第1話 勇者と魔王が戦い、そして……
1
――魔王復活。
この凶報は瞬く間に、それこそ波紋が広がるかのごとく大陸中へと伝搬した。
とはいえ、歴史上において『魔王』という名が登場するのは、かれこれ千年以上も前のこと。
神話やおとぎ話と同じように語られて久しく。
そのため魔王が復活したなどと言われても、多くの人々はピンとこなかったことだろう。
実際、初めて聞かされたときには、「そんなものは伝説だろ」「現実と妄想の区別はつけようぜ」と鼻で笑う者は多々あれ、真剣に受け止めようとする者は少なかった。
さりとて、魔物たちの侵攻という、ある種の裏付けともいうべき事象も追加で知らされたとなれば、話は変わってくる。
大陸の西側――『魔の領域』は瘴気が溢れ、人が住めず、魔物の生息域となっている土地だった。
そこに棲む魔物たちが大群で押し寄せ、一夜にして国境付近の領地を滅ぼすと、声高に魔王復活を叫び、自らを魔王軍と呼んだというのだ。
人々は震撼した。
長い平和とともに忘れていたはずの恐怖が、今再び呼び起こされたのである。
――さて、魔王軍の勢いは国境を侵すだけにとどまらず、その後も甚だ躍進した。
軍勢は十万を超え、おそらく人間側の態勢が整う前に、一挙に決着を付けようと考えたに違いない。
事実、魔王軍の攻勢に対し、ろくな抵抗もできずに落とされた城や砦は数知れず。
人間側の防衛ラインは日ごと押しやられ、村や町が消え、そこに住む人々は必死に逃げ惑った。
もちろん、人間側もずっと手をこまねいていたわけではない。
大陸の地図が三割ほど塗り替えられた頃、国中の軍隊はようやく結集された。
さらには、アレフッド大湿原に魔王軍を誘い込むことにも成功しており、状況は大軍に対し大軍で相打つといった、一大決戦の様相を呈していた。
しかし。
この人類の命運を分けるかもしれない大一番に対し、人類の最大戦力たる『勇者』を戦線から外したのは意外である。
勇者とは魔王と対をなす存在。
今から何年も前にラ·ポーテ王立高等学校にて発見され、以来勇者はすでに表舞台に立っており、今大戦においても前線で無類の戦果を上げていた。
多くの人々が魔物の牙にかかることなく逃げおおせたのも、この勇者の働きによるものだ。
――ならば、なぜこの一大決戦の舞台に勇者がいないのか。
理由はただ一つ。
人類側が勝負をかけたのは、『場』ではなく『時』だった。
敵の戦力のほとんどが釘付けになるこの大合戦の場を、千載一遇の好機とした。
用意したのは、百人からなる精鋭中の精鋭。
これに勇者を加えた部隊でもって、手薄となった『魔の領域』へと侵入し、魔王城を急襲しようという作戦である。
かくしてこの精鋭部隊は、大聖堂にて『精霊の祝福』を受けると、直ちに『魔の領域』へと向かった。
目指すは魔王城。そして果たすべきは魔王の打倒である。
2
非情の行軍だった。
『魔の領域』に侵入した精鋭部隊であったが、瘴気にやられ、魔物にやられ、一人また一人と倒れていく。
しかし、誰も足を止めない。誰も振り返らない。
「世界に平和を……!」
「必ず魔王を倒してくれ……!」
倒れゆく者から託された思い――願い。
それは、進みゆく者が抱いているものと、いささかも変わらない。
その何事にも代えがたい純一無雑の悲願を胸に、精鋭部隊はひたすら前へと進んだ。
魔王城に侵入すると、精鋭部隊の被害模様は一層激しさを増した。
ある者は、より強力なモンスターの牙にかかり、ある者は自らをカナリア役として、より卑劣な罠にその身を投じた。
無気力を常とする勇者の師匠や、プライドが人一倍高い騎士団長でさえも、自らが囮となってモンスターたちを引きつけ、精鋭部隊が進む道を開いた。
そうして魔王がいる『玉座の間』に辿り着けたのは、たったの四人。
されど、四人である。
勇者、魔法剣士、女賢者、女呪術師。
精霊の祝福を最も強く受け、また人類の希望を託された勇者のパーティ。
この四人をこの場に送り届けるために、誰しもが自らを犠牲にすることを使命としたのだ。
「準備はいいか」
尋ねたのは勇者。
扉の前での最後の確認だ。
