7つも顔を持てたなら
「……そこまで。解答をやめて筆記用具から手を離して」
その声を聞き、俺は張り詰めていたものが緩み、体から力が抜けていくのを感じた。しかしこれから答案用紙を集めるのに、タコのようにふにゃふにゃしていたら大迷惑だ。どうにか椅子に座りなおし、後ろから回ってきた解答用紙を流す。
「……はい、確認が終わったので、これで試験は終了です」
その試験監督の言葉に、歓声をあげるクラスメイトたち。今日は学年末考査最終日で、俺も含めたクラスメイトは最後の科目だった化学の試験を終わらせたのである。
この数週間、俺はもう頑張った。死ぬ気で頑張った。正直毎試験ごとにクライマックスだったので、自信のほどはなんて聞かれたって答えられる訳がない。
「いやホントお疲れ様だね欽二、君を侮っていた訳じゃないんだが、遂に走り抜けたね」
「掛け値無しにスゲェぞ、よくやりきったな! これで後は結果を待つだけだ」
智と悠人が俺の肩を片方ずつ叩きながら声をかけてくる。思えばこの2人にも相当手伝ってもらった。俺は2人の方を向きながら心からの感謝を伝える。
「本当にありがとう、お前らがいてくれて助かったし、心強かったわ。学校で勉強に集中できたのはお前らのおかげだ。智に至ってはほぼ予想ドンピシャだったし」
「智……俺はお前に予知能力があっただなんて知らなかったぞ!」
「ハハハ、流石に的中率高すぎだよねぇ、自分でもビックリだよ」
途中で何が驚いたって、智の数学の試験の予想問題が結構な的中率を誇っていたことだ。当然細かい数字までは一致していないが、おかげで時間的余裕が持てたのは大きかった。
「さて、試験も終わったことだし、とりあえず飯食いにいくかぁ!」
「どこに行く?」
「僕はやっぱりあそこのラーメンが食べたいね。量があるのに胃もたれしないのは奇跡だと思うよ」
「よし、じゃあ行くか! 急がねぇと並んじまうぞ」
3人で学校の近くにあるラーメン屋に向かう。決して楽観視はできないが、全力を出し切ったのだから最早これ以上は良い意味で何もできない。少なくとも学年末考査に関しては。
……当然、ここで1位になれてもそうでなくても、2年生になって成績が落ちたらいい笑い者なので、そこはまた頑張ることになるだろう。というより1位じゃなかったら2年生最初の中間試験でリベンジだ。絵梨華も俺も理系選択だから、高校の間は成績で競うことができ……
「あっ」
「どうした欽二、忘れ物か?」
「いや、ちょっと嫌なことを想定した。もしかして、文理分かれたら俺絵梨華と同じクラスになるんじゃね?」
そう俺がかなり可能性の高い予想を話すと、2人は顔を見合わせ、そして俺の方に向き直り、神妙な顔つきで声を揃えてこう言った。
「「……頑張れ!」」
「いやそれだけかよ!」
「だって、その理屈だと俺文系だからクラス別だぜ?」
「勿論欽二に対する危害を防ぐのには協力するけど、個人間の色恋沙汰に首をつっこむのは限界があるしねぇ……竹中に言ったように、僕も部外者だしね」
「そりゃそうか……まあ俺が最後はなんとかするしかないんだものなぁ……」
しかし来年度のクラスはどれほど気まずい雰囲気が流れるだろうか。せめて文理混合クラスで絵梨華がいないことを望もう……
「文理混合クラスがいいなとか考えてると思うけど、文理混合クラスって基本物化選択者は入れられないから難しいと思うよ」
「チクショウ、救いはないのか……」
「まあ僕も物化選択だし、できる限りのことは手伝ってあげるさ」
「嫌なことがあったら部活で声を出せよ」
「すまん、2人ともありがとう」
2人の精一杯の言葉に、気を取り直してラーメン屋に行こうと早足で2人を先導する。ともあれ、学年末で絵梨華の自信を粉微塵にできることを、俺は願ってやまなかった。
俺たちが向かったラーメン屋は、学校の近くにある商店街の裏路地に存在する。余り人目につかないところにあるが、特に体育会系の先輩方がこぞって押しかける店である。
理由はそこのラーメンの量が普通の店より大分大盛りだからなのだが、智みたいなそこまで大食いでない人間にも好まれているのは、そこの塩ラーメンは量の割に胃もたれしにくいからである。何が違うのかは素人にはよく分からないが。一応量も言えば多少調整してくれるし、誰かを付き合わせるにもそう気を使わなくていい。
