第三部 1
「あーあ、疲れたー。」
僕は一日の仕事を終え、徒歩で数分の家に帰る。今日は昨晩全然寝ていないということで、超グダグダだな一日だった。頭が朦朧としているもんで、集中しなけりゃならない作業場での仕事は出来ず、もっぱらデスクワークに専念することにした。しかしそのデスクワークも、机に座っていると強烈な睡魔が襲ってきて、無意識の内に突っ伏して寝ていたり、船漕いで机の上のお茶を零したりと、こっちもダメダメ。結局、丸っきりに「給料泥棒な一日」となってしまった。
親父さんや周りの仲間は、何時に無く疲れている僕のことを、時々心配しては声をかけてくれる。そうされると申し訳なくってならない。こんな中途半端なことになるんだったら、有給休暇をちゃん取るんだったと、後悔するばかりだった。
終業時間になっても、ぼーっとしていると、親父さんに、
「おまえ、調子悪そうだな。速く帰って休め。大事にな。」
とか言われる。仕事らしい仕事もしなかったくせに、一番に帰るのは気が咎めたが、かと言っても、ここにいても邪魔にしかならないと、いつもする残業、……といっても、作業場で「商品開発」というプロジェクト名のもと、好きなことをやっているのだが……、今日は定時で家路に着いた。
夏の日は長い。まだこの時間だと辺りは明るい。大概は暗くなって帰るので、なんか凄く新鮮な気分。日暮れ時の山々、家から聞こえる夕飯時の家族の語らい、学校帰りの高校生、どれもこれもありふれた物なのに、新しいものを発見したときのような感動を覚える。
「鈴子、アレからどうしたんだろ。」
ふと気が付くと鈴子のことを考えていた。女の子を朝帰りさせて、あの後、鈴子は困ってしまったんじゃないかと、ずっと気を揉んでいた。連絡して様子を聞こうと思わないでもなかったが、業務中に居眠りばかりしているのに、いくら休み時間でも、女の子に電話をするのは憚られた。
帰ったら早速鈴子に連絡しようと心に決め、足を速める。直に僕のアパートが見えてくるが、今日に限って、家の前に何やら見慣れないものが佇んでいた。派手な皮ツナギを着た男、側にはオレンジ色とツートンのバイク……。
<あれ、「ハヤブサ」じゃないか?>
つい最近まで世界最速だった「ハヤブサ」。なんと時速300Km出るという話。今は「ガスタービン・エンジン」の化け物バイクに追い抜かれたものの、その絶対的な速さは、今でも変わることはない。
<こんな所で見られるとはあ……。>
片田舎の貧乏アパートの前にこのモンスターバイクとは、なんとも不似合いだ。
小さな6部屋しかないウチのアパート住人の顔を思い浮かべるも、重なる顔は思い当たらない。じゃあ、誰の知り合い?
そんなことを考えながら、そばに立っているツナギ男の横を、チラ見しつつ通り過ぎようとした、……そのとき、声がかかった。
「下村さん。」
?!
いきなり名前を呼ばれて、驚いて目を白黒させながら声の主のほうを見ると、ハヤブサのライダーがこっちをじっと見ている……。
<誰?>
「もう、忘れちゃったんですか?」
苦笑交じりにそう言われても、トンと分からない。
「森山ですよ。」
「あ……。」
ここら辺では超有名なメーカーである、MM機械の御曹司、森山忠。この間、鈴子との婚約のことで話があるとかで、突然やってきた来たことがあった。
<あん時、婚約のこと話してるうちに、むちゃくちゃ怒り始めたんだよな……。>
僕は森山の来訪以来、こいつと自分を比較して思いっきり自己嫌悪に陥った。折角あの嫌な記憶も、昨日のことでやっと忘れられそうだったのに、御本人にお出迎え頂くとは……。こりゃ、今日、仕事サボった罰だな、とか思いつつ、改めて森山の顔を見る。
「で、何の用でしょう?」
必死で気持ちを静めつつ返答すると、森山はこう言ってきた。
「俺と勝負しろ!」
「はあ……。」
戦闘オーラを森山は、鷹のような鋭い目線で僕をにらみつけた。僕は訳も分からず、目を点にして森山を眺めるしか出来ない。しばらくボーっとしていると、業を煮やして、苛立ったように迫ってきた。
「だから、オレと勝負しろって!」
「勝負しろって、いきなり……。そもそも、なんであんたと勝負なんか……。」
「天原鈴子のことだ。」
「なに、それ?」
「バイクでレースして、オレが勝ったらスーちゃんを返せ!」
それを聞いて、話が見えて来た。
「ちょっとまて。結婚みたいな大切なことを、そんなギャンブルみたいなやり方で決めれるものか。それちょっと話が……。」
「スーちゃんは、速いヤツが好きなんだ。」
「それは違うと思うが……。」
「そんなことはない。スーちゃん自身が、おまえのこと速いと言っていたぞ。だから惚れたって。」
鈴子がそんなことを、惚れたって?!……いや、そんなストレートなこと、面と向かって言われると、チト恥ずいのだが……。ポリポリと頭をかく。そんな僕を呆れた顔をして見る森山。
その時、タンタンタンタンと単気筒バイクのエンジン独特のエギゾーストノート(排気音)が聞こえて来た。森山と僕はその音に覚えがあった。バイクの音は段々近づいてきて、直ぐ側の曲がり角までやって来る。果たしてそこにSRに乗った鈴子が現れた。