魔法剣士、女賢者、女呪術師の三人は黙したまま、しかし決意は固く、厳かに頷きを返す。
最後に勇者が力強く頷くと、「行くぞ!」と言って扉を開けた。
すると、そこに待っていた者――。
玉座に肩肘を突いて腰掛け、瞑想するかのごとくまぶたを閉じているのは魔王、それは間違いない。
しかし、勇者は思わず尋ねた。
「お前が魔王か……」と。
なにせ、その姿だ。
輝くような銀色の髪。額から二本の角こそ生えているものの、人間と全く変わらないその顔は、非の打ち所がないと断言できるほどに端麗。
惜しげもなく肌を晒した上半身は、彫刻のように均整の取れた肉体美で、背には純白の翼が三対生えている。
息を呑むほどの……、いやさ、神々しさすら覚えるほどの美しさだった。
それゆえに、勇者は尋ねざるを得なかったのだ。
「いかにも」
異形の美丈夫は、まぶたをゆっくりと開け、透き通るような声で言った。
無論、肯定である。
「魔王!」
もはや迷いもなく、勇者は叫んだ。
「なぜ、大陸の平和を乱す! 土地か! 食糧か! 言葉が通じるのなら、話し合うこともできたはず!」
生来の善性ゆえか。
それとも勇者という絶対の当事者ゆえに、全ての事情を知ることこそが責任と考えたのかもしれない。
だからこその、問いかけだった。
「わかるまい。小さな目線でしか物事を測れぬ人間などに、わかろうはずもない――」
先ほどとは打って変わり、感情のこもった、低く重圧のある声で魔王が応じる。
「いかに言葉が通じようとも、所詮、生物としての本質が違うのだ。貴様らは我らを『魔』と呼ぶが、我らからすれば、貴様らこそ滅ぼすべき『魔』そのものよ」
「そちらから一方的に仕掛けておいて、なにを言う!」
魔王のあまりの言いように、憤激を露わにする勇者。
すると二人の会話を遮って、今度は女賢者が尋ねた。
「あなたたち魔物には、人間を倒さなければならない『正義』が存在する、ということなのかしら?」
「生態系を大きく外れた我々が存在することの意味――いや、もういい。やることが変わらぬ以上、言葉は不要。
我は魔王であり、貴様らは勇者とその仲間たちなのだろう? ならばあとは戦うだけだ」
会話を打ち消すと、魔王がゆっくりと立ち上がり、手に喚び出した槍で地面を鳴らす。
直後、天井と壁が消え、辺りを灰色の無限世界が覆った。
ただし、これはあくまでも部屋を為す区切りを取り払ったに過ぎない。
空と水平線がいかに広がろうとも、玉座や足下の石畳、柱や扉といった『玉座の間』を構成していた大部分は、依然として残っている。
「さあ、来い! 勇者とその仲間たち! 貴様らが滅びた暁には、人間どもは皆殺しだ! 種としての存在すら許さん! 必ずや根絶やしにしてくれるぞ!」
宣言とともに、魔王がバサリと三対の白翼を広げ、暴風のごとき衝撃波が勇者たちを襲った。
「ぐっ……くっ……!」
勇者ですら、動くことが容易ではないエネルギーの奔流。
ほかの者では、その場に踏みとどまることしかできない。
その間にも、魔王の翼は純白から漆黒へと変わった。
髪も黒に染まり、鎧のごとき紫紺の皮膚が全身を覆い、両目には爛々と赤い光が輝いている。
すでにエネルギーの奔流は収まっていた。
勇者たちの前にあったのは、その名に似つかわしい、ただそこにあるだけで恐怖を掻き立てられる魔王の姿。
――そして戦いは始まった。
3
一人前面に立った勇者が魔王と斬り結ぶ。
戦闘能力に劣る女賢者と女呪術師が後方でサポートに回り、そんな女性二人の壁役として魔法剣士が守護に徹した。
これが勇者パーティの最強の布陣である。
戦いは熾烈を極めた。
魔王が魔王たるに相応しき暴力の前にも、勇者たちは一歩も引かず。
さしもの魔王も、その団結の前には眉をひそめざるを得なかったろう。
されど、やはり魔王。
その強さは度が過ぎていた。
やがて魔法剣士が全身を漆黒の杭に貫かれて、巨大な柱に磔にされると、壁役がいなくなったことにより、女賢者も巨大な氷の中に封じられた。
動けるのは人類の刃たる勇者と、戦闘能力の助長・阻害に特化した女呪術師のみ。
