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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

クズ小説家志望は畜生豚の夢を見るか?

作者: 勇者

 

 まだ本格的な寒さの残る二月の初頭、土曜日の夜。

 ここは江戸川太一が住む築五十年のボロアパートの一室。部屋には最低限生活に必要な家具以外は置かれていない。掛けてある服も種類に乏しく、全体的に質素という印象が浮かぶ部屋であった。

 強いて特異な点を挙げるとするならば、それは部屋に置かれた本の数であろう。

 小さな部屋の隅に置かれたスタンド型の細長い本棚には本がびっしり詰まっており、その棚の周辺には、大小様々な本が収納されたプラスチックのケースが何個も重なり、積み上げられていた。


 太一は小説家を志望する青年であった。


 定職にも付かず、小説の執筆時間を作るため、生活費程度をアルバイトで稼ぎながら生活している。このようなボロアパートで生活しているのも、生活費を抑え、バイトの時間をなるべく減らすためであった。


 不意に玄関の方からチャイムの音がした。


 太一が玄関の方へ向かい、ドアを開けると、少しふくよかな見た目をした優しそうな瞳を湛えた女が立っていた。髪は美しい黒のロングで、会社やバイト先にいたら、一部の男性に密かな人気を得そうな程度の美人であった。そして、女は太一の知り合い……もとい、太一の恋人であった。


「こんばんは太一さん。言われた通り豚肉と白菜を買ってきたわ。寒いから早く入れてちょうだい」


「ああ、ありがとう」


 太一は女を笑顔で迎え、中へと入れた。


 ―――


 女の名前は木村瀬奈。歳は太一と同じ二十五歳である。彼女は太一の幼馴染であった。

 物心つく頃には二人は一緒だった。太一は瀬奈に魅かれていたし、太一自身、瀬奈が自分のことを気にしているのではないかと思う節はいくつかあった。


「大人になったら結婚しよう!」


「うん!」


 何も知らない太一が告白まがいの事をすると、瀬奈は嬉しそうに笑っていた。

 高校に入学してからは一度恋人同士にもなっていた。大学が別々になるということもあって、卒業と同時に別れた。涙の別れだったことを記憶している。だが、瀬奈との関係はそれで終わらなかった。


 瀬奈が太一のバイト先に現れたのは三ヶ月前の話だ。


「え……え? どうして君が?」


「……うん、実はね」


 話を聞くと、何でも新卒で入社した会社が時代錯誤も甚だしいほどのブラック企業で辞めてしまったらしい。


 今は次の仕事に就くための準備期間で、転職の準備と取得するべき資格の検討をしつつ、空いた時間にバイトをすることにしたのだとか。それで太一と同じ職場に来たというものだから、とんだ運命もあったものだ。


 瀬奈とバイト先で再会した後、太一は彼女に対し、どう接するべきか迷っていた。だが、彼女に強引に距離を詰められ、今や交際どころか通い妻のようなことまでさせてしまっている。太一は申し訳なく思い、一度は断ったものの、毎日ボロアパートに通う瀬奈に流されてしまっている。


 瀬奈は慣れた仕草で台所へと向かった。


 慣れた仕草で調理器具を取り出すと、慣れた仕草で調理を開始する。


「何か手伝えることある?」


 罪悪感のようなものを抱き太一が尋ねるも、瀬奈は笑みを浮かべながら答えた。


「結構よ。太一さんのお荷物にはなりたくないもの。原稿の邪魔もしたくないし」


「お荷物だなんて、そんなこと言うなよ。俺は君のことをそんな風に思ったことは一度もないよ」


 すると、瀬奈は瞳の奥に闇のようなものを浮かべながら答える。


「ありがとう、嬉しいわ。とにかく、太一さんは気にせず小説を書いて。新人賞の締め切りも近いんでしょう? 確か『すばる文学賞』だったかしら? ああ、それとも少し休憩したいのかしら。太一さんがいつも使ってる銘柄の煙草も買ってきたのよ。ベランダで一服してきたらどう?」


「……あ、ああ、じゃあそうさせてもらうよ」


 太一はそう言い、手渡された煙草の箱を持ち、ベランダへと向かった。


 太一は冬のツンとくるような空気を吸い込んだ。やがて箱から煙草を取り出すと、それを飲みながら、今も台所で鍋を作っている瀬奈のことを想った。


 煙草の煙が夜の空に溶けていく。


「……」


 思えば新人賞のことも煙草の銘柄のことも太一から話題にしたことはない。いや、新人賞については、小説家を目指していることや、大変だ、ということはそれとなく伝えているが、その程度だ。詳しく話した覚えはない。