試験の出来の話をすると怖くてしょうがないので、努めて違う話をしながらラーメン屋にたどり着く。こぢんまりとしていて目立つような店ではないが、試験終わりのこんな時期には普通にうちの学校の生徒で行列ができる。
そこそこ急いできたからか、まだ行列まではいっていなかった。ガラガラと横開きのドアを開けると、スープの塩気のする香りが鼻腔をくすぐる。店の中にはテーブル席がいくつかとカウンターがあり、テーブル席は既に埋まっている。厨房の奥では白い厨房服を着た若い男性、この店の店主が麺を茹でていて、俺たちに景気良く声をかけてくる。
テーブル席が埋まっているので、カウンターに腰掛ける俺たち。
「何にしやしょうか!」
「俺は味噌大盛りでお願いしやす!」
「僕は塩味の普通で」
「じゃあ俺は醤油でお願いします」
「かしこまりやしたぁ!」
……ちなみに、ここのラーメンの量は普通より多いとさっき言ったと思う。つまりそれを大盛りで頼んだ悠人の前には、いずれぶっ飛んだ量のラーメンが置かれることが確定している。悠人はとことんこういうジャンキーなものが好きなのだ。
「部活の後でもないのに、よくそんなに食えるよな」
「俺の10bpsでフル回転する頭が、カロリーを必要としてるんだよ」
「おっそ! アッハハハ! せめてKbpsにしようよ悠人ぉ!」
「智、bpsってなんだ?」
「bpsは通信速度単位さ。でもbpsが基本単位だけど、今のパソコンは大体10Mbps以上になってるんだよ。つまりbpsに直すと1,000万bpsだね!」
「おっそ! お前そこまで頭の回転鈍くないだろ!」
アレ? というトボけた顔をする悠人に2人でツッコミを入れる。バカでもなければ頭の回転だって早い方なのだが、ちょいちょいマジかボケか分からないことを平気でのたまうから面白い。
「へいお待ち! 醤油に塩に味噌大盛りね!」
そんなくだらない話をしていると、あっという間にラーメンが出て来る。スープの濃い香りが鼻にダイレクトアタックで、唾液の分泌が促進されるのを感じる。
「よし、じゃあいただくか!」
「ええ、いただきます」
「いただきますっと」
手を合わせて麺をすする。さっぱりしたスープとコシのある麺が上手く絡み合い、非常に食べやすい。チラと横を見ると、悠人が猛然とあふれんばかりの山盛りのラーメンを食べている。流石にあそこまでの量は厳しいが、まあ食べられるなら一度くらい食べて見たいものだ。
「そういえば欽二、君はもし金子を見返すことができたとして、その後はどうするんだい?」
「ズズ……どうするって何が?」
「欽二が成績で金子を上回れば見返せると思っているということは、恐らく自分で成績の悪化がフラれた原因の1つだと思っているんだろう? だから自分をフったことを後悔させ、彼女の自尊心にヒビを入れ、相手が流す素行不良の噂の払拭をしようとしている」
「まあそれは間違いないな」
ただ悠人や智や母親を半ば侮辱されたと感じたこと、そして絵梨奈の存在もある訳だが。2人にはその辺の事情を話していないから当然出てはこない。
「それはいいけど、金子は君の方から別れを告げられても、君に関する噂を流すのをやめようとしていない。しかもその噂がエスカレートしているということは、君への執着が消えていないということだよ。復縁は絶対に君が承知しないとはいえ、これで見返してしまうと更に執着が強まる可能性が否めない」
確かにそれはそうだ。俺がフラれたのは、俺が絵梨華のエスカレートする我儘に対応できなくなってきたことと、成績が悪くなったことの2本立てだ。しかし絵梨華は俺の成績に煩かったものの、「俺が絵梨華より成績が良くなること」は望んでいなかった。
だからこそ絵梨華を成績で見返すという発想が浮かんだ訳だが。絵梨華の我儘放題の方を槍玉に挙げるには、絵梨華が学校で猫を被っている以上、こちらも相手へのネガキャンを行う羽目になってしまう。そうなると最早泥仕合になるだろうことは容易に想像がついたし、同じ土俵に降りるわけにはいかなかった。
