第二部 11
話がひと段落して、僕らはホッとした空気につつまれながら、特に何を話すでもなくボーっと座り込む。心のうちを吐露しあった後の、なんとも言えない開放感と充実感が、僕をつつんでいた。そして僕らの関係が新しいステージに進んだことを、沈黙の中で噛み締めていた。
僕ら結婚するんだ……。
婚約の時には実感のなかったことも、今では”そんな時期もあったなあ”みたいに、随分昔のように思う。それほど、彼女の存在は、僕の中で大きく、また、当然あるべきもの、無くてはならないものとなっている。
僕はちらと鈴子の顔を覗いた。見ると彼女も宙を見て、何か考え事にふけっているようだった。でも、その雰囲気は決して暗いものではなく、夢に思いを馳せる少女のような表情。さっき気になった微妙な影は、どこにも見あたらなかった。
……気のせいだったのかな。
それ以上突っ込むのも悪いので、気のせいだったと言うことにした。
ゴトン!
いきなり横からデカい音がしてビックリして振り向いた。すると、鈴子は額を撫でていた。
「ね、寝ちゃってました。」
へらへらと笑う鈴子。でもそう言っている端から、また白目になったと思ったら、
ゴン!!
したたかに卓袱台で額を打つ。僕は目を丸くしていると、彼女は顔を上げ、ばつが悪そうに笑顔を作ってみるも、今度は見てる間に、もう目も開けられない…って、目を白黒させると、思いっきり船を漕ぎ出す。
「ね、眠うぃおー。」
ギッコンバッタン派手に前後に体を揺らす。しゃべり方も呂律が回っていなかったりする。
「おい、大丈夫?」
僕は身を乗り出して彼女を捕まえようとするが、
「ダメ……」
と言ったきり、卓袱台に突っ伏したまま事切れた。僕は唖然として、目の前にある彼女の頭の天辺と、静かに上下する背中を眺めた。
「寝ちゃったよ。」
僕は溜息交じり呟いた。もう夜は明ける。鳥の声が聞こえ、新しい一日がスタートすることを告げている。
気持ち良さそうに眠る彼女の口は、微妙に開いていて、微笑んでいるよう。目を瞑るとさらに目立つ長い睫。全く無防備。乱れ髪の間から見える彼女の寝顔は、まるで少女のようにあどけなかった。そして時折微笑んだり、ムニャムニャと寝言言ったり…。
このまま、会社に行くことになるだろう。気が滅入るはずの徹夜明けの朝、でも今日だけはそうではない。
<この娘が、僕の嫁さんになるんだ。>
寝顔まで見せてくれる彼女を、僕はドキドキしながら見守る。
++++++++
ムニャムニャ……
フニャ……
<手が痺れている。足もなんかズキズキする。うわ、上手く動かない。>
目を開けると、そこには………
「きゃっ!!」
「……おはよ……」
目を血走らせた彼女のフィアンセが、見事なクマを目の下に作って、うつろな目で自分を見ていた。
「え?!」
彼女は家でも、机に突っ伏したまま寝てしまう。眠気が来ると即爆睡するのが彼女の体質なのだ。いつものつもりで目を醒ました彼女は、目の前の風景がいつもと違い、しかも目の前に功太郎がいたものだから一瞬パニくる。
<えっと……あっ!>
慌てて昨晩のことを思い出し、自分がどこにいるかを確かめた。
<そうだった、昨日、功太郎さんのところにお話に来たんだった。>
ちなみに、彼女は頭の中ではフィアンセのことを「功太郎さん」と呼んでいる。でも、口に出すのは「下村さん」。なぜなら、功太郎が自分のことを「天原さん」と呼ぶので、気恥ずかしいから。
顔の肉が全部垂れ下がっているような、ゲッソリとした功太郎の顔を眺めながら、昨晩あったことを一つ一つ思い出す。それと同時に、また胸がキュンキュン言い始めるのだった。
彼女の親友達から、いきなりのプロポーズを受けた。その迫力に押され、自分の置かれた立場、功太郎の婚約者であることを、一瞬だったが意識の中から失ってしまったのだった。
それまでこの結婚のことで、微塵も迷ったことなどなかった。絶対だと信じきっていた。しかし、幼い頃からずっと過ごしてきた仲間の思いを知って、思わぬ気持ちの動きを感じた。そしてそれは、彼女に強い不安を与えたのだった。
<わたしたちって、何なのかしら。>
いつも素っ気ない功太郎。方や、あんなに熱いアピールをしてくる仲間達。自分が感じ取った功太郎との特別の絆は、本当のものか?