「愛されている、ということなんだよな」


 瀬奈のあの態度は、太一にとってそれほど居心地の悪いものではなかった。大学時代に付き合った女はもっとサッパリしていて、どうにも張り合いがなかったのだ。それは、高校の頃の瀬奈の距離感になれてしまっていたこともあったのだろう。高校生の瀬奈も、今とあまり変わっていなかった。いや、思えばもっと昔から……下手したら太一が恋愛感情というものを知る以前から、瀬奈はああだったかもしれない。


「けど、瀬奈はやっぱり「良い人」だ」


 先程の瀬奈の瞳を思い出し、けれどそこに安心感を抱いてしまっている。


「俺も、変わった人種なのだろうな」


 太一は吐き捨てるようにそう零し、星が点々とする夜空を見上げた。


 小説家志望の自分がこんな変わった人間でいいものだろうか。読者に寄り添う小説など書けるものだろうか。そんなことをひとしきり考えた後、太一は煙草を灰皿に押し付け、部屋に戻り鍋の匂いを嗅ぎながら小説の執筆を再開した。


 ―――


 結局、調理中に太一が手伝うことは許されず、太一は鍋が出来上がってからノートパソコンを机上から撤退させた。


「いただきます」


「いただきます」


 太一と瀬奈は二人して鍋を囲み、それぞれの分をよそってから一様に手を合わせた。


 鍋は水炊きであった。太一はよそったそれにポン酢を垂らすと、白菜と豚肉を箸で掴み、口の中に放った。


 豚肉の旨味と白菜の甘味が昆布だしとともに広がり、ポン酢の酸味も効いて美味であった。急いで茶碗を取り、白米を口に運ぶ。美味い。温かさと幸せが全身にしみ出したかのような気分であった。


「もう、太一さんったら、本当に美味しそうに食べるのね。作った甲斐があるわ」


 瀬奈は小さな子供を見守るような目で太一を見つめた。二人を包む空間の温かさは、まるで豚肉と白菜が運んだ幸福のようであった。


 ―――


 しばらくとりとめのない話をしながら、温かな食事は進んだ。


 やがて鍋の中身も少なくなり、締めのうどんでも入れて煮込もうかというときになってから、瀬奈は真面目な表情を浮かべ、とある話を切り出した。


「……ねえ太一さん、やっぱり『家畜動物の生命を守る会』への入会は嫌かしら」


 その組織の名前を聞いた途端、太一の表情は険しくなり、温かな空気が一変する。


「いや、嫌っていうか……何というか……」


「強要したいわけじゃないのよ? ただ、もう一度だけ聞いておこうと思って。会長の進藤さんはとても良い人よ。一回くらい会ってみても良いんじゃないかしら」


「……」


 太一はこの話をするときの瀬奈のことが、あまり好きではなかった。普段の異常なほどの愛情表現を見せる瀬奈に対しては何も思わない太一であったが、この組織の話をするときの瀬奈は、どこか狂気的な目をしているような気がしてならなかったのだ。


 家畜動物の生命を守る会とは、文字通り家畜動物全般の生命を守るために活動する団体のことである。


 二〇三五年から、家畜動物が殺傷される行為は、劇的に減少した。それは二〇三〇年に開発された、再生医療を応用した新たな畜産方法が実用化され始めたからだ。


 新たな畜産方法であるそれは、理論上、畜産における家畜動物の死亡をゼロにするものであった。動物たちは、全身を収容させられるぐらいの大きさの瓶に詰められ、特殊な溶液に漬けられる。特殊な溶液の中では息をすることも出来、栄養をつけることもできる。溶液の中では微弱な電流が流れており、家畜の脳に作用すると幸福な夢を見せ続けるのだという。草原を駆ける夢などを見せることで、より良質な肉を提供させるためだ。


 時間が経ち、家畜の体に肉が付き次第、職員が部位ごとに『収穫』し、また時が経てば体は再生する。寿命という限界を除けば、半永久的に家畜動物の生命を奪うことなく出荷することが可能になったというわけだ。


 豚を例に挙げれば、この畜産方法で家畜に使われる豚の数は、それ以前の方法の十分の一となり、その十分の一の豚も直接的に殺されることはない。特殊溶液を満たす瓶には完璧なまでの消毒がなされており、ウイルスや病気で死ぬこともない。