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鈴子は僕が視界に入ると、真直ぐ僕のほうに走ってきて、目の前で止まった。彼女はヒョイとシールドを上げた。
「どうしたんですか?」
ニコニコしていた彼女は、思わぬ僕の渋い顔に、少し心配そうにそう聞いた。
「スーちゃん、丁度良かった。俺達に付き合ってくれよ。」
「え? 忠君?!」
彼女は後ろから呼ばれて、声の主の方に振り向いた。いつもはジーンズでハーレーを乗っている森山。しかし今日は、皮ツナギを着て「ハヤブサ」に乗っている。その雰囲気に違いに、鈴子ですら直ぐには彼だと気付かなかったらしい。
森山は驚いている鈴子に言った。
「これから、俺たち、決闘するんだ。」
「え?何それ。」
「それよっか、スーちゃん、なんで、こいつなんだ。こんなパッとしないやつと、結婚するんだ。」
「いきなりそんな、言われても……。」
彼女は困った風にそう言葉に詰まらせ、こっちに振り向いた。じっと僕を見つ頬を赤らめる。僕は彼女と視線を交える内に、昨夜の二人で過ごした甘い時間が蘇り、気恥ずかしくなる。森山は背中から鈴子に迫る。
「はっきり言えないような理由だったら、オレにしとけ!」
「はっきり言えないけど、しっかりあるもん!!」
「な、なんだ?!」
彼女は振り向きざまそう言った。森山は反射的に彼女を睨みつける。
「じゃあ、こいつと結婚するのか。」
「うん。」
躊躇ない返答に、苦虫を噛んだような渋い顔をして口をつぐみ、目を泳がせる。
「……まあ、分かった。だが、最終的に決めるのは、今日の決闘の後にしてくれ。」
「決闘って……。」
「下村さん、『鳥越サーキット』で勝負しよう。」
「『鳥越』か……。」
鳥越サーキットとは、いわゆるサーキットがあるのではない。山の中に作られた某大学へ続く、山を縫うように走る連絡道路である。
学生以外使うことのない道路は、その絶妙な峠道を求めて、走り屋達が集まってくるのだ。そして、何時の間にか「鳥越サーキット」などと呼ばれるようになった。
「ま、オレのハヤブサからすりゃ、あんたのCB1000なんて、ビンテージもんだからな、勝負になりゃしないだろうが。」
「それがどうした。最新式が絶対ってもんじゃない。やり様によるってもんだよ。」
「まあ、そう言ってやせ我慢でもしてろ。なあ、スーちゃん!幾ら奇麗ごと言ってたって、先立つものがなきゃ、幸せにはなれないよ。金がなきゃ、この人みたいに口だけで、不敗戦しかないんだって!な、止めとけ、こんな先が知れたヤツ。」
鈴子の背中がピクッと動いたのが分かった。
……金がなけりゃ、幸せになれないか……
自信満々でそう言い切る森山。
確かに最低限は必要だろう。でも、僕は金があるだけで幸せにはなれないと思っている。資金がなければ可能性が狭まるか?まあ、そう言う面はあるのかもしれない。でもそれで、全ての夢を諦めなきゃならないなんて、僕は絶対に思いたくない。
僕は森山の言葉で、自分の中で何やらスイッチが入ったのを感じた。
「『鳥越』って言ったな……。」
「ああ、『鳥越』だ。」
いつもののんびりホンワカの気分は失せ、久しぶりに血の湧くような闘争心が、自分のうちで満ちていくのを感じる。ふと見ると、鈴子が心配そうに僕の顔を覗いていた。僕はその視線を受け流し、森山に答えた。
「わーった。その勝負、受ける。」
「下村さん?!」
鈴子は驚いて、心配そうに問う。
「そう来なきゃな。」
ほくそえむ森山。
「下村さん、止めてください!」
僕は支度をして来るからと、森山を置いて家に戻った。鈴子は僕についてくる。
「忠君、そう言えば、サーキットに行って練習してるって言ってました。プロライダーに教えてもらってるって。」
「そっか、それは強敵だ。」
「下村さん……。」
僕は鈴子を外に残して一人自分の部屋に入り、押入れの奥を探る。そこには真赤な皮ツナギがあった。大分使い込んであるそれ。でも、事有るたびに陰干ししているから、まだまだ使用に耐えそうだ。
「またこいつを着るとはな……。」
僕は思わず悪態をつく。
ドアを開くと、鈴子は玄関先で待っていた。彼女は僕のツナギ姿を、なんかへーって感じで眺めていた。僕はそんな鈴子の視線を受け流し、下の駐車場に降りていくと、森山がこっち凝視して待っていた。
僕は駐輪場に回り、愛車のスタンドを外し外に出す。僕の技術と機械を愛する思いの結晶、CB1000に跨たがり、おもむろにスターターボタンを押す。
キュキュキュ、ウォンウォン……
重厚な排気音が当たりに響く。うーん、やっぱ、イイ! これ堪えられん…。思わずタンクに手を添え、じゃ、宜しくな!と挨拶をする。鈴子も急いで自分のSRに乗る。それを確認し、僕がコクンと頷くと、準備をしていた森山はバイクを出した。僕はそれに続く。
行くのは日の沈もうとしている、あの山懐の「鳥越サーキット」。
風切り音につつまれつつ、これからの始まろうとしている、戦いのことに思いを馳せる。