尊敬を込め、そんな二つ名をつけたらしい。
<まさか……いや、でも……>
追う立場となった忠は、自分のヘッドライトに浮かび上がる、「赤虎」の背中を見つめる。
<こいつ、バイクとコースを知り尽くしている……。>
誇張ではない、ミリ単位で最速のラインを選び取っているように見えた。バイクコントロールも、単にコントロールしているというのではなく、まるでライダーとバイクは全く一つ塊になって、一体の生き物のようにすら見える。
……ハイパワーに振り回されている自分とは次元が違う。
速いと言う理由でこのバイクを選んだ。確かに速い、が、自分はそのバイクのポテンシャル(潜在力)を引っ張り出せていない。功太郎の後姿に、そのことを痛いほど知され、小さく溜息をつく。
前を走るものが何もなくなったCB1000は、まるで檻から開放された猛獣のように、更に豪快に延び延びと、夜の闇を切り裂いて駆けて行った。コーナーをクリアするごとに車間は開いていく。
<くそ、付いて行けねー。>
忠は思わず唇を噛む。
余り口数の多くない、地味でどこか抜けているような功太郎。あんなヤツがこんな走りをするなんて、誰が考えるだろう。
<だからか、正体、ばれなかったのか。>
小さくなっていくテールランプを追いながら、「伝説」になるまで、なぜ素性が分からなかったのか、納得できるような気がした。
もう、ゴールまであと少し。山の合間に、ちらちらとキャンパスの明かりが見えてきた。
+++++++++++++++
駐車場の車もほとんどいなく、ガランとしていた。校舎にはところどころ明かりが点いている部屋があるが、人の動きはほとんどなく、静か空気が一体をつつんでいた。
鈴子はその駐車場の入り口に愛車と共に佇む。暑い夏の日が暮れ、涼しい夜風が優しく彼女の頬を撫でるも、目に涙をため、身じろぎもせず、沈痛な面持ちで道路が山陰に隠れて見えなくなる一点を見つめていた。もうしばらくすれば、そこにバイクのヘッド・ライトが見えてくるはずだ。
彼女の心を満たしているのは、悲しみと自責の念だった。
<わたし、どうしたら良いんだろう。>
二人のかけがえのない人が、自分のせいで危険な決闘をしている。彼女はこんなことになってしまった経過を思い出しては、自分の無力さに胸が押しつぶされそうな気持ちだった。
<忠君、どうして?>
忠は確かに、「超」が付くほどの資産家の息子である。だけど長い付き合いの中で、そんなことを鼻にかけた事を言うことなんか、一度もなかったのだ。それなのに、今日に限って違った。功太郎にあんなこと言うなんて…。
忠は功太郎を貧しいと言って嘲った。それだけではなく、貧しい人間は何もできない役立たず、そう極論するなら、居なくても良い人間だと、存在を真っ向から否定したのだ。
それは功太郎だけでは無く、貧しい中でも必死に人生の目標を見つけ、頑張って来たつもりの自分自身にとっても、深い傷となった。
なぜ、そんな話になってしまったのか。
幼い時から知っている鈴子には、忠が本心からそんな風に思っているとは、考えられなかった。いわゆる、ノリで言ってしまったとか、口が滑ったということなんじゃないかと思う。
でも、功太郎はどう思っただろう。ほとんど初対面で、あんなことを言われたら、誰だって深く傷つき、怒るに違いないのだ。
<功太郎さん…>
いつもどことなく余裕を感じさせてくれる功太郎。しかしさっきの彼は、表情こそあまり動かなかったが、顔色がにわかに変わったのが見て取れた。それは単に腹がたったというような、一過的な感情の動きではなく、もっと深い所での心の動きのような気がした。
そう、心底に怒っていると思った。
忠からの決闘の話を受けてた時、彼が乗ったこと自体、信じられなかった。なぜなら、自分が知っている功太郎だったら、絶対に有り得ない選択だったから。でも、彼は戦うことを選んだのだ。
<それ程、功太郎さんは、本気で怒っているんだ。>
激しい憤怒のオーラを漂わせ、忠に向けるその鋭い視線。それは彼女が初めて出会った彼の表情だった。
いつもの功太郎だったら、レースをするといっても、さほど心配しなかっただろう。節度を知っている彼は、自分自身も相手も、大変なことになる前にセーブしてくれると思えた。でも、今日はそうではなかったのだ。
どんな無茶をしてもおかしくない…。彼女の心のアラームはしきりに、そのことを警告していた。万が一、無理なバトルが祟って、スリップ・ダウンとかコースアウトとか、クラッシュ?!
そんな、そんな!!
スリップダウンし、ガードレールに激突、無残に大破したバイクと…
嫌!!
絶対に!!
<功太郎さん、功太郎さん!!>
思わず数歩、歩み出す鈴子。気がつくと彼女は小刻みに震えていた。それは極度の緊張と不安のためだった。
<自分で走る方が、どれ程気楽か分からないよ……。>
彼女の胸に祈りが溢れる。
<お願い、無茶しないで……わたしなんかのために。ああ、神様…。>
功太郎さん……
万が一、あなたに何かあったなら、わたし、これからどう生きていったら良いの?
風になびく風
苦悶にゆがむ顔
何時しか頬を、涙が流れる
「あ!!」
鈴子は思わず声を上げた。
その時、山の合間に、二つの光が駆っているのが見えた。
彼女の目は、山腹を縫うように着けられている道路をなぞる、二つの明かりに釘付けになる。