願渇の泉
とある町で、ある噂が流れた。
深い山の中に、願いの叶う泉があるらしいと。
噂は瞬く間に広がって、人々の興味を奪った。
しかし、噂は噂。誰が好き好んで危険な深い山の中に行くことはしなかった。
ところが、ある日のこと。
その噂を聞きつけた、ある貧乏商人がいた。
彼は夫婦二人で住んでいたが、明日も分からない苦しい生活に怯えていた。
「本当に、願いの叶う泉があるのなら……」
商人は、藁にもすがる思いで深い山の中に入ることを決意した。
だが、いざ山の中に入ってから、男は悔やんだ。
とても険しい道に足は痛くなるし、お腹はすくし、夜は更けてしまうし。
ついに参ってしまい、動けなくなってしまったのだった。
「くそう、もう歩けるか! 」
商人は山に入ったことを後悔した。
―――しかし、その時。
月明かりに照らされて、木々の隙間に何かが光った。
「何だい、いまのは……」
商人は立ち上がって、光に向かって歩き出す。
すると、商人の前に、とても澄んだ美しい泉が現れた。
「おおっ。もしかして、ここが噂の泉じゃないかい! 」
やったぞ。泉は本当にあったんだ。
商人は喜んだ。早速、なけなしの銅貨を投げ入れて、お祈りを捧げてみる。
「どうか、お金持ちに、なりますように! 」
パンパンと両手を叩いて、お祈りする男。
……だが、どれだけお祈りをしても、泉は、うんともすんともいわない。あたりには夜闇の静寂が響くばかりで、ただ静かに、泉のみなもが、ちゃぷちゃぷと揺れていた。
「……な、なんてことだ。やっぱり嘘だったんだな! ばかやろう! 」
商人は怒って、泉を罵倒すると、最後の力を振り絞って、山を下りたのだった。
「……ただいま帰ったぞ! 」
「あらあら、お帰りなさい 」
貧乏商人の家は、小さな一軒家。
妻は旦那が帰ったのを見ると、いそいそと晩御飯の支度を始める。
「今日は遅かったけど、お仕事だったんですか? 」
「ああ、ちょっとな。結局、無駄足だったけどもよ 」
あれだけ足の痛い思いをして泉を見つけたのに、何にもならなかったなんて、誰が馬鹿らしくて言えるものか。商人は深い溜息を吐いて、窓の外を見つめた。そこには、大きな木に繋がれた雌牛が、モー、と小さく声を上げていた。
「……なぁ。あの牛も売っちまったほうがいいんじゃないか。どうせ、お乳なんて今どき売れるもんじゃないからよ」
貧乏商人の仕事は、牛から出たお乳を売ることだった。でも、最近は、誰もお乳を買ってくれない。だから商人は、どんどん貧乏になってしまったのだ。
すると、それを聞いた商人の妻は、笑って、言った。
「冗談でしょう。あの子がいなくなったら、商売道具がなくなってしまいますよ」
「そうは言うけどよ。牛のお乳なんて、今時珍しくもなくて中々売れねぇんだ。あの牛を売ってさ、別の商売を始めようや」
「細々と暮らしているだけでも、私は幸せですよ。のんびりと、生きていきましょうよ」
妻は、微笑んで言った。
商人は彼女の笑顔には逆らえず、分かったよ、と答えた。
……やがて、二人が寝静まった夜のこと。
妙に騒がしい音がすると、商人と妻は目を覚ます。
「何か騒がしい音がするな」
「外から聴こえていませんか」
二人は、音のする方向を見る。それは、窓の外。木に繋いだ雌牛が、モウモウと暴れる音だった。興奮した様子で、繋がれた紐を引っ張っり、木をミシミシと揺らしている。どれだけの力で引っ張っているのか分からないが、ああ、今にも木が折れそうに、大きく軋んでいた。
「あいつ、何をしているんだ! 」
商人は慌てて外に飛び出した。牛の元に駆け寄って、落ち着くように声をかける。
「どうしたんだ。落ち着け、どうどう! 」
それでも、牛は暴れることを止めない。一体どうしたというのか。
