第八章 真夜中のティーム・ワーク
残された二人の処置をめぐり、激しい応酬を交わしたオレとブルジョワ。新しい乗客を迎え、オレとブルジョワのバトルが再び始まろうとしていた。
左でパチンッとバッグの口を開け、閉める様な音がする。あのOLがケータイでもしまったのかもしれない。
三分ぐらい経ったろうか…。
スー、スーと左から寝息――これはキャップ男のものではない!
オレはカッと目を開き、左を見た。
OLが眠っている。
さといブルジョワも遠くから顔をのぞかせていた。
オレは前の席を素早く確認した――前の七人は全員寝ている。
ブルジョワはオレを見て、ニヤリと笑った。そして、隣りの髪のクチャクチャの女の肩に手をかけるのが見えた。
オレもキャップ帽の男の肩に左手を置く。
先に仕掛けたのはブルジョワだった――クチャクチャの髪の女が倒れ、隣りの緑のコートの男が倒れかけ始めた。
オレも左手を押した。少し強めに。
キャップ、新参のOL…そこまでだった。
向こうも倒れて来たので、菓子まみれ男と新兵器の女がぶつかることになった。
二人は肩をぶつけ、揺れ、男の方は止まった。
OLの頭は左へ傾斜していく…。
菓子の男の緑のコートと背広は度重なる災難で、グチャグチャに乱れていた。右の胸元は平らにつぶれ、対照的に左の胸元が背広の襟の辺りから穴が開いたようにぽっかり膨らんでいる。
OLの頭はその膨らみの中にすっと、入ってしまった。
林の中で風がやんだようにドミノもそこで止まった…。
オレは頭の中が真っ白になった。
「ひいっ!」
という悲鳴がした。
遠くを見やれば、ブルジョワが両手で口をおさえている。
見知らぬ男と女同士がこんな状態でいるのはまずかろう。
特に男はポケットから菓子があふれそうになっているだけでなく、額に付いたアイスクリームが垂れてきているのであった。
気づいたら大変なことになる。
オレは何とか心を落ち着かせると、立ち上がり、音を立てない速足で、もつれた二人の前へ進んだ。心臓が早鐘のように打っていた。
オレは息を殺して、二人の前に立った。ブルジョワがこちらの様子をうかがっていた。オレは二人の重なる方へ手を伸ばした。
「ウーン…」
菓子まみれの男が苦しそうにうめいた。
オレはあたふたと自分の席まで逃げ戻り、寝たふりをした。
………時が流れた。
オレは目を開き、横を向く。
しばらくしてブルジョワが顔を出し、それと目が合った――ブルジョワはびびったままの顔をしていた。もっともオレもそうだったかもしれない。
さっきのうめき声で、オレにはもう、再び足を踏み出す勇気がなくなっていた。
オレはワラをもつかむ状態だったのかもしれない。
ブルジョワに、そっちからクチャクチャの髪の女の肩を、もう一度押すように身振り手振りで伝えようとした。
まず、くっついた男女を指さし、両手で左右にかき分ける動作を送り(くっついた男女を離したい)、左手の人差し指でブルジョワを指してから(お前が)、両手でキャップ男の肩を押す真似をしたのだ(ドミノで倒せ)。
すると、ブルジョワはぎょっとした顔になり、右手を顔の前でバタバタ振ってきた。そして、オレを指さして、両手で押すように伝えてくる。
OLの頭が左に座る男の背広に入っているのだから、左から押さねば取れぬはずなのだが。
オレは、そっちから押すように強い調子で(自らの顔の筋肉の動きを交えて)手振りで伝えた。
すると、ブルジョワは奥へ顔を引っ込めてしまった。
オレは軽く舌打ちして、上半身を引っ込めることにした。そのとき、お菓子の男のネクタイにOLの口紅の跡が付いているのを見つけてしまい、思わず「ひぃ!」と悲鳴を上げてしまった。おそらく傾いたときに付いたのだ――家に帰って、追及されなきゃいいが――いや、その前に気づいて落とすか…。
オレは目を閉じて寝たふりを決め込んだ――ザ・タヌキだ。
………しばらくして、ドシャッという音がしてオレは起きた。
そっと横を見ると、背広の中にあったOLの頭が抜けて、キャップの男のひざの上にのり、その上にお菓子の男の体が覆いかぶさっていた…。
端を見ると、ブルジョワは寝たふりをしている。
しかし、その隣りの二人はさっき見たときより明らかに大きく右に傾いていた。
オレは小声で
「おい!おい!」
とブルジョワに呼びかけた。
ブルジョワは目を開けた。そして、ワザとらしく首をキョロキョロさせて、周囲を見回し、また寝たふりを決め込む。
所詮、悪辣な資本家の性根はこんなものだ。
末端の者が苦しんでいても見ぬふりである。
そして失敗の尻ぬぐいは部下がやるのだ。
オレはそんな組織が嫌になったのだ…。
次は厳島。オレの降りる駅だ。
何とかこのまま、ごまかせないこともない…。
ごまかす…それは会社での、オレの得意技でもあった…。
オレはそっと立ち上がった。
そして、二人のそばまで行き、緑のコートの男の肩を両手でつかんで、上体を起こし始めた。
重たかった。冷や汗が背筋をつたった。
なかなか持ち上がらない。
強引にやれば起きてしまうかもしれないので、静かにゆっくりやるしかなかった。
しばらく苦闘が続いた…。
隣りで気配がして、急に軽くなった。
ハッとして横を見ると、ブルジョワが緑のコートの上腕を持っていた。
ブルジョワはオレの顔を見て、ニヤリとして言った。
「よう。行くぞ」
「…そっちは任せたぞ」
オレとブルジョワは二人でコートの男の体を元の位置に戻した。
続いてOLの体も。
オレは言った。
「目を覚まさないように気をつけろ」
「分かってる」
何とか大丈夫だった…。
OLの服にアイスのシミが付いていたが、胸の微妙な位置にあったので拭ふき取ることはスルーされた。
男のおでこをオレがハンカチで拭こうとすると、停車のアナウンスが流れだした。
同時に減速が始まる。
「ウ~~ン」
お菓子の男がうめくと、上半身を動かした。
OLも「ン~~」とうめき出す。
オレとブルジョワは男の「ウ~~ン」のウの字が出たとたんに自分の席へ向かって走っていた。
そしてオレは目を閉じた……。
「ウ……何だ?…ん!?うわっ、えっ!?何だ、こりゃつ!」
「ん…何よ…終点?……ん?このシミは…」
「ああ!ひ、額が寒い…ひゃあー!何だ、これは!」
電車がホームへ滑り込んで停車した。
扉が開く。
すると、ブルジョワが黒カバンを抱えるようにしながらホームへ飛び出して行ったのが見えた。
オレも慌てて網棚からカバンを取ると、ホームへ走った。
秋の夜の冷えた空気の中、プラットホームに二人の足音が響く。