第二部 4
「あの娘ね、わたしが『釣り書』持って行ったとき、あんたの写真見て、凄く嬉しそうにしたんだよ。」
おかみさんは、そのときのことを思い出しながら、うなずきながら話を続けた。
「それでねホント直ぐだったんだよ、会いたいて言って来たの・・・」
話は続く。
「カワイイよねえ。あの娘ったら、大事そうにあんたの写真を机の引き出しにしまっちゃってさ・・・。」
周りのオバサンにいじられて、こんな感じで照れてたとか、おかみさんはそのときに鈴子の仕草ををしてみせる。おかみさん、かなりの演技派で、確かに彼女ならそんなことしそうだと、納得させるには十分なリアリティーが有った。
<でも、それじゃあ、なんか、まるで、彼女が僕のこと・・・>
そこまで思いが至り、次の言葉を続けようとした途端、不意に僕の胸は高鳴り始め、温かいものが全身に流れていった。そして自分ではどうしようもなく、体中が火照っていく。
<な、なんなんだ・・・>
今度は自分の反応に戸惑うのだった。
またかと冷め切った目でおかみさんのパフォーマンスと見ていた親父さんは、それぐらいにしとけと、熱演中のおかみさんを制止して、おもむろに話し始めた。
「功太郎。ここで俺らが顔をつき合わしてグダグダしていても、何の問題も解決せん。兎に角、何とかせにゃならんな。・・・・まあ良い、今日は帰って休め。お前もそんな話したんだったら、相当、疲れたろ。」
「わたしも良い方法考えてみる。責任あるしね。大丈夫、きっと。任せておいて。」
そう言って、おかみさんはニコッと笑った。
「失礼します・・」
僕は会社の事務所を出て家に向った。
暗くなった田舎道。未だに街灯もろくにない。事務所の中の明るさと、外の暗さのギャップで、一瞬視界が無くなる。
視界が奪われ触覚に意識が行った途端、頬に当たる涼風にハッとする。
<いい風だ>
夜風は胸の内に滞った濁った思いを、すがすがしいものへと入れ替えていく。僕は思わず目を細め、そんな田舎の夜を味わう。
風に混ざる田んぼの匂い。風でそよぐ稲の葉の音。それらは突然降って湧いた問題に翻弄され、すっかりくたびれていた僕の心を、しっとりと包んでくれた。
<街からここに来て良かった。>
そこそこの学校を出たので、大都市での求人もないではなかった。専門の化学をするということにしたなら、もっと優遇されたポジションだって狙えたかもしれない。
でも、機械が造りたい。
しかも机の上でなくって、自分の手で!
みんなに考え直せと言われた。だけど、一世一代大勝負、それまでベルトコンベアー式に人生を生きてきた僕が、初めてと言って良いだろう、我が侭を貫いて、今僕はこの田舎の町工場で機械工をしている。
直に僕のアパートが見えて来た。ホッとしたキモチが胸に広がり、無意識に歩みが速くなる。
アパートの二階に行く階段に差し掛かったとき、ふと目に入ったのは、傍らの自転車置き場にある、僕のHONDA CB1000だった。
この頃はバイクを見ると、いつもあの彼女とのタンデム・ツーリングを思い出してしまう。
あの一体感を感じる内に、僕を包み込んでしまったあの安心感。あの時だけは、いつも人と接するときに感じてしまう、伝え切れないもどかしさなんか微塵もなかった。最早、快感とすら感じた阿吽の呼吸。その中で初めて実感した彼女の凄さ。
でも、何と言っても僕の心にくっきり焼き付いているのは、バイクから降りた時、彼女が注いでくれた、信頼と尊敬のいっぱいに篭った真直ぐな眼差しだった。
あの目・・・
思い出しただけで、また心臓が高鳴り始める。
どう言ったら良いんだろう。
そうなんだ、今まで体験したことのない上気した気分。
僕は試しに、今まで思い出すか限りの、楽しかったり嬉しかった思い出を並べてみる。
まだ小学生のころ、欲しくてたまらなかった物を、思いがけずに親から誕生日プレゼントで貰ったとか、家族みんなで行った、信州への家族旅行のこととか、仲間と暑い夏休み頑張り抜いて、とうとう吹奏楽コンクールで金賞取ったとか、たいして頭が良い訳ではないのに、そこそこの大学に入学できたときとか。
