第一章 龍との出会い
【主要登場人物】
平一:主人公。一人称はオレ。腕利きの平の元私立探偵。辞めて無職に。
ブルジョワ:氷のような鋭い眼光を持つ銀縁眼鏡の男。オレの宿敵
私立探偵ってやつは酷こくな稼業かぎょうだ。オレは自分の席で茶をすすりながら思った。そして、この茶はコクがあってうまい。ズズズ…。
ここは社員たちが机をつなげて向かい合って座っている古びたオフィス。社員たちはパソコンを見たり、書類の整理に追われていた……薄汚れた壁に、鳴り響くケータイの音に、電話に出て早口に何か言っている係長……。
都内の探偵会社の一室は雑然と一日の朝を迎えていた。よくある仕事場の風景と言えばそうである。
オレはそのモノトーンに映る景色を眺め回していた。そろそろこの風景も見納めだからだ。紺こんのスーツに、無造作ヘアをワックスできめたオレの両眼は、オフィスの奥にいる社長をとらえた。社長は今、昨日の社員の報告書に目を通している。
オレは立ち上がり、奥のデスクに向かった。三十前半の人生をこれからもここで送る気はさらさらないということだ。オレは社長の前まで来ると、内ポケに入っている「辞表」と書かれたしわくちゃの茶色い封筒を取り出し、机上にたたきつけて置いた。
社長がオレを見上げる。平社員のオレはかたい表情を崩さず、社長の目を見据えた。
オレは黒いカバンを左手に持って、朝の陽光の中へ出た。あそこはセコい職場だった。あの社長の性格が反映されている。きっぱり辞めたので、さっぱりだ。
しばらくして女房と五歳になる息子の姿が脳裏のうりに浮かんだ。問題は家に帰って何て言い訳するか、だ。サラリーマンは辞めた後がつらい。
オレは「ハァ~」とため息をつくと、近くの本屋に入店した。今日発売のビジネス雑誌「癒しのサファイヤ経済」を買うためだ。それでも読んで心を落ち着けたい。
オレが雑誌コーナーに行くと、下の棚にちょうど一冊だけ残っていた。
オレはそれを取ろうと手を伸ばす。手が雑誌に触れかけた――そのときだった。
オレの後ろからカッ、カッと速足で店のタイルを蹴る音が。
振り返ると、俺の眼前にウェーブのかかった黒髪があった。スパイシーな香りが鼻先をかすめる。
俺と同じ年ぐらいの、白地に銀の縦ストライプのスーツを着た男だ。
冷たい銀縁眼鏡をかけており、氷のような鋭い目をしていた。右手には金のロゴ・マークの入った黒いカバンを持ち、いかにも金を持っていそうだった。
そいつがオレの前に入って言う――「ああ。ここにあったか」
そしてオレが取ろうとしていた雑誌を0.0三秒早く取り去った。
間違いない、このずうずうしさ。こいつは「ブルジョワジー」の出だ。オレは闇の権力者の手先となる社会活動家も嫌いだが、ブルジョワも好かない。昔、相棒の桑田が体を張って、ホシから守ろうとしたのがブルジョワだった。桑田はホシにナイフで刺され、その傷がもとで死んだ。
オレは言った。
「あの、すいません…私が今、この雑誌を取ろうとしたんですが…」
ストライプは振り返った。
「何を言ってる。早い者勝ちだろう」
ムっとした表情の奥の目は冷たく、そして鋭かった。
オレは「ブルジョワ」の前に一歩足を踏み出して言った。
「待ってください。それなら「すいません」とか言うのが普通でしょう?困りますよ、割り込んで取るのは~」
ブルジョワは吠えた。
「これは割り込みじゃない!正当な理由があるだろうが」
「え…それは何です?」
「さっき言ったはずだ。「早い者勝ち」という理由じゃないか」
ブルジョワはにやりと右の口元を引き上げた。頬の肉が吊って、透き通るような奴の白い素肌にしわが寄る。
ブルジョワはひるむオレを尻目に、強引にレジに行こうとする。
オレは即座にブルジョワの右肩をおさえた。
「やめろよぉ~、もう、ずるいぞ~。強奪は~!」
ブルジョワは言い放つ。
「だから強奪じゃない!」
その言葉はオレの心に深く刺さり、底で響いて共鳴し、そして疑問を掘り起こした。
――強奪じゃない…強奪じゃない…強奪じゃない…強奪じゃない……――
果たして本当にそうだろうか。資本主義はブルジョワの社会である。今まで人をかき分け、割り込んで勝利したブルジョワの腐臭にまみれた邪悪な手口で幾多いくたの犯罪がこの街で行われてきたのだろう――俺は知っている、犯罪の背後に見え隠れする奴らはいつもこう言うのだ。「知らない」と。「強奪じゃない」と。オレはどちらかというと法の側の人間だ。
こいつが強奪してないわけがないだろう。いや、むしろ確信犯だ。
こんなギラギラした成金ストライプを着こんだ奴が、秋の終わりの昼間っから書店の雑誌コーナーを出てどこかへ行こうというのだ。しかもこいつはネクタイをしていない。その姿はまさに仕事の奴隷と化した、この腐敗社会の行きつく先だ。