第五章 心眼
奴とのドミノの戦いが始まった。今は油断は許されない状況だ。オレは神経を集中させ、心眼でブルジョワの様子をうかがう
その後、電車は次の駅に停車し、その次の駅でも停車していた。
そして今、列車はまた静かに始動する。
オレは闇の中、心が無になるよう徹していた。
それは長年、探偵をしている者にしか分からぬ、研ぎ澄まされた自身のプロの勘にゆるぎない自信があったからだ。
……だが一向に攻撃はなかった。
静まり返った車内では、いつ起きるかもしれぬ開戦前の差し迫った空気に満ちていた。その中でオレは奴の微かな息づかいを正確にとらえていた。
……それでも一向に攻撃はなかった。
オレは今、無音の闇にいた。目を閉じて何もない闇の果てに集中すればするほど、奴の動きが自ずと手に取るようにわかる気がしたからだ。
……いつ来るんだ、今か?
オレは目を開けた。だが左サイドに動きはない。ブルジョワの体の上にくちゃくちゃの髪の女の頭はのったままだ。ブルジョワもオレを油断させるためにタヌキ寝入りを続けていた。アホだ。さぞ苦しかろうに。
オレは再び目を閉じる。
しばらくして気配を感じた。目を開けると、ブルジョワがくちゃくちゃの髪の女の体を中立の状態に戻しているところだった。つられて他の客の姿勢もニュートラルな状態に戻った。それ以上傾くようなら押し返さなくてはならない。オレはまっすぐになったキャップ男の右肩に自分の左肩をそっと当てた。
ブルジョワがそんなオレを見て、舌打ちをした。そして奴は腕組みをして目を閉じた。
オレも目を閉じる。
暗黒の中、三分…六分…九分が経過していく……。
左サイドからの動きはない。
だが今、奴は迷っている…微かに荒くなった奴の息遣いを間近で感じるからだ…いつ終わるとも知れない闇の中で感じる、この荒ぶる気配。奴はこの後すぐに動くだろう。
オレがそう思ったそのときだった――奴の気配が消えた!
どこだ…どこにいる…感じろ…………
「おい……目を開けろ」
これは奴の声か。え?こんな近くで!?
「おい」
…いったいどういうことだ。
オレは目を開けた。
目の前ではブルジョワが二本の吊り革に両手でぶら下がり、体を宙に浮かせてオレを見下ろしていた。
何っ、吊り革を使ってこっちまで来たのか。不覚!
どうりで左から気配が消えたわけだ。
オレは心の動揺を気取られまいと、静かにゆっくりと応じた。
「…何の用だ」
ブルジョワは悠々と高みの見物をしながら言った。でもいやに声が小さかった。
「このオレを本気で怒らせるとはな。貴様のような奴は初めてだ。オレが龍なら貴様は虎よ。そう、オレは今日、貴様という虎に出会った気がする。クックックッ、よかろう。オレと第一ラウンドを戦った度胸は誉めてやる。だが、これ以上オレを怒らせない方がいい」
「き、貴様。何が言いたい…いったい、何しに来たんだ」
すると、ふてぶてしい笑みを浮かべたブルジョワはなぜかいやに小さい声でこう言った。
「お前に果たし状を渡しに来たんだよ…今すぐオレに詫びを入れろ。そうすれば許してやろうという話よ」
「バカなっ。誰が貴様などに」
ブルジョワはいやに小さい声で
「いいんだな?今謝らないと後悔することになるぜ。今度はマジでいくぞ。フッフッフッ」
「かまわんっ」
「いいだろう。では、オレはこの場で貴様にデスマッチを申し込む」
オレの体に雷で撃たれたような衝撃が走り抜けた。
デスマッチ――この意味をオレはたちどころに理解した!それはどちらかがシートの上に起き上がれなくなるまで戦い続ける地獄の死闘ドミノ!それをやるというのか。こ、こいつ正気か。他の乗客の迷惑というものを考えないのか!?
オレは思わず叫んだ。
「な、なんだとう!!!」
するとブルジョワは狼狽し始めた。
「う、うわっ。バカ!でかい声出すな、他の奴が目を覚ますじゃんか!」
するとオレの隣りのキャップ青年が眉間にしわを寄せながら「う、う~ん…」とうなった。
「ひいっ!」――ブルジョワは両足を前に折った状態でストライプのスーツの裾をひらめかせながら、トリッキーな動きで吊り革をつたって自分の席へ戻って行った。
キャップ青年の様子がヤバイので、とりあえずオレは寝たふりをする。
しばらくして、脇からすーすーとキャップ男の寝息が聞こえてきた。
オレは目を開けてキャップ男がまた深い眠りに落ちたのを確認すると、体を前にかがめて左奥のブルジョワの様子をうかがった。
ブルジョワは腕組みをして下を向き、タヌキ寝入りをしていた。戦いは膠着状態に陥り、長期戦の様相を呈してきた。