第六章 沈黙の奇襲警報
戦いは膠着状態に入った。タヌキ寝入りを決め込む中、連結車両から男が現れ、乗客の紙袋を持ちだそうとする。果たしてオレは…?
さっき電車は駅を一つ通過した。前の座席から客が一人起きて降りて行った。
薄目で様子をうかがうと、ブルジョワはまだタヌキ寝入りをしていた。
オレは気を張ったまま、薄目で正面を見た。外では街灯の下、照らされた住宅地の夜景がスクロールしている。
オレはふと思った。もしここでオレが隣りのキャップ男の肩を押したらどうなるんだろう。そういえば昔、何かのビジネス書で読んだことがある。そこには【リスクを冒した者だけが勝者になれるのです。】という文が載っていた。
オレが会社で負け組人生を送って来たのも組織を変えるような大きなリスクを冒さなかったからではないのか?社長の言いなりになっていたからではないのか?相棒の心に踏み込まなかったオレの消極性ではないのか?
あと一歩、踏み出す勇気。その勇気がないからではないのか。今、オレに必要なのは才能を眠らせている隣りのキャップ男の肩をそっと押してやれるような漢気ではないのか。
オレはキャップ男の右肩に手をかけた。だが、その手が はた と止まる。
だめだ。やっぱりオレには先制攻撃をするなんていう大それた危ない橋は渡れない。オレは法の男だ。
オレは隣りの男の肩にかけていた手を下ろした。
これでいいんだ、これで……。
左奥のブルジョワは安らかに眠ったままだった。
しばらくは何も起こらなそうだな――オレはそう判断した。
ガコォンッ――左側から列車の連結部分にある扉が開く、重たい音がした。
薄目で見ると、入って来たのは古びた灰色の鳥打帽とりうちぼうを被ったクマ髭ひげの大男だった。ガタイのいい体の上によれよれの黒のジャンパーを着て、足は汚れたサンダル履きで、どうもホームレスの様だった。
男は扉を閉めると、辺りをうかがうようにキョロキョロしていた。そしてこちらへ歩いて来る。そしてオレの前まで来ると、足を止めた。
ホームレスの男はオレの真向かいに座っているサラリーマンをじっと見つめている。そのサラリーマンは青い紙袋を両手で抱えたまま寝ていた。
男はサラリーマンに近づき、青い紙袋を右手でそっとつかんだ。青い紙袋が徐々に上へと引っ張られていく。袋のしわが伸びて「カサカサッ」という小さい音がした。
泥棒だ…どうにかしなくては……。
だがオレはもう探偵じゃない。それに辞表を出した後、愛用のコルト・ガバメントと三十八式歩兵銃は返却している。今は丸腰だ。
あ…そうだ。いい手を思いついたぞ。
寝相が悪いふりをして、キャップ青年の肩を左へ押し、ブルジョワの方へドミノの波を起こせばいいのだ――オレ、頭いいわ。
このホームレスは物音を立てないように慎重に、慎重に、紙袋を持ち上げている。ならばドミノの倒れる音とブルジョワの悲鳴を聞けば、それに驚き、盗みをあきらめるだろう。
オレはキャップ男の肩に手をかけた。
迷うな!これは目の前の泥棒を撃退するための警報の役割を果たすんだ。言わばこれは人助けのためのドミノ。その動機と結果から考えれば、ブルジョワのやりたがっているエゴ丸出しのデスマッチなどとは雲泥うんでいの差。先ほどはリスクを恐れるあまり攻撃のタイミングを失ったオレだが、今度なら殺やれそうだ。
だが、オレの手はなぜか震えていた。
まだ迷うか、臆病者め!――オレは自らを叱咤激励し、胡乱な葛藤を乗り越えようとした。
目の前にいるサラリーマンを救えるのはオレしかいない!!オレのやるのは他人のために行う、人に優しいドミノ倒しなんだーーーー!!――オレの探偵魂が目覚めた。
オレはカッと目を見開き、キャップ男の肩を押した――キャップ野郎の体が左へ倒れる。オレは薄目に戻した。
ドサッ、ドサッ、ドサッとドミノは続いて行く。
ホームレスの男はぎょっとして、こっちを見た。だが、予想に反して、男はまたサラリーマンの方へ向き直り、そのまま紙袋を一気に持ち上げた。「ガサササササッ!!」という音がした。
男はそのまま足早に右側へ走り去ろうとした。
だがオレは探偵だった――オレは考えるより早く立ち上がっていた。
そして、男に背中から飛びかかった。
「ドウッ」と音がして、オレと男は車内の床にうつ伏せになって倒れ込んだ。
オレは奴の耳元で小声で言った
「紙袋を離すんだ」
「わ、わかったよ」
オレは男の手から紙袋を受け取ると、素早く辺りを見回す――大丈夫。電車内の人々は眠っており、この出来事には気づいていない。
「行け」
「兄ちゃん、すまねえ、すまねえ。サツに言わないでくれ、なっ」
そう言って男はそそくさと車内右奥へと小走りで走り去った。そして右の連結扉を開けてフェードアウトした。
オレは例のサラリーマンに歩み寄ると、青い紙袋をその膝の上にそっと置いた。
気配がして後ろを振り返ると、いつの間にかドミノ倒しが戻ってきており、今、ハーフコートの中年女の体が初老の男の体を倒そうとしているではないか!――ブルジョワの反撃だ。
だが残念だったなぁ、ブルジョワよ。今オレはそこにはいないんだ。反撃したつもりだろうが、とんだくたびれ損だったな。反撃するなら相手の位置を把握しておけよ。ふふふ、やるだけ無駄のことをして、ホントにご苦労様。
今、初老のチョッキ男の体が倒れ、キャップ青年にぶつかろうとしていた。
待てよ――危ない!
今、このキャップ青年の体が最後まで倒れたら、彼の頭が、横にある銀の手すりにぶつかってしまうのだ。
キャップ青年の体の傾きは四十度くらいになっていた――間に合ってくれ!
オレは青年と手すりの間に両手を広げてダイヴした。
オレは乗客たちの下敷きになった。
「ぶいごぉっ!」
オレは青年を守った。そして銀の手すりを左手でつかみながら徐々に体を押し戻していく。未来ある若い命をここで消させるわけにはいかない。
オレは力を振り絞り、手すりをつかんだまま、素早く青年と手すりの間で体を反転させ、着座した。そして、踏ん張りながら自分の体を左側へ傾け、乗客たちを次々、倒していった。
自分の中にまだこれほどの力が残っていたとは……。
でも、何だかもう疲れた…。
オレは目を閉じた。
よかった……青年が無事で。
「ぐはぁ~」
奥でブルジョワの悲鳴が聞こえた。
――っていうか、ブルジョワ弱っ。何が「オレが龍なら貴様は虎よ」だよ。