「落ち着け、落ち着け! 」
商人は必死に叫ぶが、牛は落ち着くどころか、どんどん興奮して木を引っ張り続けた。やがて、木の根っこからバカン! と地面が掘り返されると同時に、紐が切れて、牛はその勢いで垣根の壁に頭をぶつけて死んでしまったのだった。
「ああっ、何てことだ! 」
商人は頭を抱えた。どうしてこんなことになってしまったんだ。こんなことになるのなら、牛をさっさと売っておけば良かったのに。
「どうして俺だけがこんな目に合うんだ。俺が何か悪いことをしたというのか。庭もめちゃめちゃになってしまったよ。見ろよ、こんな大穴をあけちまって」
商人は、ガッカリしながら木の根っこが抜かれた大きな穴を覗く。すると、そこに何か金色に輝く丸いお金が落ちていた。
「あっ、これは! 」
商人が穴に手を入れて、取り出してみる。
それは、紛れもない『金貨』だった。それも、何枚も、何枚も。穴の中からザクザクと、いっぱいの金貨が溢れ出たのだ。
「これは、金貨だ! おいお前、見てみろ! 」
妻にそれを見せると、妻は、わぁっと喜んだ。
「これは、天からのお恵みものですよ! きっと、神様がくれたんですよ! これで新しい牛も買えますし、美味しいご飯も食べれますね! 」
「……天からのお恵みものだって。まさか……? 」
商人は、あの泉のことを思い出した。もしかしたら、あの泉のおかげなんじゃないだろうか。
「だったら、もしかしたら。おい、俺は用事を思い出した。ちょっと出かけてくる! 」
男は、金貨を持って、走り出した。
「あの泉は本当だったんだ。何でも願いが叶う泉だったんだ」
夜道険しい道なんのその、痛いはずの足も忘れて、男はあっという間に泉に辿り着いた。持ってきた金貨を投げ入れて、泉に向かって大声で叫んだ。
「ありがとうございます、泉様。ですが、これだけでは当面の生活費にしかなりません。どうか、金貨を捧げますので、もっとお金を下さい。もっと幸せになるくらいの、お金を下さい! 」
お祈りを捧げ終わると、男は急いで来た道を戻り、家に着く。
しかし、家に着いた途端、男の目には信じられない光景が広がっていた。
「……俺の家が、燃えている!? 」
自分の家が火に包まれていた。ゴウゴウと音を立てて、家が燃えている。どうしたんだと、外にいた妻に声をかけると、彼女は泣きながら、言った。
「ごめんなさい。あなたが出て行ったあとで、折角だから美味しいご飯を作ろうと思ったら、薪に火をくべたら、いつもより激しく燃えだしてしまったんです」
「な、何だって。早く消すんだ。頑張って、近くの水路から水を運んで、消すんだ! 」
二人は頑張って火を消そうと水をかけ続けた。
だが、結局、火は消えることなく、家をすべて焼き尽くしてしまった。商人と妻は、目の前の不幸に信じられず、呆然と燃えた家を眺めるばかり。妻は商人に涙を流して、謝った。
「ああ、ごめんなさい。全て私のせいです。これからどうしたら良いのでしょうか」
妻はわぁわぁと泣き続ける。
それを見た商人は、あの泉に金貨をいっぱい投げて祈ったはずなのに、どうしてこんな目に合わなくちゃいけないんだと、フツフツと怒りがわいた。きちんとお祈りを捧げたのに、どうしてだ。
「……もしかしたら、たまたま金貨が出てきただけなのかな」
商人は、すっかり夜明けに明るくなった空を見上げて言った。
「家も失って、これからどうすればいいんだろう」
うなだれる二人だったが、その時。
燃えた家の横を、ガラリガラリと、立派な馬車が通りかかった。窓から白ヒゲの紳士が顔を覗かせて、彼は馬車から降りて商人に声をかけた。
「こんにちわ。君たちのおうちは、火事で燃えてしまったのかな」
「はい、見ての通りです」
「そうかね。それは辛い思いをしたね。それならどうだろう、君がよければ私の家に来ないかね」
