第二部 8
遅い時間だというのに、いそいそと部屋を片付ける鈴子。主である僕自身は、とっくに片付けようなどということは、諦めてしまっていた惨状だった。その中に何の躊躇も無く入っていって、テキパキと動いている。
鈴子が目の前を通り過ぎるたびに香ってくる、シャンプーか何かの香り。男の漂わすものとは、異世界のもののように思える。
床のものを拾いながら、無意識に落ちてきた前髪を耳にかける仕草。本人は全く無意識のものなんだろうが、そう言う何気ないものほど、女であることを意識させる。僕は一緒に片付けながら、何度もドキンとさせられる。
そして小一時間、「超人間的」な鈴子のお片づけのスピードにより、カオス状態だった僕の部屋は、見違えるほど綺麗になった。テーブルの上も台所も、すっきりと整い、見事に拭かれて輝いている。僕は思わず深呼吸した。
こんなに速く片付くとは思わなかったので、正直驚いた。雑巾を片付けて、居間に帰ってきた鈴子に礼を言った。
「やっぱ、綺麗だと気持ちいいね。ありがと。」
「そんな、畏まって…。それより、ハイ!下村さん!」
見るとニコニコした顔で、万歳している。僕は????な顔で固まる。
「はい!」
上げた両手のひらを、ヒラヒラと動かす彼女。
「え?」
ハイタッチってやつ?僕は戸惑いながらも、こうかなと両手をあげると、
パチン!
鈴子はやったー!!みたいに手を打ち合わせて、顔を笑顔でいっぱいにした。
呆気に取られる僕だったが、なんか一緒に成し遂げたんだみたいな実感が、ムクムク頭をもたげてきた。凄く打ち解けた気分になる。
「じゃあ、お茶にしましょ!」
「うん、そうしよっか。」
僕は男友達でも返さないような軽い返事をした。彼女は笑顔を零れさせながら、それじゃあと、自分の家のように慣れた感じで流しに向かう。見ているとヒョイヒョイと湯飲みを選び出して、お茶を淹れ始めた。僕も鈴子になら任せても良い様な気がして、恐縮もせずに自分の席に腰を下す。そして、何気なく時計に目をやった。
<ありゃ!>
見ると、とっくに日付が変わっていた。夢中で片付けていたから、時間のこと気にしなかったが、よく考えたら、彼女が来たとき既に十時を回っていたのだ。思った以上に遅い時間になっていて、僕は一人青くなった。
「あ、あのさ・・・。」
「え?」
「時間……。」
僕は心配になって、お茶を入れる鈴子に、時計を指し示す。
「……いいんです。」
しばらく沈黙して、そう答えた。
「え?」
慌てるだろうと思っていた彼女が、分かっていたみたいに言うので戸惑う。
「だって、お姉さんは。」
「ちゃんと話してきました。」
「って言っても。」
「今日、もし良かったら、……これから、お話しませんか?」
「お話って……。」
お盆が無いからと、彼女は湯飲みを二つ持って、卓袱台に座る僕の方にやってきた。それを眺めながら、そういえばと、僕は掃除が始まる前していたやり取りを思い出す。
<……何か大切な話が有るみたいなだったんだ。でもこんなに遅くなっても、帰るって言わないってことは…。まさかな…。>
微妙にドキドキが始まる。彼女を意識してモゾモゾし始めた僕の前に、彼女は静かに湯飲みを置いた。礼を言おうと思って顔を上げると、目の前には、前かがみになった彼女のTシャツの襟から、まともに覗く素晴らしい「谷間」。ビクンと反射する僕。ヤバイとドギマギしながら目を泳がせた。
<くっ、見ちまった…>
照れて、口の中でそんな悪態をつく。彼女は何も無かった様に、すとんと僕の正面に座った。でも、僕にはもう、ゆったり構えるほどの余裕は無かった。
ほのかに鼻をくすぐる甘い香り。目を逸らしても、彼女をメチャクチャ意識してしまう。気を紛らわそうとすればするほど、頭の中をぐるぐる巡るのは、さっき見た胸の谷間。これはビデオの中でもなければ、妄想の中でのことでもないのだ。
そう言えば、そんな彼女が今夜は帰らないみたいなことを言っているんだが、一体どうしたものか…。俄かに僕の中の「男」の部分が存在感を増してきて、クールでジェントルで、そんでもってカッコ良く頼りがいのある男でありたいと願う、僕の理性とせめぎ合いを繰り広げるのだった。
「わたし、生まれたのも育ったのこの町で…、」