だが何でも自分の思い通りに行かないと気が済まない本来の絵梨華の性格を考えると、俺が素直に復縁を望んでこないどころか拒絶した段階で腹に据えかねているはずだ。そこで俺が成績で上回った暁には、確実に怒り心頭だろう。
そもそも一方的にこちらをフった挙句、その状況打開に根も葉もない噂を流すという手段をとっている段階で、こっちの方が怒ってもいいはずなのだが。それはともかく、怒った絵梨華が俺を諦めるとは思えない。寧ろ俺を屈服させるまで執着し続けるだろう。
「恐らく金子は今回の件で女子からの支持の多くを喪失しているし、男子も噂がエスカレートするに至って結構な数が信じるのをやめている。だけど一部には噂を信じたり、あるいは利用しようとしたりする人間が残るだろうね」
「入学この方、男子の一部から相当嫉妬されてたからな俺。暴力に出なければいいんだけど、事あるごとに面倒な事態になるのは避けられんのだろうなぁ……」
「ムグムグ……俺は金子のことは余り知らなかったけど、アイツって澄ました顔して結構陰湿だったんだなってのが印象。まあ俺は欽二のことをよく知ってたから当然噂なんて信じなかったけど、ここまでぶっ飛んだ噂が流れてて金子の肩を持つのは、お前のことをよく知らないで、なおかつ金子の顔にしか興味がない奴だけだと思うわ」
悠人の言葉に嬉しくなるも、逆にそういうある意味洗練された奴らしか残らないとなると、俺に対する攻撃が過激になるかもしれない。
「僕はもう向こう側の自爆を待つ方が良いと思っているけどね。下手に動くと揚げ足を取られる。誰かが一線を越えたらそれをネタにして被害者として堂々と名乗りを上げればいい……ズズッ」
「ズズズズ……だけどよ、それだとエスカレートした時、取り返しがつかない事態にならねぇか?」
「ムグ……だから『何もしない』のさ。何もしないでいつも通りの欽二でいれば、女子の大多数と男子の半数以上で構成される、クラスの世論が勝手に味方についてくれて抑止力になる。向こうのネガキャンが上手いならともかく、下手くそなネガキャンに付き合ってやる道理はないよ。そしてネガキャンを流す連中は、『世論を背景にしないと目的を達成できない』から流すのさ」
だから金子は現在進行形で自爆中なんだね。そう呟きながらラーメンを素知らぬ顔で啜る智。一体どこからこういう考え方が湧いてくるのかは分からないが、やっぱりこういう頭を使う面では非常に頼りになる。
「とはいえ、これは対症療法に過ぎないから、結局は金子が欽二をいつ諦めるかにかかってくるんだけどね。あるいは金子が愛想を尽かされて完全に孤立するか、かな」
「欽二……金子ってめんどくさい女だったんだな……フラれた時は噂通りのことをやったとは思ってなかったが、そこまでの噂が流れるなんてどんだけ派手な痴話喧嘩やったんだってニヤニヤしてたわ……」
「まあ、うん……学校だとクールに振舞ってるけど、実際は結構我儘でな。それに付き合うのも楽しかったは楽しかったんだが、最近は我儘が酷くなってきて……」
「なるほど、理解したよ。君を衝動的にフったのは本心じゃなかったんだろうね。しかしそれで世論を味方につけようと中途半端なネガキャンなんてやるから、君に見限られて逆ギレしてるんだな。全く、幼稚園児みたいだね」
まあ俺が見限ったのは、それ以上の本性を知ったとかその他諸々の事情もあるのだが。しかし幼稚園児呼ばわりとは、智も中々に辛辣である。
「ズズズ……智にかかると、学年の高嶺の花も幼稚園児扱いか」
「欽二と同じく中学の頃から知ってるけど、外見も特に好みじゃないし、別に興味もなかったからね。彼女の方も僕の存在を認知してなかっただろうし」
「まあ俺と仲良くしてたから認知はしてたみたいだぞ? 興味はなさそうだったけどな」
「今の君の話を聞いていると、正直興味を持ってもらえなくてよかったと思うよ」
物言いがハッキリしていて対等な立場での交流を望む智と、自分が全てをコントロールすることを望む絵梨華はとことん相性が悪いだろう。しかしクールな猫を被った絵梨華と比較すると、意外とお似合いに見えてしまうのがとても気持ち悪い。
「もしヤバそうなら隣の教室から呼べよ? ヤバそうじゃなくても面白そうなら呼べよ」
「それお前が見たいだけだろ」