「それは、どういうことでしょうか? 」
商人は、何を言ってるのですかと、顔を上げた。
「実は私は、病で老い先が短いのだよ。だけど子供もいないし、財産ばかりが無駄に余っているのさ。だから、次に不幸な人を見たら、全部あげようと思っていたんだ」
商人と妻は、顔を見合わせた。こんな幸運が、あるものなのか。
「白ヒゲの紳士さま。それは冗談ではありませんよね」
商人がきくと、白ヒゲ紳士は笑って、嘘ではないよ、と答えた。
「一緒に馬車に乗りなさい。今日から君たちは僕の跡継ぎさ。さぁ、おいで」
商人と妻は、誘われるがまま、馬車に乗った。
そして辿り着いた大きな宮殿で、二人の幸せな暮らしが始まった。
ふかふかの布団に、好きなものが何でも食べられる豪華な暮らしは、幸せいっぱいだった。
……ところが、商人だけは、少しだけ違うことを考えていた。
「やっぱり、あの泉のおかげでこんな幸せが訪れたんじゃないだろうか」
雌牛の時も、白ヒゲ紳士の時も、あの泉に祈りを捧げてから幸せが手に入った。つまり、あの泉の力は本物なのだと気づいたのだ。
「いずれ、このまま遊び続けていたら白ヒゲ紳士さんの財産は尽きてしまう。その前に、もっともっとお金が欲しい。だから、あの泉に行こう」
商人は、大きな箱に金貨をいっぱい詰めて、もういちど泉に足を運んだ。そして、箱を泉に放り投げてから、深く頭を下げて、祈りを捧げた。
「どうか、私にもっともっとお金を下さい。一生、ずーっと、毎日のようにお金が欲しいのです! 」
深く深く祈りを捧げた商人は、しめしめ、これで一生お金に困らないぞと笑って宮殿に帰った。
ところが、宮殿に戻った商人は、玄関でバタリと倒れてしまった。
「あっ、どうしたのかね! 」
近くに居合わせた白ヒゲ紳士が慌てて掛けるが、商人は既に息絶えていた。
「これは大変だ。早く、夫人に伝えなければ! 」
商人が亡くなったことを伝えられた妻は「何てことでしょう」とわんわん泣いた。
「ああ、何てことでしょう。どうして私を残して死んでしまったんですか」
「彼には私の莫大な遺産を継いで貰ったばかりだというのに。でも、キミ一人なら一生遊んで暮らすことは出来るよ」
「いいえ、私にはその資格はありません。私一人で住むには、この家はあまりに広すぎます」
「では、この財産は捨てるというのかね。そうはいかない。私は君たちに渡すと決めたんだ。私も、もうじき死んでしまう運命なのだ。断ってもらっては困るよ」
譲らない白ヒゲ紳士に、妻は、どうしようかと考えた。
すると、妻に『 ある案 』が浮かぶ。それを、白ヒゲ紳士に、伝えてみた。
「白ヒゲ紳士様。それでは残された財産は、恵まれない子供たちや、病気に苦しむ人々に寄付してはどうでしょう」
「何だって。確かにそれは使い道の一つだ。でも、それでは君はまた貧乏になってしまうぞ」
「私はあの人と狭い暮らしをするだけで充分でした。また、小さな納屋でも借りて、あの人を想いながら一人で暮らしていきます」
「そうか。それなら、私も許そう」
こうして、妻は財産のほとんどを恵まれない人々に寄付をした。
救われた人々は、妻を称えたが、妻は言った。
「いいえ、私を称える事は間違っています。沢山のお金は、すべて商人だった私の夫のものでした。皆さんは、彼が残した財産で助かったのです。私ではなく、夫を称えてくれれば嬉しいと思います」
妻の言葉に、人々は言われた通り、死んでしまった夫を称えた。
やがて、長い年月が流れて、商人は大勢の命を救った人として、立派な祠が作られた。
そしてその祠には、今日も、みんなの命を救ってくれた恩人として、お賽銭の音が鳴り止まない日はないという……。
願渇の泉 おしまい。
………
…