「え?」
葛藤をする僕の耳にいきなり飛び込んできたのは、静かで深い響きをたたえた彼女の声だった。僕はモンモンしている自分が、恥ずかしくなりシュンとなる。そんな僕の中のことに気付くか気付かないか、彼女は淡々と自分のことを話し始めた。
写真でしか顔を知らない父親のことから、小学校に入ったときのこと、担任の先生のこと、友達、好きな学科、苦手な学科……などなど、本当に事細かに。
「へー、そうなんだ。」
話を聞いている内に、僕の頭の中におかっぱ頭の幼い鈴子が、近所のお姉ちゃんから貰った中古の赤いランドセルを背負って、トコトコ走っている姿が浮んでくる。お姉さんの時子さんのお古の自転車を乗り回し、男の子顔負けに野山を走り回って…。それは貧しく苦しいながらも、周囲の善意に支えられて、明るく前向きな姿だった。
そしてそんな彼女のストーリーに、顔を出すのが、彼女にとって掛替えの無い親友たち。明るく前向きな彼女は、男の子にも女の子にも人気があって、当然、友人には男女が入り混じっていてる。
「それで、この間の話の続きですけど、アパート探しの時のサーファーの彼、彼が和夫君で、それに、あのレストランでシェフしているのは、義男君で……。」
結局、僕の意見で、披露宴は義男のレストランではなく、ホテルですることになったのだが、一度鈴子と二人で食べに言ったときの、彼のことを思い出す。
<そっか…。>
婚約者がいる鈴子に無神経に迫る、常識無い変なヤツに思えたが、それは少し違うようだった。義男だけではなく、鈴子の話す男友達は皆とても紳士で、昔から今に至るまで、まるでお姫様を守るナイトのように、彼女と接してきたようだった。これは敵に回したのは、義男や和夫、忠だけじゃないみたいだ。
<僕って、やっぱ、相当悪質な「横入り」ヤロウなんだな…>
…微妙に脂汗をかいた。
彼女の語る彼女自身は、料理は余り得意ではなくって、よく大ドジして時子さんに呆れられたとか、家事オタクと言っても、そうなったのは最近のことなのだとか、さらには良くフシギちゃんと言われ笑われることなどなど、自慢できるような所ばかりではなく、妙なことも、???なことも、ちょっとガッカリすることも話題に上る。
なんでマイナスになるような、失敗エピまで話すんだろうと思う僕だった。でも聞いている内に、彼女のキモチがなんとなく分かってきた。それは彼女がこんな話をするのは、自分のことを自慢して、僕に気に入られようとしているのではないということ。そうじゃなくって、自分のありのままを知って欲しいと、願ってのことなのだ。
……そうなんだ、もう、気を遣いあう他人行儀な関係じゃなくって、もっともっと心を通わせあう関係になりたいって、彼女は思っているんだ。
そんな話の流れがいきなり止まる。
<どうした?>
ビックリして顔を上げると、彼女の漂わす雰囲気がさっきまでと変わっていた。一瞬と惑った。
何が始まるのかと彼女の顔色を伺っていると、彼女が心の一番奥に、じっと仕舞い込んでいたストーリーが、綴られていった。
「小学校4年生のとき、初めて母が倒れたんです。」
話を進めようと言葉を選んでいる彼女に、自然と身が引き締まる僕だった。
「母は、本当に優しくって、働き者で、いつもわたしたちのことを、一番にしてくれていた、母だったんです…。」
わずかに顔が歪む。
「お母さん、無理ばかりして、わたしもお姉ちゃんも、休んでって言っていたのに…。」
倒れて二年、寝たり起きたりだったが、とうとう鈴子が中学に上がる前、世を去ったということだった。
<親を亡くす…か…。>
一瞬、自分の親のことが頭を過ぎる。
中高の頃は煩くって居なくなって欲しいと思ったものだった。でもそんなことを思ったのは、殺しても死にそうに無いと思っていたから。そう、居なくなるはずなんて有り得ないと、信じていたから。
でも、鈴子達は、その親を亡くした。
まだ何も知らない少女であった当時の鈴子とお姉さん。親に先だたれポツンと残された時は、どんなに心細く、寂しく、辛かっただろう。
静かな夜の空気が部屋を満たしていた。
溢れる思いが零れないように、淡々と語っていった鈴子。僕はか細い彼女が背負っている過去を明かされ、胸は疼いた。