今までこんなこと思い出しては、暖かいキモチに浸っていたのだが、それがみんな薄っぺらく思えてくるほどの、深く心の芯が温まるような幸福感・・・。
それまでの生涯の中で味わったことのなかった充実感、達成感がそこにあった。
<おっと、突っ立ったまま何してんだ僕・・。>
現実に引き戻される。こんな突っ立っててボーっとしてるの誰かに見つかったら、ちと恥ずかしいなと思いつつ、急いで階段を上る。
しかしこの結婚、正直、当初は焦りだけが、GOを決断した理由だった。
だからその後も、何にしても微妙に及び腰、本気になれないところがあった僕。そんな僕だったのだが、この頃は気が付いたら、鈴子との新生活のことばかり考えていたりする。
僕にとって鈴子と言うのは「妙」な存在だ。
というのは、今まで他の女の子に対して持っていた感覚とは、随分と違った感覚を抱いている。
僕はそんなこと言えない事は分かっていのだが、結構、メンクイだったりする。やっぱかわいい女の子が好き。
片思いで終わった今までの恋は、その娘の綺麗さだとか、体とか、大概がスケベな気分と重なっていた。だが、鈴子に関しては、そんな気が起きない。
なぜそうなのか。ずっとこれを考えてきた。
まず、何と言ってもルックスが僕好みではない。僕は「純和風」が良いのだ。鈴子みたいにエキゾチックなボリュームのある感じは、僕の守備範囲ではない。
次にいきなり既成事実みたいに、婚約者になっちゃったもんで、恋愛する暇がなかったってのもある。三角関係とか、略奪愛とかいう言葉があるが、まあそこまで行かなくっても、憧れる彼女に必死にアタックかけていく内に、否が応でも燃えてくるものなのに、鈴子は降って湧いたように、ポンと僕の手の内に収まった。だから「ありがたみ」が全くないのは確か。
<気が付いたら、やたら近くに、勝手に居たってかんじなんだよな・・・。>
そう、恋愛というのを、すっかり飛ばして、僕の中ではまるで家族みたいになってしまっているのだ。もう居て当たり前な存在。
ただ、最近変わってきたのは、単に居て当然というより、
・・・・居なくては困る存在になっているということぐらいか。
気が付くと、玄関のところにまで来ていた。いつものようにポケットから鍵を引っ張り出し、真っ暗な自分の家の玄関ドアを開く。
<ただいまっと>
誰も居ない真っ暗な部屋に入る。部屋からムワッとした熱気。僕は顔を顰め、適当に靴を脱ぎ捨て、闇の中に潜り込んでいく。
1Rのアパート。電気を点けると、流しには朝飯の皿が、突っ込んだままになっているのが目に飛び込む。部屋の端には洗濯物が山となって溜まっていて、卓袱台の上にはバイクの雑誌と、ノーパソが無造作に置いてある。
全てが今日朝、出て行ったときのまんま。なんか、今日の朝なのにずっと前のことのように感じた。
「疲れた・・・」
僕は服も着替えずに座り込むなり思わず口をつく独り言。体がだるくって、もう動きたくない。
PCの電源を入れ、ニュースをチェックする気すら今日は起きない。目の前のバイクの雑誌を手に取ってみるが、バイクを見るとまた鈴子を思い出してしまい、落ち着くどころか心が波立つばかりと放り出す。
仕様がないので、手近に合った枕を引っ張ってきて寝転がった。
天井を見つめる僕の脳裏に、喫茶店で対峙した森山の顔が浮かぶ。
<あの目・・・>
森山はまだ諦めていないと思った。どんなことをしてでも奪取してやるというような、攻撃的なオーラ。
ズキン・・・
<怖い?!>
胸が一瞬苦しくなる。過ぎったのは、恐怖にも似た不安だった。
それは、森山自身というより、そう、鈴子自身についてのものだった。
<まさか、いまさら鈴子が居なくなるなんて・・・>
いや、もし本当に、そんなことになってしまったら・・・・
僕の未来はどうなる
僕の人生はどうなる
鈴子が居ない人生なんて、
<・・・・終わってる・・・・>
僕は僕の魂がそう呻くのが、聞こえたような気がした。