雪の降る街を
「本当に、本当にごめんなさい!」
「絵梨奈さんが謝ることじゃないから本当にいいって! ほら他の人も見てるからさ、頭を上げて!」
結局絵梨華の理不尽な怒りによる絶縁宣言から始まり、俺が絵梨華の発言に激怒したことで終わった破局騒動。全力で巻き込まれた格好の絵梨奈に事の次第を説明する為、俺は直接会って話がしたいと絵梨奈にメールした。
正直絵梨奈に関しては申し訳ないの一言では収まらなかった。俺と絵梨華の出会いに間接的に関与しただけで、俺と絵梨華の間で1ヶ月にも渡って振り回されてきたのである。しかも結果が完全な破局。あの調子で謝って丸く収めるなんて絶対にしたくなかったが、しかし絵梨奈に絵梨華の発言をそのまま伝えたら、本人は何も悪くないのに絵梨奈が涙目で謝罪してくるだろうことは容易に想像がついた。
「ほら、ハンカチ……」
「ずびばせん……」
結果ご覧の通りである。ボカそうとは努力したのだが、俺がキレた経緯を伝えようとすると、ボカすのにはちょっと無理があった。結果として喫茶店の片隅で涙目どころかガチ泣きしながら謝罪する美少女と、それを何とか宥めようとする青年という構図の出来上がりである。自分で自分のことを青年というのはどうかとも思うが。
どうにか落ち着かせてハンカチを手渡す。絵梨奈は息を整えながら涙を拭い、ティッシュで鼻をかむ。その姿を見ていると、俺は絵梨奈を泣かせたい訳ではないのに、何をしているのだろうと自分が情けなくなる。
「うぅ……やっぱり姉は時任さんのことを最初から何とも思っていなかったのでしょうか……それなのに手伝ってしまうなんて……」
「いや、でもそれなら俺よりもっと勉強やスポーツができる奴に声をかければいいし、自分のことを外見や成績で判断しない、なんて言わないと思うけど……」
果たして最初からそれが嘘だったのか、それとも俺と過ごしているうちに次第に俺への恋心が冷めていったのかは分からない。でももう関係のない話だし、どちらでも絵梨奈を責めるつもりは俺には一切ない。
「ともかく……こうなってしまった以上、絵梨奈さんにはしっかり伝えておかないとと思って……」
「本当にもう、何と言えば良いか……」
絵梨奈が落ち着くまで、コーヒーを飲みながらゆっくり待つ。その間俺は果たしてこれからどうしようかと漠然と考えていた。安藤の忠告があったからという訳でもないが、あれほど無いこと無いこと噂を流し、完全に俺の謝罪待ちだった絵梨華である。このまま何も起こらずに終わるとは思えないのも事実だった。
それに絵梨奈はこの通り、俺に罪悪感を覚えたままだ。絵梨華と完全に別れて絵梨奈と連絡を取る必要は無くなったとは言え、このままなあなあで終わらせてしまうのは不義理な気がした。
「……ねぇ、絵梨奈さん。正直俺はここまで絵梨華と俺の問題に君を巻き込んでしまったことを申し訳なく思ってる。態々絵梨華の様子をメールで伝えてもらったり、色々気を遣ってもらったのに……でも絵梨奈さんは俺と絵梨華をくっつけたことと、絵梨華の物言いから俺に申し訳なく思ってるだろう?」
「巻き込んだなんて……寧ろ私が全ての原因なんです」
「俺はそう思ってないんだけどね……このままだと、俺も絵梨奈さんもどっちもモヤモヤしたままだと思う。だから、俺に勉強を教えてもらえないか?」
俺は絵梨奈に教えを乞うことにした。絵梨奈の説明は俺にとって分かりやすいし、どの道自分の成績向上は絵梨華との一件が無くとも急務であった。自分に合う先生を無理に探すなんて、これまでで1番分かりやすい説明をする教師役が目の前にいるのに無駄な労力だろう。
「それは勿論喜んでお教えしますけれど……それだけで良いのですか?」
「それだけなんてトンデモない。今俺が1番求めていることだよ」
それは絵梨華への意趣返しでもあった。勉強ができなくなったことを原因の1つとしてフラれた以上、こうなったら見返してやろうと決めたのである。「姉から妹へ家庭教師を乗り換えた」というと聞こえが悪いと前には思っていたが、此の期に及んでは「姉に見捨てられた俺が妹の手で姉を追い越した」ということにしてしまおうと思ったのだ。
そうすれば、姉の絵梨華に散々抑圧されてきていた絵梨奈を、間接的に勝たせてあげることもできる。俺の側からは正直絵梨奈に詫びとして提供できるものが何もない。だからせめてこれくらいは言わないといけない、そう思って、俺は絵梨奈の目を正面から見つめてこう口にした。
「……照準は学年末考査。目標は学年1位を目指したい。ムチャクチャなことを言っているのは分かる。だけど協力してくれないか」
「勿論です! 学年1位は分かりませんが、お手伝いさせてください!」
こうして俺にとっての絵梨奈は、破局寸前の彼女の妹から、頼れる専属教師へと変わった。絵梨奈の高校のそばの古びた喫茶店、カウンターに置かれたラジオは掠れた音声で歌を流していたが、俺と絵梨奈は結局その場で勉強の相談を始め、2人とも黙り込むことはなかった。
「いやぁ、ついこんな時間まで……」
「でも、これで何となく目処はつきました。後は学年末までの日程から逆算して、勉強を始めるだけですね」
