第二部 9
彼女の悲しい独白を聞きながら、僕はそこに座っているしか出来なかった。
僕が考えつくような薄っぺらい慰めの言葉などは、鈴子を惨めにするだけ……。そんな思いが、僕の口をつぐませた。
自分の一番辛かった時期のことを話してくれた彼女。それは本当ならば思い出したくないことだったのだろう。痛々しいその姿が、この独白がどれ程彼女を辛い思いにさせてたかを現していた。
それなのに敢えて話そうとする彼女から、ビンビン伝わってくるのは、どうしても僕に自分のことを知って欲しいとの、切実な思いだった。
僕はそんな彼女の姿に衝撃を受けた。そして揺さぶられる内に、冷淡な僕の中に熱い「思いの塊」みたいなものが、生じていったのだ。
彼女の一言一言は、「ふいご」が炎を煽るように、僕の内にと持ったその熱い塊に、勢いを与えていく。そしてその熱い思いは一つの言葉を紡いだ。
”好き ”
え?
好き……なのか?
そう、好きなんだ。
僕は鈴子のことが、好きなんだ。
こんな言葉が、僕から出るなんて思ったことすらなかった。でも、それが今の正直な気持ちでなのは、疑いようの無い事実だった。
自分の気持ちに気付いて、改めて彼女を見つめる。いつも元気な鈴子が、顔をゆがめて嗚咽している。何の為に? そう、僕らが本当に夫婦になるために。
そんな彼女を目の前にして、僕はこの一人の女性を、どんなことがあっても守り支えたいと、心の底から思った。
彼女の遠大な身の上話も、佳境を迎えようとしていた。いよいよと身構えたときに、彼女が急に黙りこくってしまった。
泣いているようでもなく、ただ黙っているので、僕はとうとうどっかがおかしくなったかと心配になった。そして、恐る恐る彼女の顔を覗き込んだ。
でも、僕が見たのは、悲嘆に歪んだ胸を抉るような表情ではなかった。僕に気付いた彼女は静かに顔を上げ、吹っ切れたさわやかな表情を浮かべて見せた。
僕は意外に思ってキョトンとしていると、彼女はまた語り始める。
「でも、……でも、わたし、今では、母は幸せな人だった……思っているんです。」
<幸せ…か…?>
彼女は自分の母親の人生をそう総括した。思わぬ話の結末に、一瞬彼女の意図を見失う。若くして亡くなった自身の母、まだ親の要る二人の娘を残して、若くして逝った人生の、どこに幸せを見つけるのか? 真意を知ろうと思わず彼女をまじまじと見てしまった。
「お母さん、死ぬその日の朝まで、お父さんとお話してたんです。」
「どういうこと?」
何のことを言っているのか分からない。彼女は慌てて説明を加えた。
「えっと、わたし、顔も声も何も知らないん父すけど、どれ程優しく、どれほど私たちを愛していてくれたか分かるんです。それは、母と父は死に分かれても、やっぱり深い絆で繋がっていて、母なかに父をいつも感じていたんです。それに母は、何か辛いことがあると独り言みたいに父に愚痴ったり、『お父さんだったらどうするかしら?』って言っては、生前の父のことを思っては、色々決めてたりしたんです。いつもいつも、そんなんだったんです。」
ちょっと、呆れた顔を作って肩をすくめて見せる彼女。
泣いて腫れた目は、懐かしいものを遠くに見つめる。
「そう、危なくなって、…意識が薄れていって…、でもお母さんったら、やっぱり、『智也さん、やっと会えるね、わたし、大丈夫だから』なんて、ぶつぶつ言った…。」
鈴子の目から、また涙がこぼれ始めていた。
「『うわ言』だ思って、聞き流していたんですけど、でも凄く心がこもっていて、本当にお父さんとお話しているように思えて。やっぱりお父さん、ずっとお母さんと一緒だったんだなって。」
鈴子はじっと僕を見つめた。
「そして、そんな人と出会えて結婚できて、それってとっても幸せなことだったんじゃないかって。」
そこで彼女は、しばらく口をへの字に硬く閉じて押し黙る。じっと涙を我慢しているのだ。彼女は一つしゃくりあげると、唇をピクピクさせながらも、なおも話を続ける。
「それ…でね、最後、お父さんに言ったの。『時子も鈴子も大丈夫、…きっと、智也さんみたいな素敵な御主人見つけて、わたしたちより、…わたしたちより、ずっと幸せになりますって…。』」
そこが限界だった。鈴子は急に顔をしかめたと思ったら、ワッと泣き伏した。
…鈴子…
僕もたまらなくなって、自然に鈴子ににじり寄り、柄でもなく優しく彼女の背中を撫でた。
しばらくしたら落ち着いてくる。彼女は後ろに控えてる僕に、ありがとうとコクンと小さくうなずいて、彼女は一つ深呼吸をした。
僕は礼を言われ自分のしたことにハッとした。そして柄じゃなかったと微妙にテレながら、彼女の前に座り直す。彼女は僕が座るのを待って、僕の目をしっかり見据えて、低い声で宣言した。
「わたし、だから、絶対に結婚には妥協したくなかったんです。お母さんの期待に応えるために、お母さんたちみたいに、例え死に別れるようなことになっても、それでも一緒に入れるような強い絆で結ばれた夫婦になりたい、そうなることの出来る、男の人と出会いたい…。
お姉ちゃんも同じで、男女のことには、自分に対してもわたしに対しても、すっごく厳しくしました。あのお姉ちゃんの怖さ、下村さんも知ってますよね。でも、そんなふうにするお姉ちゃんのキモチ、わたし、痛いほど分かるんです。いい加減な結婚とか、適当に成り行きでみたいなの、わたし、絶対、嫌なんです。」
なるほど、結婚を超・重要視してるってことは、良く分かった。
でもそんな大切な結婚を、誰とするんだっけ?
