結婚
特に何もしたいこともなかったが大学受験のため高校三年生の夏休みの終わりにバイトは辞めた。
バイト最終日彼は知っていたのに店に現れなかった。
約束していたわけじゃないけど、来るだろうと思っていた私は驚いた。
そして彼が来ると思っていた自分に失望した。
自分はいつからそんな風に彼に期待するようになっていたのか。
自分と彼との間には何もなかった。
私達は本当に何もなかった。
私達を結び付けるには十年前まで遡らなければならなかった。
そのくらい私達には何もなかった。
何も話さなかった。
何処にも行かなかった。
でも唯傍にいた。
隣に並び歩いてくれた。
夏休み最終日彼から初めてメールが来て、近所の喫茶店まで走った。
彼は左目に包帯を巻いていた。
私が目、というと彼は座ったらと言った。
私が彼の目の前の席に座るとちょっとねと言った。
それだけだった。
私には言いたくないんだろうと思った。
私のアイスカフェラテが来るまで彼は何も言わなかった。
「高校卒業したらさ、夏葉ちゃん俺と結婚しない」
私がアイスカフェラテを半分ぐらい飲むと彼は言った。
私は顔を上げられなかったから彼がどんな顔をしていたかはわからない。
でも見なくたって手に取るようにわかる。
何でもない顔だ。
彼は唯思ったことを口にしただけなのだ。
満開の桜を見て綺麗だねと当たり前のことを言った、唯それだけのことで大したことを言ったわけではないのだ。
その何でもなさに私は何も言うまいと誓った。
返事などしてはならない。
彼からしたらそれは今日暑いからそうめんでいいかという生活の続きに過ぎないそんなことの様だった。
それくらい彼の口調には他者の人生を背負うような深刻な重みは微塵もなかった。
私はアイスカフェラテを飲み干したが、決して顔は上げなかった。
彼を一目でも見てしまえば取り返しのつかないことを言ってしまう自信だけがあった。
「夏葉ちゃん」
口を開いたら負けだとわかっていた。
わかっていたのに私は簡単に陥落した。
私を呼ぶ彼の声に耐えられなくなった。
「私、貴方のこと好きじゃないです」
下を向いたまま言った。
こんなことを言わせるこの男がどうしようもなく憎たらしかった。
思えば私はこの男にはこんな目に合わされてばかりだ。
最初からそうだった。
私はもう少し早く誰かが来てくれていたら父と母が助かっただなんて彼に言われるまで考えたことすらなかった。
何故言った。
言わなければずっと唯の喪失で済んだのに。
「俺が夏葉ちゃんのこと好きだからそれでいいんじゃない」
「私は好きじゃないです」
今度は間髪入れずに言えた。
思わず顔を上げてしまうと、どこからでもその色が澄んでいるとわかる緑の瞳がこちらを見ていて、両目じゃなくて良かったと思った。
彼の表情から此処には水も空気も全て満ち足りていて足りないものなど何もないということが理解できた。
ずっとその顔で自分を見ていたのかと思うと全てが腑に落ち、腹を立てている自分が酷く滑稽に思え、相対している事実が益々嫌になりさっさと帰ろうと思ったが、どうやって帰ったらいいかわからず結局視線を逸らすことしかできなかった。
「夏葉ちゃんが俺のこと好きじゃなくても俺が夏葉ちゃんのことうんと好きだからいいんじゃない。どちらかが好きなら結婚は成り立つでしょ。お互い好きでいる必要はないと思うよ」
「うんとってどれくらいですか?」
聞いてからしまったと思った。
別に気になったわけじゃないのに遂聞いてしまった。
彼がうんとなんていうからだ。
そんな曖昧な日本語私は許せない。
結婚したいと言うならそれくらい言うべきだ。
「夏葉ちゃんが生きているならずっと生きていたいと思うくらい」
「何ですかそれ。答えになっていません」
「そうかな」