 ただ、当然この再生畜産方法に納得しない畜産家もいる。新たな畜産方法が確立され二十年。数は減ったものの、未だに前時代的な畜産を続けている畜産家もおり、畜産における家畜動物の屠殺量は未だゼロにはなっていないのである。


 そんな畜産家たちの活動を止めるための組織が、『家畜動物の生命を守る会』というわけだ。


「けどさ……そもそも今の畜産方法には一昔前からしたら考えられない倫理上の問題があるだろう? 過去の倫理観を引きずってしまうのは仕方がないことじゃないか?」


「仕方がないって理由で殺されちゃったら動物たちがあまりにも可哀そうだわ。それに価値観なんて時代とともに変わっていくものでしょう? 戦争があった時代と平和な時代、屠殺が常識の時代とそうではない時代……同じ価値観で生きていく方が間違っているのよ」


 確かに瀬奈の言うことは正しくはあった。しかし太一には、どこか新興宗教に勧誘するときに使われる言い訳のように感じられた。


「ねえ、どうか会に入ってよ。会費なら私が出すから……」


「いや、会費のこともあるけど……ごめん。やっぱり小説を書く時間が失われるのは嫌なんだ。諦めてくれ」


 太一は入会を断る理由に小説を使ってしまったことに罪悪感を感じつつ、それでも頷くよりかは幾分かマシかと開き直った。瀬奈のあの表情を見るのは、太一にとって辛いことだったのだ。これ以上見たくないとすら思っていた。


 太一の返答に瀬奈は少し寂しそうな表情を見せたが、


「そう……それなら仕方ないわね。いいわ、太一さんの邪魔だけはしたくないし」


 そう言うと、瀬奈はうどんと追加の具材を鍋の中に入れ、温めるために台所へと持っていった。


 ―――


 締めのうどんを食べた後、瀬奈が皿洗いをしている間、太一は小説を書くフリをして瀬奈のスマホの中を覗いた。うどんを食べている際も重々しい雰囲気が流れていたので、何か別の話題を探そうとしていたのである。それなら自分のスマホで確認すればいいはずなのだが、太一のスマホは最低限連絡を取るため以上の契約はしていなかったのだ。


 一瞬ラインの通知が気になったが、無視した。例の組織の人物とのやり取りなど、見たくもないと思ったからだ。太一はウェブブラウザのアプリをタップし、ブラウザに表示される最新のネットニュースの見出しにさらさらと目を通していく。


「……お」


 目ぼしい記事を見つけた太一は、記事の詳細も読んでみることにした。書かれていたのは二ヶ月後に訪れる神秘、『終わらない流星群』についてのことであった。



『ついに二か月後! 『終わらない流星群』について……終わらない流星群とは、一昼夜通して流星群を観測できるという、まさに神秘の現象である――』



「もう、あと二カ月か……」


「そうね、一緒に見に行く約束をしたやつよね、それ」


「うおっ!」


 太一は驚いて振り返った。そこには腰に手を当てた瀬奈が頬を膨らませて立っていた。


「もう、スマホを借りるなら借りるで言ってくれたらいいのに。太一さんったら、どうしてまたこっそり盗むような真似をするのかしら」


「ご、ごめん、つい……というか、もう皿洗ったの?」


「記事に相当夢中だったみたいね。とっくの昔に終わってました」


「そ、そっか……」


「それにしても楽しみね。私、太一さんの好きなおかずを詰めて弁当を持っていくわ。私の大好きな温かいスープもマグボトルに入れていくわ。あぁ、夜の空を眺めながら好きな人と好きなものを食べることができるなんて、素敵だわ」