って、僕となんだよな……。
「成り行き」が、嫌だって?!
僕、まさに成り行きこそ、彼女との出会いの全てなのだが。
タラーっと背中に冷たいものを感じる。
戸惑った視線を彼女に向けたとき、彼女はちょっと頬を赤らめ、さっきとは少し照れたような声で続けた。
「ヘヘ、わたし、盗み見してたの…。」
えっ??盗み見って何を? 僕が自分の鼻を指差すと、彼女はコクンと頷いた。ゲッ?! 何を見たって? まずい、どんな醜態を見られたんだ?!
鈴子の涙に濡れた頬は、今度はピンクから赤に色を変える。
「わたし、下村さんのこと、ちょっと注目してたんです。で、会社の書類、武村さんの会社に届ける度に、時々工場を覗いたりしてちゃって。」
「はあ。」
全く気付いていなかった。
「そうしたら、機械の部品、すごく丁寧に磨いてた。」
「ええ、まあ……それが仕事だから。」
「でも、その目を見ていたら、単に真面目って言うんじゃなくって、本当に大事そうに、心を込めているというか……。」
「そりゃあ、僕、機械好きだし、機械ってモノというよりも、心を込めると息を吹き込まれていくというか、まるで生き物みたいだよ、機械って。」
僕は同意を求めようと思って、鈴子のほうに眼を向けると、キラキラッと目が輝かせた彼女が、たまらない風に破顔していた。
「ですよね!! 機械って生き物みたいですよね!!!」
<いや、そんなに喜ばれても、僕には当然のことなんだけど。>
彼女は高ぶった声でこんな話をする。
「お父さん、昔、SR400に乗っていたんです。すごく大切に。お父さん死んだ後も、引越しするまではそれが家にあって、お母さんが暇を見ては磨いていたんです。わたしもお母さんに隠れて、そのバイクに跨ったりして、そうすると、何だかお父さんに、ヨシヨシされているような気がしたんです。」
SR400 それは1978年に発売され、2008年まで販売され続けていた、ロングセラーの代表みたいなバイク。空冷単気筒のオンロード・タイプで、その長い歴史の間、基本設計は変更されなかった。それは「古くて新しい」そのデザインが、如何に洗練されたものであったかの、証拠のように思える。 僕自身、魅せられて、SR400のエンジンを大きくした、SR500に乗っていたこともあった。
「そうなんだ。」
「免許を取ってしばらくして、町の中古バイク店で古いSRを見つけたんです。わたし、どうしても欲しくなって、お金貯めてそれ買って…。」
「今、乗ってるあれ?」
「はい。」
確かに鈴子の同じSRといっても最新型ではない、というか、相当前の年式のものだ。だのに、空冷エンジンの冷却フィン(羽根)、ホイルのスポーク、チェーンの一ブロックひとブロックまで、ピカピカに磨かれて、きめ細かに手が入っている。
僕は街中で自転車小屋の端で、朽ちていっているSRを何台も見た。かつては一世を風靡し、あちらこちらで乗られていた彼ら。でもブームが去ってしまうと、こんなに惨めに忘れ去られるのか…。何台も乗り換えている、僕の言うことではないが、でも、颯爽と走っていたであろう彼らが、変わり果て朽ちていくのは、寂しくって仕様が無かった。そんな「兄弟たち」に比べ、鈴子のSRはなんて幸せなんだろう。彼女のバイクを見る度にそう思う僕だった。
「わたし、わたしのSRを、あんなに嬉しそうに走らせることの出来る下村さんって、すごいって思ったんです。」
バイクが嬉しそうに走る…か…。僕はへーっと思って、彼女をまじまじと眺めた。実は僕も鈴子と一緒にタンデム(二人乗り)したとき、彼女のSRって、なんて嬉しそうに走るバイクなんだろうと思ったのだ。でも、こんなこと言うとイタがられるとおもって、口をつぐんでいた。そうか、鈴子もそう思っていたのか。なんか口の端で笑ってしまった。
奇妙な嬉しさを噛み締めていると、目の前の鈴子が何かバタバタしているので、なんだろうと顔を上げた。するとその途端、彼女は踊りだしそうな勢いでこう言った。
「あの時、武村の奥さんが言われた通り、下村さんって、『わたしの「本当」を、ちゃんと理解し受け止めてくれる、特別な人』なんだって思ったんです!!!」
……そうなん…だ…。
鈴子は沢山泣いて腫れてしまった目を、今度はキラキラ輝かして僕に向けた。