「私のどこが好きなんですか?」
何を聞いているのだろう。
知りたいわけじゃないのに勝手に口が動いたのだから私のせいじゃない。
私はそんなこと知りたくない。
自分のどこが好きだなんて彼女でもないのに何を聞いているのだ。
好かれることなんか何一つしていないと言うのに。
「好きなとこは特にないかな。でも好きでいるのに理由がいるかな」
「いるでしょう。わけもなく好きでいることなんかできません」
「そう」
「好きじゃないです。絶対に違う」
「好きだよ」
「好きじゃないです」
「俺は好きだよ」
「好きじゃないですよ、好きなわけがない」
「好きだよ」
「好きじゃないですってば」
「何か飲む?」
「話逸らさないでください」
「好きだよ。夏葉ちゃん」
「何回も言わないでください」
「どうしたら頷いてくれる」
「私は好きじゃないから頷きません」
「理由があったらいいの?」
「ないよりは」
いつの間にか私は泣いていた。
涙が止めどなく溢れ零れ続けた。
身体は必ずしも自分の意志と一致しないことがあると言うのを知ったのはこの時が初めてだ。
私の身体なのに私の身体は私を裏切り目の前の何一つ渇きのない男に付いたのだ。
なんてことだ。
「理由はそうだな、君がいるって、わかってから何もなくても生きていけると思ったから」
「意味が分かんないです、何言ってるんですか・・・」
「君が生きている間俺は生きているよ」
「当たり前でしょ、当たり前のこと言わないで・・・」
「君が生きている限り俺は死んだりしない」
「だからそう言うのは・・・もう・・・」
涙を止めなくてはならない。
そう思えば思うほど視界はぼやけ定まらない。
「夏葉ちゃん、好きだよ」
「もういいですってば」
「いいって結婚してくれるの」
私は頷いた。
そうするしかこのいうことをきかない忌々しい恐ろしく節操のない身体をどうすることもできなかったからだ。
涙を拭い顔を上げると彼と目が合った。
さっきと同じ顔をしていた。
見る人によっては夢を見ているかと錯覚するだろう。
彼そのものがこの世界の壮大な嘘のようだ。
昨日も一昨日も明日も明後日も同じ顔をしているのだろうと思った。
この顔でずっと自分を見ているのだろう。
私が死ぬまでずっと。
それが落ち着かない毎日になるであろうことは簡単に想像できたのに、もう後悔しているのに撤回する気にはなれなかった。
あの日からずっと囚われていた。
この男はきっと子供だった私に呪いをかけたに違いない。
そうじゃなければこんな気持ちにならない。
もっと簡単に忘れられたはずだ。
こんなもどかしくて言葉にできなくて何で泣いているのかさえわからない、自分の身体なのにちっとも言うことをきいてくれないそんなことあるわけない。
このままでいいはずがない。
呪いは解かねばならない。
「卒業式はいつ?」
「三月一日」
「じゃあ、入籍はその後だね」
「目、どうなってるの?」
彼は包帯を外した。
緑色だった左目は見たこともない赤で揺れていた。
「ゾンビの毒が入ってね。でも大丈夫。視力がちょっと落ちただけだよ」
「痛いの?」
「もう痛くないよ」
じゃあ、痛かったのか。
いつまで、昨日?
それともついさっきまで?
「ずっと目赤いの?」
「うん。もう戻らない。怖い?」
「ううん。怖くない。いいと思う」
「いい?」
「綺麗」
彼は目を細め、ふっと笑ったように見えた。
それが自分の願望の様で嫌になったが、現実ならばそれは唯の知り合いに見せる顔ではないと思った。
そして悪い気がしないと素直に思った。
その表情に技巧を感じなかったからだ。
身体がじわじわと体温を上げているのがわかり、それが自分の意志なのかそうでないのか判断できずにいたが、涙と違い彼にはわからないだろうと思い深く安堵した。