第二部 7
「す、鈴子・・・です。」
ドアの向こうから聞こえてきたのは、全く予想してなかった人の声だった。
え?! 鈴子・・・さん。・・何で?
僕は突然のことで次の言葉が出ない。彼女はその沈黙を拒絶と取ったのか、慌てて謝った。
「あ、こんな夜に、すみません・・・。やっぱり、わたし・・・。」
ゴソッと音がして、足音が一つ二つ。
<え? 帰る気?!>
その時、よっぽどの事では鳴らない、ニブニブの僕の心のアラームが、けたたましく鳴った。今を逃したら、取り返しの付かないことになると。
「あ、ちょっと!」
僕はガバッとドアを開く。するとそこには、帰りかけた鈴子が、目を丸くして固まっていた。見るとTシャツにウエストポーチ、ジーンズを穿いた、いつぞやのライダールックだった。
「あ、ゴメン!」
ゴメンって・・。
いつもだったら、「済みません」「失礼しました」とか、もう少しは気の利いた言い方するのに、あまりのことに地が出た。それだけじゃなく、自分のカッコウを考えると、洗いざらしたヨレヨレのTシャツと短パン、頭はボサボサ。デートの時のジャケット姿の僕とは随分違う。
急に開いたドアに驚いた彼女の顔は、今度は僕を眺めながら目を瞬かせる。
や、やばい・・・・
僕の背中に、タラーッと汗が流れていったのが分かった。僕は呆然と鈴子の顔を見つめていると、次の瞬間、彼女は今まで一度も見せたことのなかった、
----------眩しいほどの笑顔を、投げかけた。
笑顔?
・・・僕の胸はホッと温まる。
「あ、押しかけて来たんですから、本当にお構いなく。」
「いえ、こんなところ見せちゃって・・・。」
僕が山と積まれていた雑誌や服を、必死に押入れに押し込んでいるを見ながら、鈴子は済まなそうにそう言う。そして、やっと出来た小さな空地に、僕が勧めるままちょこんと座った。
今度こそ冷めるよな・・・
ゴチャゴチャ転がっているものを、必死に押入れに突っ込むなんて、メチャクチャ情けねえ・・・。醜態を彼女の前に晒しながら、何時、彼女が落胆の色に染まるのかと、ビクビクしながら伺う。
彼女が家に上がったのは、これが初めてである。それまでは外で会うか、家まで来たとしても、アパートの階段の下のところまでだった。
今まで会うときは、僕はいつも背伸びして、勤めて大人で、穏やかで、清潔で、紳士でいようと頑張ってきた。
でも、これで僕の本当がどんなものか、分かってしまっただろう。
そう、まともに自分のことすら出来ない、半人前な人間だってことを・・。
思わず溜息が漏れる。
出来損ないな自分を意識すると、森山がうちの会社に訪ねてきて以来、あの何でもビシッと出来そうなあの男のことを考えてしまう。
自信満々、余裕をかまして僕を見下していたあいつ。悔しくってならないのだが、しかしあの男なら当然なのかもしれない。森山は大会社の創業者直系というだけではなく、実際に業界で一目も二目もおかれている、期待の若手リーダーと目されている。
そんな人物が一介の工員である僕のところに、サシで話に来たというだけでも、本来ありえないことだったのだ。
そんなやつを敵に回して・・・、おい、どうする気だ。
あの時の別れ際のことを思い出し、思わず溜息を漏らす。
鈴子は僕の部屋によほど興味があるようだった。部屋の端から端まで、興味深々で観察している。たまに視線が合うと、「悪いことしちゃった・・・」みたいな、済まなそうな顔をするが、それでも気が付くと、また部屋の様子を伺っている。散らかってる部屋を、そんな風に見られるのが微妙に恥ずかしくって、気を逸らそうと僕は口を開いた。
「あ、今日、来たのって・・・、何か重大問題でも起きたんですか?」
「重大問題?!」
鈴子は目を丸くした。それは図星を突いたときの反応だと見て取った。
・・・なんだろう・・・・
いや、そうだよ。考えてみれば、普通こんな時間に、アポ無しで家に来るなんてありえない。話だけなら電話でだって出来るんだし・・。
だとすると、こんな時間に直に会って話し合わなければならない問題ってなんだろ。僕らの間に起こりうる、そのレベルの重大問題となると・・・。
まさか、・・・婚約解消とか無いよな・・・・
沈んでいるときは、何もかも悪く考えてしまう。
僕の中で、次から次へとバッド・ストーリーが紡がれていく。散らかった部屋を見られ湿気ていた僕の気持ちは、さらにどん底まで落ち込んでいった。
チッチッチッチ・・・
壁の安物の目覚まし時計の秒針の音が、やたらに耳につく。時折、冷蔵庫のコンプレッサーがグォーンと唸りをあげる。
彼女はそれっ切り、座り込んでいるだけで話をしようとしない。どうも今になって話を切り出すのを躊躇るようだった。そんな彼女を見ていると、僕はいよいよ深刻な気分になっていく。
しばらく気まずい雰囲気の中、僕らは口を閉ざして睨みあった。それに耐えかねたのか、彼女はビクビクした声で話し始めた。
「あ、あのう・・・。」
「え?・・・はい・・。」
いよいよかと息を呑んだ途端、彼女はすっくと立ち上がった。
「あ、わたし、片付けます。」
え?!
