04
魔眼
ごく稀に突然変異的な型で、この眼を宿す者が産まれる。
視線に念を込める事で特殊な力を発揮するものであるが、その効果は実に様々。
見ただけで身体の自由を奪ったり、死に至らしめる魔眼を持つ熾天使が存在する事から、魔眼を宿す者は『同工異曲』と呼ばれ半ば神格化されている。
「良いか、絶対に視線は下に向けない。 約束しよう。 だから、そっちも大声を出さないと約束してくれ」
自身が途轍もなく身勝手な提案をしているのは承知だったが、ブリッツは浴室から脱衣所へと続く引き戸を開けて現れた人物にそう提案した。
紫紺のロングストレートな髪がお湯に濡れぬよう、頭頂部辺りで結わえた一糸纏わぬ美女。
浴室なのだから入浴が目的であれば裸であるのは当然なことではあるが、長身の程良い肉付きをした艶めかしい裸体を前にして、ブリッツは自身の口から出た言葉を遵守すべく必死に視線を下げるのを堪えた。
「あー、こりゃああっしじゃ気付けませんぜ……旦那。 まさかカレン様がここにおいでだなんて、……とんだ誤算でさぁ」
ナルディの潜伏は神業とも言える程に昇華したものだった。
通常のそれとは異なり、限りなく存在を無に近付ける事が出来る彼の十八番で有り、何度も彼の窮地を救ってきた。
だが、そんなナルディの超絶技巧を持ってしても欺く事が一切不可能な人物。
時が停まってしまったかのように微動だにしない、このカレンという女性。
目にするだけで全ての魔法を無力化するという能力を宿す、『魔眼』の持ち主である。
彼女が特に意図せずともその能力は引き出されてしまうものであり、事実、潜入者二人の姿をはっきりとその目で捉えていた。
無論、いかにナルディが身体強化により神経を研ぎ澄ませたとしても、浴室内にカレンが居ることは魔眼の力により捕捉不能。
「あっ……」
停まっていた時が動き出し、小さく声を漏らすカレン。
先程の提案の返答を待つこともせずに、ブリッツは引き戸をソッと閉めた。
化け物でも見たかのように数歩後ずさるとくるりと向きを変え、全神経を己の脚に集中させ持てうる全ての力をその場からの逃走に費やす覚悟を決める。
「逃げろ、ナルディ!」
「旦那、逃げるって……、何処へ行きゃ良いんですかい?」
「何処でも良い、此処じゃない何処かだ! それも、なるだけ遠くにな」
ダンッと体重を乗せて地面を蹴ると、矢のように脱衣所の外へ駆け出す二人。
脱衣所を抜け、長い廊下をひた走る。
「きゃぁぁぁっっ!」
廊下中に響き渡る金切り声にも振り返ることはせず、二人は力の限り走り続けた。
此処ではない何処かへと。
ついさっきまで居た医務室を通り抜けた先、そこで二人は進む方向を違えた。
ナルディは上へと続く階段を、ブリッツは外へと繋がる裏口へ。
「あばよ、相棒。 お互いの幸運を祈るぜ」
立ち止まり階上へと消えていくナルディの背中に向かってエールを送ると、ブリッツは屋外へと抜け出た。
「さて……、何処に隠れるか……」
裏口から出てすぐの場所に設けられたベンチの上で、ブリッツは一人思索を巡らせていた。
そう言えば聞こえは良いが、実際のところ全力ダッシュによる消耗を落ち着けるべく、座って休んでいるだけだったのだが。
浴室に居るのが本当にセラだけだったのか、棚の隅々まで入念に確認すべきであったと、ブリッツは自身の軽率さを悔いながら虚空を仰ぎ見る。
ナルディの事前情報に絶対的な信頼を寄せていただけに、その確認を怠ってしまったがばかりに災厄を呼び寄せる結果となった。
まさか全ての魔法を無効化する魔眼の宿主が、剣姫と相居るとは予想だにしていなかったのだ。
恥ずべきは自身の短絡さ、憎むべきは自身の不運さ。
そう心の中で嘆きながらベンチに座するブリッツのすぐ隣を、一筋の銀色の光が掠めた。
「見つけた!」
光の正体はセラの放った剣閃だった。
ベンチを下から上へと斬りあげるようにして振るわれた剣の光。
ぽかんと口を開けるブリッツの横を光が掠めてから少し間を置き、彼は違和感を感じる。
真ん中から等分されたベンチが、支える脚を失ったことで平行を保つ事が出来なくなったのだ。
船体が中央から真っ二つに折れるように、ゆっくりとベンチが地面という名の海へと飲み込まれていく。
端っから乗船していたのが泥舟だったと言われれば、相応しい報いであろう。
「待て、剣を仕舞え。 俺はお前には何もして無いだろう?」
「結果的に未遂に終わったってだけでしょ? 良いから其処へ直りなさいっ」
セラは聞く耳を持たないといった様子で、手にした剣をブリッツに突き付ける。
ゆらゆらと波打つ特徴的な刀身を持つ美しい剣。
その見た目とは裏腹に斬られた者の肉を不定形に抉り取る凶悪な威力を持つ、剣姫愛用の剣『フランベルジュ』である。
「ほら、……もう直ってる。 だから平和的に話し合いで解決しようじゃねぇか、なっ」
「平和を乱す不埒な輩を始末してこそ、平和的な解決になると思うんだけど。 ねぇ、ブリッツ、あなたはどう思う?」
突き付けた剣をゆっくりとブリッツに向かって伸ばしながら、そう問い掛けるセラ。
「貴様ら、こんなところで何をしている?」
セラを覆うように大きな影を作る人物がぬっと出現する。
声の主が誰なのかをすぐに理解したセラはビクっと肩を震わせた。
「げっ、……サイモン」
よりにもよって一番遭遇したくない人物が目の前に現れたことに、セラは動揺を隠せず狼狽する。
「もう意識が戻った頃かと思って医務室に行けば、枕の残骸と床に散らかった羽根。 そして大きな物音がしたと思って見に来れば、両断されたベンチ……」
「ブリッツってば、……片付けといてって言ったじゃないのっ! 違うのっ、これはブリッツが……」
睨みつけるセラに対して、存じませんと言った表情を作り、乾ききった口で上手く音が出ない口笛を吹くブリッツ。
「何が違うんだ? セラ……、お前はつくづく備品を破壊するのが好きなんだな」
――カンッ、……カカンッ、……カカカカンッ。
セラとサイモンの会話を遮るように鳴り響く鐘の音。
守護者宿舎の中庭に建てられた鐘楼の鐘が発する音だった。
この鐘の意味するところは、――緊急招集。
「……話は後だ、行くぞセラ、ブリッツ!」
「もう、こんな時に特務隊が招集されるなんてっ……」
忙しなくセラは剣を鞘に収めると、屋内に向かって小走りを始めた。
鐘楼の鐘は、その鐘を鳴らすリズムで召集対象者が判るようになっている。
今鳴り響くこのリズムは、セラの口にした特務隊を招集するためのものであった。
「それとセラ」
屋内へと続く扉に手を掛けようとするセラの背中に向かってサイモンが呼び掛ける。
「何よっ!」
呼び止められたことが不機嫌なのか、召集されたことに不機嫌なのか、セラはぞんざいにサイモンに返事を返す。
「木剣と、枕と、ベンチを破壊した件についての報告書、……忘れるなよ」