――進退窮まる。それが勇者たちの現状だ。
だが、魔王もまた疲弊の色強く、なればこそ勇者は賭けに出た。
「俺に力を! ありったけの力をくれ!!」
女呪術師の全呪力を一身に受けることにより、持てる力の限界を超える。
勇者は一筋の雷光となって、魔王の懐へと飛び込んだのだ。
「おおおおおおおおおおおおお!!!!」
「オオオオオオオオオオオオオ!!!!」
ガッチリと十字に組み合わさった勇者の剣と魔王の槍。
至極単純な、力と力のぶつかり合い。
バチバチとした稲妻がほとばしった。
両者を取り巻く魔力エネルギーが球状のうねりとなって、なにものも存在し得ぬ死の空間を作り出していた。
これも全て、両者の力の凄まじさと、その拮抗ゆえである。
「負けられない……! 俺たちは絶対に負けられないんだ……!!」
魂のこもった、勇者渾身のもうひと押し。
その剣が魔王の槍をどんどんと押し込み、そして刃は魔王の胸元をえぐり、ついに心臓へと届いた。
あと一息。そう勇者は思った。
――が、及ばず。
勇者と魔王。
両者が反発する磁石のように弾かれると、先に立ち上がったのは魔王だった。
「ハァ、ハァ……さすがは勇者、我が宿敵よ。よもや、ここまで追い詰められようとはな」
荒い呼吸だった。
魔王の胸には大きな傷跡が残っており、その傷を中心にして、まるで陶器に入った罅のように、全身に無数の線が走っていた。
だがそれでも、二本の足でしっかりと立っていたのは魔王なのである。
「ぐっ……、クソッ……!」
一方の勇者。
なんとか立ち上がり、一歩を踏み出したところでまた崩れた。
もう一度、剣を支えに立とうとするも、剣を握ろうとする腕がもう動かない。
地を這いつくばる勇者の身体は、すでに限界を迎えていた。
先ほどの攻撃は正真正銘、全身全霊の剣。持てる力は、カラカラとなる最後の一滴まで出し尽くした。
しかし、それをギリギリのところ――それこそ、ほんの薄皮一枚のところで魔王が耐えきったのだ。
「なんで……! なんで、動かない……! 動け……、動けよぉ!」
体が動かないなんてことは、勇者もわかっている。
それでも叫ばずにはいられない。
――あと一歩なんだ……! ここまで追い詰めた……! たくさんの人の願いが託されている! 世界中の人々の命がかかっている! なのに、なんで動かない……!
なにもできないからこそ、やるべきことをこれ以上なくやり尽くしたからこそ、涙が出た。
惨めに泣き、すがった。
――神様、お願いです……! どうか……どうか、力を……!! この命を失っても構いません、だからあと一振りするだけの力を……!!
まずは、いるかもわからぬ神に。それが無理だとわかると、この場の仲間たちに。いや、ここにいない精鋭部隊の誰かでもいい。
誰か、この場にたどり着いて、魔王に立ち向かってくれ――そう勇者は願い、祈ったのだ。
――あと一歩なんだ……! あと一太刀で世界に平和が訪れる……! だから誰でもいい……! 誰か、誰か……ッッ!!
そんな切なる祈りが通じたのか否か。
勇者の耳に、ギィ、と扉を開く重苦しい音が届いた。
それは、この灰色の空間に、何者かの来訪を知らせるものである。
――来た……! 来てくれた……! 師匠か! それとも騎士団長か! 誰でもいい! 魔王を……、魔王を……!
しかし。
そこにいたのは、精鋭部隊に名を連ねてもいない、思いもよらぬ相手。
「くくっ、情けない声が聞こえると思えば、これはこれは」
見下し、嘲笑するような声を勇者は聞いた。
精鋭部隊の誰の声でもない。――が、不思議と聞き覚えはある。
記憶を探りながら、なんとか首を回して勇者は声の主を見た。
そして、まさか、と思った。
勇者の脳裏に陽炎のごとくゆらめいたのは、六年以上も昔の学生時代の記憶。
茶色い髪。切れ長の鋭利な目。口元に浮かぶ、いやらしい笑み。
かつて己をいじめ、やり返されたあとも度々絡んできては敗北し、いつからかパタリと名前も聞かなくなっていた男――
「あ、悪役貴族……?」
我が目を疑うかのごとき勇者の呟きが、その小さな音量にも関わらず、玉座の間に木霊した。