初め鈴子が言っている意味が分からずに、目が点になってしまった。しかし、彼女は僕がYES/NO答える前に、もう流しに立って、洗い物を始めていた。
「あ、良いですよ・・。お客さんに・・・」
「お客さんなんかじゃないです。後もう、一ヶ月したら結婚するんですから、遠慮しないで下さい。それに、どうせ結婚したら、・・ここ片付けることになるんだし・・・。」
当然のようにそう説明した。でも、ちょっと借りますと、引っ掛けてあった僕のエプロンをつける彼女の顔が、真っ赤になっていただなんて、鈍い僕は気付かない。
彼女は次から次へと食器を洗って洗い籠に並べている。
カチャカチャ・・・キュッキュ・・・
見ていると、洗い物をする彼女の背中が、いかにも楽しそうに揺れている。
「天原さんって、結構、家事が好き?」
「そう見えます?」
「ああ、何だかすごく楽しそう。」
「そうなんです! わたし、家事が好きなんです。」
布巾と皿を持ったまま、いかにも嬉しそうな顔をして、こっちに振り向いた。
「こういったら変ですけど、わたし、家事オタクなんです・・・。」
・・・家事・・・オタク・・・?
「ピカピカのお台所とか、綺麗に並んだ食器見ていると、幸せだなーって思うんですけど・・・、やっぱり変ですか?」
そんなオタクがいるなんて聞いたことが無かったので、微妙に戸惑っていると、嬉しそうに話していた彼女の顔が、急に曇る。
「やっぱり、・・・・・変ですよね・・・。」
すごく寂しそうな声。
「あ?・・・いや、これからお世話になる身としては、そういうの楽しく出来るって言うのは、良いんじゃないかなっていうか、とっても助かるけど。」
僕がそう言うと、彼女ったらなんか感動して、ちょっとウルッしまった。
「そうですか!・・・良かった!」
この話をすると、可笑しい娘とか、良い子ぶってるって言われるけど、本当なんだと真剣な眼差しで訴える彼女。僕が分かった分かったと相槌を打つと、ホッとした顔をして、また流しに向かった。
洗い物が終わると次は部屋の片付けとなった。さすが家事オタクと自称するだけあって、端々に「職人の技」のようなものを感じる。床に転がっているものを手当たり次第に拾っては、これは洗濯物、これは流し、これは本棚へ・・と、実に効率よく慣れた手つきで片付けていく。
<それにしても、こんな時間帯に、僕以外の人が同じ部屋にいて、しかも女の子なんだよな。>
彼女などいたためしの無い僕には、自分の部屋を片付けてくれる人間なんて、親以外にはいなかった。だのに、鈴子がそれをやっていると言う現実は、鈴子が「家族」になるんだと言うことを、やたら意識させた。
僕は深刻そうな話が始まりかけていたのもすっかり忘れて、すっかり嬉しくなってしまった。
<それじゃあ・・>
「あのう、僕も手伝います・・・・僕の部屋だし・・・。」
「あ?・・大丈夫ですよ・・・。でも、それじゃあ・・・。」
僕も鈴子と一緒に、何年ぶりの本格的片づけを始めた。そんな僕に鈴子は時折、優しい笑顔を投げかける。
夫婦になると、いつもこんなのかな・・・。
鈴子が僕と特別な関係であることを、実感させる。一緒に片付けながら、他の人間だったら知られたくないと思う僕のプライベートも、鈴子なら共有できそうだなあと思った。
なるほど、これって悪くない・・・
いや、かなり良いかも・・・
もう、今ひとつピンと来ない彼女の容姿なんか、もうどうでも良いような気になる。
こんな風に一緒の空間で、一緒のことが出来、お互いに相手のことを自分のことみたいに考え、それがお互い喜びと感じる。これってなんか凄い・・・。
初めは散らかしているのが恥ずかしかったり、恐縮したり、ちょっと強引なやり方に引っかからないでもなかった、この「夜のお片づけ」だったが、いつしか無性に楽しく感じている僕だった。