第三部 2
「スーちゃんは、先に駐車場に行っといて。」
「あ、うん……。」
僕らはこの「サーキット」の入り口である、公園の前までやってきた。森山が言う駐車場とは、この先にある大学の駐車場であり、このコースのゴールのことである。
鈴子は先に行けと促す森山をじっと見つめる。ビクッとするほど思い詰めた顔がそこにあった。僕は見たことのない彼女の表情に、微妙に気持ちが波立つ。
「下村さん……!」
「はあ?……なに?」
丁度そんな時、話しかけられ、反射的にぶっきら棒に応えてしまった。鈴子のヤツ、叱られたとでも思ったのか、クシュンと萎んだ顔をした。
<あ、鈴子……>
僕が慌てている間に、彼女は一つ溜息をしてバイクを出した。
鈴子の姿がコーナーの向こうに消え、聞こえていたシングルエンジン独特のエギゾーストノートも、セミの鳴き声に溶けていった。
日は傾き、暑い夏の日が終わろうとしていた。長くなった木々の陰が道路に掛り、黄昏に染まった山々が、夜闇の中に沈んでいく。
ゴソッと音がしたと思ったら、おもむろに森山が話しかけてきた。
「下村さんよ、あんたそれで、本当に俺と勝負する気か?」
見るとヤツは僕を上から下まで、しげしげと眺めていた。僕は遠慮のない視線にムッとする。くたびれたツナギを身に付け、10年前のモデルのであるCB1000に跨っている僕。「最先端」とか、「ハイスペック」とか、「カッコよさ」、「リッチさ」とか、そう言うのとは、悲しいほど縁のない姿ではある。
しかしだな……。そのナメた「目」はないだろう。ギリギリと音を立て胸に上ってくる怒気。それは否が応でも僕の闘争心をかきたてる。
だが何が腹立つって、僕の一番大事にしているものを、真っ向から否定しやがって。それこそ鈴子と彼女とを結び付けている、一番大切にしている「絆」なのに。
僕はにやけた顔でこっちを見る森山を、正面から見据える。そして唸るように答える。
「ああ、する。」
「で、勝てると思ってるの?」
森山はそう言って、自分の愛車のタンクに触った。ピカピカに磨かれた「ハヤブサ」。良く見るとノーマルではなく、チューンされているようだった。
マシンが凄いだけではない。悔しいが森山自身もかなり速そうなオーラをしょっている。そう言えば、鈴子がプロについて走りを習っていると言ってたっけ。パッとしない僕と、何もかもレベルが違う。
じゃあ、尻尾を巻いて逃げるか? 勝てそうもないから勝負を放棄するのか?
でももしそれをしたら、鈴子と交わした約束も、たった一晩だけど一緒に見た夢も、どこまでも絵空事、妄想に過ぎないと認めてしまうことになると思った。
……やるしかない。
僕は自分の中の、最後のリミッターが外れるのを感じる。
「ああ。もちろんだ。」
僕がそう断言すると、森山はブッと吹き出した。
「わーった。……やるしかないみたいだな。」
シールドを下げる森山。僕もシールドを下げ、準備を整える。
いつしか夜の帳は落ち、黄色のナトリウム・ランプがコースを照らし出していた。
二人は視線を交わらせ、息を合わせる。そしてテンションが最高潮に達したその瞬間。
ゴー!!