「ありがとう。弁当を作るなら俺も手伝おうかな」


「えっ、そんな悪いわよ……私、太一さんに迷惑は掛けたくないわ」


「迷惑なんかじゃないって。その頃にはとうに締め切りも過ぎてるし、俺がしたいからするだけだよ。それとも、俺の方こそ迷惑かな?」


「いいえ、そんなことないわ。ありがとう。なら当日は昼には集まりましょうか」


「そうだね、それがいい」


 太一はそう返答し、もう一度謝ってからスマホを返した。


 さて、時計を見るとすでに午後十一時。太一は瀬奈がスマホをバッグに入れるのを見て、立ち上がった。


「もう遅いし、送るよ。あらかじめ言っておくが、迷惑だなんて思わないからな」


 太一が古ぼけたアウターに腕を通しながらこう言うと、瀬奈は困ったような表情をみせた。


「あの……その……太一さん、シャワーは貸して貰えるかしら」


「シャワー? 貸す分には良いけど、外はまだ寒いよ? 湯冷めしない?」


「……いえ、違うの太一さん。私、帰りたくないの」


「…………え? あ、あぁぁ……」


 太一は最初どういう意味か分からなかったが、瀬奈の赤らんだ表情を見て、彼女の発言の真意を察した。察した上で、「またか」と頭を抱えた。


 予め説明しておくが、江戸川太一は童貞ではない。大学の頃に付き合った別の女性と枕を交わした経験ならある。だが、瀬奈に対してはそういった行為には至っていない。


 それには単純な理由があった。


「……ごめん。前も言ったけど、俺はまだ、君とそういうことをすることに責任を持てない」


 なぜなら江戸川太一には金がない。社会的立場がない。それらを勝ち取ることに欲望がないかと問われれば嘘になるが、その方法については拘りを持ってしまっている。


 大学生の頃の恋人とならば良かった。無論、付き合う前から「遊びで付き合おう」などとはどちらも言い出さないが、それでもこの関係は学生のうちに終わるものだと、どこかお互いに感じていたからだ。彼女の方もサッパリした性格だったから後腐れもなかった。しかし、瀬奈に対してはどこか違うと思うのだ。


「俺はさ、現実的なことや嫌なことからは全部目を背けて生きてきたんだ。小説は書き続けてきたけど、それにしたって上手く行くかなんて分からない。だから済まない。まだ君のことは抱けない」


 このように太一が言い終えると、瀬奈は呆れたようにため息を吐いた。


「そう……それなら仕方ないわね」


 瀬奈はそう告げると、バッグを持った。太一は諦めたかと思い、心の中で息を吐いた。

 しかし瀬奈はすぐには帰ろうとしなかった。


「じゃあ、ちょっとの間だけ目を瞑ってくれる?」


 太一は黙って頷いた。これ以上瀬奈の願いを断るのにも気が引け、キスぐらいならいいかと諦めたからだ。


 目を閉じると、手を握られた。肩に力が入る。胸の鼓動が高鳴る。だが、いつまで経っても唇に彼女のそれが触れることはなかった。


 代わりに、俺はバッグの紐で腕を縛られていた。


「え、な、なに? どういうこと? 瀬奈」


「そのままの意味よ。あなたの腕を縛ったの。あなたが逃げられないようにね」


「…………」


「いやね、太一さん。そんな怖い顔しないでよ。何回迫っても太一さんが断るから……私考えたの。あなたが責任がどうとか言うのなら、私が襲ってしまえばいいんじゃないかって」


 瀬奈が太一に迫る。太一は思わず体勢を崩し、畳に尻もちをついた。

 瀬奈は太一に顔を近づける。吐息もかかる距離で彼女は続ける。


「それに今は多様性の時代よ。太一さんはどこか前時代的な価値観に囚われているようだけれど、今の時代、専業主夫だってそう少なくはないわ。お金なら私が稼ぐ。責任なら私が取るわ。それでいいでしょう?」


 太一の頬を両手でつつみ、瀬奈は口づけをした。深い深い口づけをした。

 太一はもう抵抗しなかった。

 なぜなら、この状況でなお、太一はこの上なく感じていたからである。


 元来、太一は現実の難しいことを考えるのが苦手だった。小説を書く行為も、もしかしたらそんな現実から逃げたいという欲求の現れだったのかもしれない。


 紐できつく手を縛られたと言っても、成人男性と女の体だ。振り払おうと思えば振り払えた。しかし、太一はそれをしなかった。する気も起きなかった。彼女に言い訳を封じられ、断る口実がなくなった今、太一は考えることをやめていた。


 ―――


 ぐったりとして眠ってしまった瀬奈に毛布を掛けた太一はベランダに出た。彼女が買ってきてくれた煙草を取り出し、ライターで火を点ける。


 夜の空に煙が溶けていく。

 太一は心が洗われるような快感に身を揺らし、瀬奈のことを想った。

 結局、二回目以降は紐を取ってもらい、普通に性交を楽しんだ。

 彼女の体は温かかった。甘い香水の匂いも最高だった。髪の毛は艶やかで軟らかく、甘い匂いがした。ポン酢味のキスでさえも、至上の甘美なものに感じられた。


 彼女と結婚しよう、太一はそう思った。


 最低なヒモ男になるのは目に見えているが、なに、多様性の時代だ。子供を産んだりなんかはできないかもしれないが、家事は俺がやればいい。それに小説で一発当てればいい。これからもっと真剣に小説を書いて、売れっ子作家になればいい。そうなれば何も問題はない。