「まだ3週間か4週間あるけど、それでも学年1位を目指すとなると足りないだろうなぁ……勿論、足掻かないと何も始まらないけど」
恐らく4時間ほどはいただろうか、随分居座ってしまったことに後ろめたさを感じながらも、会計を済ませて外に出る。すると……
「んぉ!? マジか雪だ!」
「えっ!? わぁ、本当です!」
元々天気が悪かったので雪になるかもしれないとは天気予報で言っていたものの、雪予報は今年に入って覚えている限り3回も外れていたので信用していなかった。
だが喫茶店のドアを開けた俺の鼻に当たって消えていったのは、間違いなく雨ではなく雪だった。絵梨奈もこの冬初めての雪に声が弾んでいる。チラチラと舞う雪は、地面に落ちては消えていっている。
「牡丹雪かと思いましたけど、結構ちゃんとした雪ですね……」
「こりゃひょっとすると積もるかもしれないぞ。明日月曜だし、雪で電車止まって休みになんないかなぁ……」
そう言いながら俺は傘立ての傘を探して……
「……アレ? こっちは絵梨奈さんの傘でしょ? それから……俺の傘は?」
「ありません、ね……もしやどなたか持っていかれてしまったのでは……」
「取っていってもただのビニール傘だからバレないと思われたか……」
これは困った。態々傘を持ってきて取られたんじゃどうしようもない。まあ雪だし、土砂降りの雨よりはマシだろうと諦めて歩き出そうとする。すると絵梨奈が自分の傘を俺に押し付けてこようとする。
「いやあのね、絵梨奈さん。それは良くないから」
「いえ、いくら雪とはいえ水ですから濡れてしまいます。それで風邪を引いたらどうするんですか」
「だからって自分の傘押し付けて絵梨奈さんが風邪引いたら意味ないでしょうが! あぁ、もう……」
何となく予感はしていたが、又しても押し問答の末、遂に相合傘という結論が出てしまい、俺と絵梨奈は2人で1つの傘を使って駅まで歩いていた。俺の方が背が高いので、俺が傘を持つ。
「ちゃんと時任さんも傘に入ってますか? 傘を持っていらっしゃるからって、私にだけ傘をかけたらダメですよ?」
「分かってるって」
これまで以上に絵梨奈との間が近い。というかほぼ密着である。俺は寒さ以外の理由で顔が赤くなるのを感じていた。くっついているのもあって、ゆっくりとしたペースで駅へ向かって歩いていく。俺と絵梨奈、双方の靴音が一緒に耳に響く。
白い雪は途切れる気配もなく曇天から舞い降り続けている。傘からはみ出す俺の左肩に雪が当たって溶けていく。うるさいほどだった北風は今はそよとしか吹かず、雪だけが静かに舞い落ちている。
「私、雪が好きなんです。ご存知ですか? 雪って天華とも言うんです。天上の花って意味なんですよ。こうして舞い落ちてくる雪が全部白い華だと考えると、スゴいロマンチックですよね」
「天の華か……なるほど、積もった雪の上を歩いていると今まで思っていたのは、花の絨毯を上を歩いていたのか……」
「ふふっ、確かにそうなりますね」
俺の返しにおかしそうに笑う絵梨奈。その顔は、雪という名の花が舞う中で咲く、一輪の胡蝶蘭のようであった。思わず見惚れてしまう自分の顔を無理やり動かし前を向く。
周囲には傘をさしている人もさしていない人も歩いている。でも相合傘をしているのは俺と絵梨奈だけ。そう思った時、俺と絵梨奈は周囲から恋人と見られているのではないか。そういう想像が頭の中を過ぎってしまう。
それがどうした、周りから何と思われようが事実は覆らないのだ。そう思いながらも、俺は絵梨奈のことを意識している自分に突然気づいてしまった。いや、果たしていつからだっただろう。
マフラーを巻いてもらった時? 駅で別れるのが惜しいと思った時? 初詣で転びそうになった絵梨奈を支えた時? まさか初対面のあの日から?
俺は絵梨奈に少なくとも最初から人間として好意的な感情を抱いていた。しかし、いつから女性として好意的な感情を抱いていただろうか。そこはもうゴッチャになっていて正直分からない。でも、今それを、恋人同士の俺と絵梨奈という構図を今初めて意識したのは、間違いなく絵梨華と決別したからだ。
……普通に考えれば、俺は酷く軽薄な男なのだろう。姉に一方的にフラれ、その縁で出会った妹と親交を深め、いざ姉の方と決別したら今度はその妹に恋心を抱いている。そこには明らかに絵梨華と絵梨奈の比較が混じっていることを否定することはできない。結局絵梨華を通してしか、絵梨奈を見ていないのかもしれない。
ならば、この気持ちは抑えるべきなのだろうか。俺は絵梨奈とのこの奇妙な関係性を、どうしていけば良いのだろうか。俺は空を仰ぐ。降ってくる雪の華は、素知らぬ顔をしながら地面に消えていった。
「では、学年末に向けて頑張りましょうね!」
「ああ、頑張るよ。でも絵梨奈さんも自分の学年末疎かにしないでよ?」
「ええ、自分の勉強も頑張ります。ではお気をつけて」
「そっちも滑らないようにね」
そうして去っていく絵梨奈に手を振る。それを見送る俺の心の中はざわめき、自分の気持ちに整理がつけられないでいた。
翌日、電車は線路に大量に撒かれた白い華に埋もれて動かなくなった。