これがはっきりしないと、前には進めないと思い、いても立ってもいられずに、昨日の晩、ここに来た。
初めて話らしい話が出来たと思った。功太郎と話している内に、自分のキモチは熱くなっていくのを感じた。そして功太郎が初めて打ち明けてくれた本当の気持ち。
<天国に行っても、一緒に居て欲しい!ですって……>
また胸がポッと熱くなり、思わず顔が緩む。
母の瞳の中に居り続けた顔も知らぬ父。自分では想像も出来ない夫婦の絆。その間に生まれた私たち……。自分の家族は、周りからは不幸だと言われるけれど、自分としてはそんなこと思ったことはない。なぜなら、会って話したり触れたり出来ないのに、いつも存在を感じられるほど、意識の中で一緒に居続けた父と母。それは、本当に素敵なことだと思ったから。だから、今でも自分の家に誇りを持っている。
わたしも、あんな家庭を築きたい………。そして、そんな夢を、一緒に共有してくれる伴侶に出会いたい。それは鈴子が幼い日、特に母を失って以来の、諦めることの出来ない夢だった。そして、功太郎に、その夢を共有してくれる人だと感じ取っていた彼女だったが、今晩、功太郎自身の口から、それをはっきり聞くことが出来たのだ。
<みんな、ゴメン……>
胸を去来する、幼き日からの思い出の一つ一つ。孤児になった姉と自分を、家族のように付き合ってくれた親友たちだった。自分に対しては、本当に優しい兄のような彼らだった。
でも、功太郎に対する思いは、やはり特別なのだ。兄弟とも違う、初めて本気で抱いた男性に対する思い。そのキモチに嘘をつくなど、到底出来ない。みんなには本当にお世話になったけど、だからといって、義理や同情だけで伴侶を決めると言うのは、逆に大変な裏切りになると彼女は思っている。
だけど、親友たちのあんな真剣なプロポーズを袖にしたら………、
やはり今までどおりの付き合いなん出来ないだろうと、彼女は思う。
幼い日から居り続けた、掛替えのない彼女の帰るべき場所。あの心地よい空気、楽しい雰囲気、それがみんな無くなってしまう……。
<わたし、それでも……。>
彼女は決心を新たにするのだった。
鈴子はそこでハッとした。見るとカーテンの向こうはもう日が射している。反射的にテレビの上においてある、古い目覚まし時計を見た。時間は8時前。夢のような時間から、一気に現実の世界に戻された。
「下村さん、大丈夫ですか?」
「え、ああ……。」
どう見ても大丈夫とはいえなかった。時計を見る彼女に促され、彼も時計を見る。
「あ、もう、動かないと……。」
功太郎は電池が切れかけのロボット人形のように、今にも止まりそうにギクシャク動き始める。ふらふらしながらやっと立ち上がったところで、ノソノソとキッチンに向かって歩き始めた。
「どうしましょう?」
鈴子は功太郎を助けようと、彼を追ってキッチンに向かう。
「いや、コーヒー飲まないと、今日、仕事にならない、こりゃ。」
手を伸ばす先に、インスタントコーヒーの瓶があったので、彼女はそれをさっと取り上げて、水屋においてあるマグをとって、コーヒーを淹れる。
「あ、ありがと……。」
「下村さんは座っておいてください。」
「あっそ、じゃあ……。」
確かにこの状態で、コーヒーの入ったマグを持ってうろうろしたら、零しかねないと思った功太郎は、素直に自分の座っていたところに戻った。
「下村さん、朝ごはんは?」
「え?……僕、朝飯、いつも抜きだし。」
「ダメですよ、そんなんじゃあ体、壊します。少し待っていてください。」
鈴子は昨日片づけをしたので、何がどこにあるかは良く知っていた。彼女は見るも鮮やかな手さばきで、さっと卵を割ってフライパンに落とし、食パンを焼いた。程なく鈴子はコーヒーのマグと、トーストと目玉焼きの乗った皿を、功太郎の前に置いた。こうして功太郎は久しぶりに、朝飯に与ることになった。
「こんど、野菜、買っときます。」
そう言いながら、当然のように功太郎の左の席に座った。そんな所帯じみたやり取りは、これからの生活のことを想像させて、お互いのドキドキを増幅する。
この晩は、実は功太郎は一睡もすることが出来なかったのだ。初めは色黒だったり、ボリュームがありすぎたりと、自分の好みと違うということで、鈴子に魅力を感じなかった功太郎だった。しかし、心の内を分かち合い、さらにあどけなく目の前で寝息を立てる彼女の姿を目の前にするに至って、話は完全に変わってしまったのだった。
しかし悲しいかな、女を感じるとヘタってしまうのが彼のクオリティー。魅力を感じれば感じると無力化される彼は、この夜の彼女の「攻撃」に、決定的に破壊されたのだった。
結局、銅像のように緊張して固まるばかり。目は冴えまくり、ドキドキすれども、眺めるだけで朝を迎えた。
「下村さん、いってらっしゃい!」
「ああ、行って来る。」
……まるで、奥さんだな。
<悪い気はしないが、これから彼女、どうするんだろう。>
朝帰りになった彼女のことを心配しつつ、おぼつかない足取りで、出勤する功太郎だった。