(そうだ。二か月後のピクニック……『終わらない流星群』の日にでも告白しよう。この先俺が死ぬまで見られないかもしれない神秘の日だ。星が流れる夜に告白。なんとロマンチックなことだろう。指輪なんかは用意できないが、彼女なら必ず了承してくれるはずだ)


 太一は煙草とともに、幸せを噛みしめていた。この上ない幸せだ。およそ生れて初めて感じるほどの、至上の幸福感であった。


 太一は蒲団に戻ると、瀬奈の頭を撫で、隣で深い眠りについた。


 深い、深い、眠りについた。





 ◇


 ピッという音と共に、鉄製のドアが自動的に開いた。


 ここは薬品の匂いが密集した、特殊瓶と機械による最新テクノロジーが結集された『収穫場』。ヒト二〇六六六号というラベルが張り付けてある瓶の中身の状態を記録していた男は、水晶玉ほどの大きさの瞳を見開き、振り返る。


 ドアの前には巨漢で、彼らの中でも化け物と恐れられる上司がいた。上司とその男はヒトの世界で言うところのタコと呼ばれる生物に近い見た目をしていた。上司は全身の銀に反射した光を『収穫場』に撒き散らしながら近づく。男は緊張し、半笑いで上司の下へ駆けた。


「せ、先輩……どうしたんスか? 今日は俺の担当だった気がするんスけど」


「いやね、ここの中の一匹とちょっと面識があってね。時々こうやって見に来ることにしているんだよ。ああ、君は今月配属されたんだっけ?」


「そうっス。にしても変わった趣味っスね……。ああ、最終メディカルチェックのときに話したんスかね? 何番の『豚』ですか?」


「何番だったかな~、確か最後の方に六が三つ並んでいたような」


「う~わ不吉~。あ、あれっスかね」


「ああ、あれだあれだ。君、噂には聞いてたけど相当優秀みたいだね。ちなみに今日はどこの部位を『収穫』した?」


「え~と、バラ肉とムネ肉、タンにモモ肉っスね。まだ再生終わってないからちょっとグロいっスよ」


「ここの職員でグロに耐性ない奴はいないだろう。そら、行くよ」


 銀肌の男二人は腰から伸びる八つの触手を蠢かせ、空気に触れた瞬間蒸発する粘液の触手跡を残しながら、件の家畜が眠る装置の前まで移動した。


 男は瓶の前に来ると、一度目を細め、大きなため息を吐いた。


「なーんだ、中年のおっさんじゃねぇッスか。つまんね~」


「君、メスだったら『豚』にも興奮するのかい? それは異常性癖だよ。上に報告しておこうかな」


「じょ、冗談ッスよ……。んじゃあ、一応この『豚』について聞かせて貰えます?」


「ふむ、まあいいよ」


 上司の触手男は八つの目を伏せ、四つの耳を垂らした。

 黄土色の息を吐くと、彼は感慨深げに話しだした。


「この『豚』に会ったときのことは今でも鮮明に思いだせるよ。死にそうな……いや、死にたげな目をしていた。嫌に印象的だったから奴の経歴を直接聞いたのさ。いや~ひどかったよ。奴はここに来たときにはもう限界だった。仲睦まじかった妻は過労で精神病となり、首を絞め合う喧嘩の末に離婚。一番小さな賞を取り念願だった小説家にデビューするも、売れることはなく業界を去った。奴は現実というものを直視することができなくなっていた。いや、元々苦手だったと言っていたかな。……とにかく、奴はまともに仕事をすることもなく借金の山を築き上げた。そして、『最低人類枠』に登録されてしまったのだ。奴が現実を生きることはあまりにも辛いことだ。奴は知能ある生命体として生きることから逃げたがっていた。奴は今、最も幸せだった頃の記憶を夢に見ているだろう。そしてこれからも、この装置から出ない限り、その夢を見続けることができる。つまり奴は、紛うことなき幸福な豚だというわけだ」


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