「まあ欽二の境遇には同情の余地が大いにあるが、それはそれとして女の気を引く為に必死に欽二に突っかかろうとする面々とか、見てて面白そうだからな」
悠人はもういつも通りだから気にしないことにする。多分智の話を聞いて、最悪の事態にはならんと判断したのだろう。適当に返しながらスープを飲み干す。さっぱりしていて、でも味わい深いスープの味。俺たち3人の関係性もこうあり続けたいものだと思った。
やがて3人とも食べ終わり、会計をして店を出る。
「よし、腹も膨れたし、この後どうするよ?」
「僕はカラオケにでも行きたいね」
「じゃあそうするか。この辺りでこの時間だと、1番安いのどこだっけ?」
店の前で次の行き先を相談する。適当に検索して行き先を決め、商店街の方に戻ろうとする。すると、俺たちがいる場所の商店街を挟んで反対側の裏路地に、見覚えのある金髪と、その金髪より頭1つ分以上背が高い見覚えのある体格が見えた。竹中と安藤の姿だった。
「おい、あれ竹中じゃね?」
「本当ですね、しかも女子生徒と2人ですか」
悠人と智も気づいたらしく、そちらの方を見ている。竹中と安藤は非常に親しげに会話をしている感じだった。背の小さい安藤が竹中を小突くような仕草も見られた。そのまま2人は向こうの裏路地にある店に入って行く。確かあそこはカレー屋だったと思うが。
その時見えた安藤の横顔は、俺との初対面の際の冷ややかな顔ではなく、自然で快活な笑顔に見えた。だが遠くからだったのでよくは見えなかったが、どちらかというと眉が下がり、笑顔の中に何か複雑なものを抱えているような気がした。
「へぇ……まさか竹中が女子を連れているとは、しかも金髪女子。竹中は髪を染めてるやつとか嫌いそうなんだがな。『親から貰った髪を染めるなんて言語道断!』とかアイツマジで言う感じのタイプだし」
「安藤から話を聞いたってのは本当だったんだな……」
「彼女安藤っていうのか? 前話した時彼女はいないって話だったんだがな……でもそもそもアイツ嘘がつけるタイプの人間じゃないしなぁ……」
唸る悠人にからかうのはほどほどにしろよと言いながら、俺は今の安藤の様子に思いを巡らせていた。竹中が安藤から俺の噂話を聞いたと言っていたことと、俺に対する安藤の態度から、安藤は絵梨華の肩を持ち、竹中を俺にけしかけようとしていたものだと思っていた。
しかし、俺に恨み言をぶつけていった初対面の時の冷ややかな安藤と、今さっき見かけた竹中と一緒の時の複雑な表情の安藤を、俺は同一人物だとは思えなかった。勝気で自己中心的で、人を下に見るきらいがあるといったものが、俺の抱いた安藤の最初のイメージだった。だが寧ろ笑顔を浮かべながら、脆く柔らかく、神経質そうなものを隠している様子の今のイメージとのギャップが、俺の心に引っかかっていた。
「……俺が単純なのか、他の人間が皆7つの顔を持っているのか、どっちだろうなぁ……?」
「ふむ、唐突だね。別に7つも人は顔なんて持ってないさ。多羅尾伴内がどう変装しても片岡千恵蔵の顔であるようにね。でも僕らは観客じゃなくて登場人物なのさ。観客は全部を見られるけど、僕らは自分が登場する場面しか見られない。そういうことだよ」
「そうか、そうだよなぁ……」
俺も2年以上付き合ってきたのに、絵梨華に関して知らないことが山ほどあったし、今もあるのだろう。悠人や智、竹中や安藤、そして絵梨奈についても。
この世界の登場人物の俺は、観客席に降りて舞台を見ることはできない。でも、出る場面を選ぶことはできるし、行動次第で台本はいくらでも書き換え可能だ。勿論舞台の秩序を乱せば降板という名の豚箱行きだろうが。
「まあいいや、今度あったら聞いてみるか。面白い話だといいんだけどな。竹中のやつ、モテる素質はあるけど性格が真っ直ぐすぎてなぁ……」
「ハハハ、付き合ってくださいって告白されて、何に付き合えばいいんだ? とか本当に言いそうだよね」
「いやそこまで朴念仁じゃないと、思いたいけどなぁ……」
俺は人生の台本が思うように書き換わっていることを願いつつ、3人でカラオケに向かった。寒い冬の終わりを告げるかのように、その日は南風が暖かかった。
次話で話の構成上一区切りとなります。まあテスト終わったんで、つまりそういうことです。