二人は一斉に走り始めた。
+++++
<マジ、あいつ、笑える。>
功太郎のCB1000に比べ、忠のハヤブサは約2倍のパワーが出る。スタート直後のストレートで、その圧倒的なパワーで一気にもって行った忠は、あっという間に功太郎を引き離した。少ししてチラッと後ろを見たら、遥か彼方に功太郎のバイクのライト。
<ほら、もう決まったじゃねーか。>
後はこのアドバンテージを守りさえすれば良い。バイクの性能は段ちなのだから、流してればこのままこっちが勝つだろう。
<バイクの性能差は、即ち財力の差。ヤツみたいな貧乏人なんか、俺の敵じゃないのに。そこのところ、スーちゃん分かってくれねーかなー。>
次々と続くカーブを難なくこなしながら、そんな考えごとに没頭する余裕の忠。
<まあ、こんな惨敗見せ付けられたら、スーちゃんだって流石に目が覚めるだろう。>
そうだ、ここで思いっきり幻滅してくれたら、必ず婚約解消させることができる。そこまで行けば、後はこっちのものだ……。
忠はこれからのことを、思い浮かべてると、心が沸き立ってくる。
これでヤツは片付いたし、後はあの4人か……。
次々にコーナーをクリアしていく内に、もう功太郎のことは、終わったことになってしまっていた。目が向くのは、次に立ちはだかるライバル。それは言うまでもない、いつもつるんでいるあの4人である。功太郎なんかに比べたら、ずっとこっちの方で苦戦するだろうというのが、忠の予想だった。
子供のころからの親友だ、悪どい事は絶対にしたくない。かといってあいつらのスペックは、普通じゃない。本気で邪魔してくるようなことになると、全部パーということも充分ありうる。
でも、ラッキーなのは、自分には少なからずアドバンテージがあることだ。
アドバンテージと言うのは、まず婚約の事実をいち早く察知して、みんなに知らせたこと。
鈴子の様子を見ていたら、功太郎との結婚話、あのまま放っておいたら、いきなり「結婚のご報告」の葉書が送られて来て、それで初めて知ったみたいなことに、なりかねなかっただろう。そこまで行ってしまうと、さすがにどうしようもない。そう考えたら、情報を仕入れ、いち早く対応し、皆に知らせた自分には、あの4人、絶対に頭が上がらないはずだ。
それともう一つ、今日はこうして、下村功太郎を撃破したいうことだ。今日の勝利は、あの四人にもそして鈴子に対しても、決定的な意味を持つはず。
これで主導権は完全に自分のものとなる。誰憚ることなく、鈴子に迫ることができる。
<そうさえすれば……。>
今まで、本気で口説いて、落ちなかった女はいない。必ず……。
<スーちゃん……>
小さい頃から憧れていた。大変な境遇のはずなのに、そんなことを感じさせない、なんとも言えない落ち着きと気品を香らせていた鈴子。
「ハイソ」といわれる人たちに、日常的に接している生活の中でも、鈴子ほどの気品を感じさせる人間は、未だ出会ったことはない。いやそれだけじゃない、思わずうっとり見惚れる美貌、完璧なスタイル。そんな近寄りがたい美しさをまとっていながら、ふとした時見せる、屈託の無い愛らしさ。
何もかも有り得ないほど魅力的で、まるで昔話やアニメに出てくるような「お姫様」キャラのように思うが、それがフィクションや妄想ではなく、現実として目の前にいたりする・・・それが鈴子。
<そして俺は、その天性の美しさに財力を贈るのだ。>
そうなればまさに無敵。そのとき彼女は、一世を風靡する本物の「時の姫」になる。
<そして、その姫と……。>
胸がジワーッと熱くなり、頬は緩む。
++++++++++
夢中になってそんなことを考えているうちに、レースは終盤に差し掛かる。イエローの街路灯が流れ去っていくミラーに映る景色の中に、チラッと何かが光った。
?!
コーナーをクリアするたびに、ミラーにチラチラと映るその光は、どうもバイクのライトらしい。
<あれ?、なんでだ??……まさか>
功太郎は序盤の内に、全然見えなくなるほど引き離したのだ。今頃はずっと後ろを、ノロノロと走っているはず。
……じゃあ、誰だ?
胸に過ぎる嫌な予感。その光は、コーナーを経るたびに近づて来ているように見える。
<嘘だろ、この俺より速いのか!>
全くの想定外のことに、俄かに胸が騒ぎ始めた。
初めこそストレートが多いこのコースだが、中盤以降、コーナーとアップダウンの連続になる。直線で加速し、ハイスピードを突っ走ることは、バイクのスペック差が決定的に効いてくるが、コーナーの速さは、それだけでは片付けられない。
加速度的に近づいて来るその光は、とうとう後ろにピッタリくっついた。まさに「テール・トゥ・ノーズ」の状態となる。
チラッと見ると、そこに映るのは、見覚えのあるCB1000の丸いヘッドライトだった。