二人
お正月は伯父さん一家が彦根まで来てくれて伯母さんの作ってくれたお節とお雑煮を皆で食べた。
お姉ちゃん達が初詣に行こうよと言ってくれたが、夫とも行っていないので行きたくなくて娘の希と二人で家に残った。
伯父さんとお姉ちゃん達は仕事があるので三が日が終わると慌ただしく帰って行ったが伯母さんは十日えびすまでいてくれて、近所の神社で福笹を買い餅まきに参加してそのお餅で善哉を作ってくれた。
「夏葉ちゃん、やっぱり帰ってこない?」
「帰らない」
夫が帰ってくるかもしれないからとは言わなかった。
言えば哀しむことはわかっていたし、言えば叶わなくなりそうで怖かった。
「でも、このまま希ちゃんと二人でここに住むの?怖くない?」
「怖くない」
もうこの世に怖いものなんかない。
本当は両親が死んでからずっとないけど、それは言わなくてもいだろう。
「ねえ、夏葉ちゃん。お金の心配がなくたって夏葉ちゃん一人で希ちゃんを育てるのはやっぱり無理よ。彦根には知り合いもいないでしょう。神奈川はやっぱり遠いし、伯母さんも何かあってもすぐにはこれないもの。これからどんどん大きくなるのよ。ね、考え直して。どうしても希ちゃんとふたりがいいっていうんなら、せめて近所に住んで」
夫は絶対に帰ってくる。
私は時間が経てばたつほどそれを信じ込んでいた。
あの人が帰ってこないわけがないと。
「ごめんなさい、どうしてもここから離れたくない」
「彦根がそんなに好きなの?田舎だし何もないじゃない」
「何もないけど私この家が好きなの」
「夏葉ちゃんが小野さんのこと忘れられないのは仕方のないことよ。子供のころからずっと好きだったんだもんね。しょうがないわよ。でも、もう小野さんはいないのよ。夏葉ちゃんは若いの。まだ十九歳じゃない。これからのほうがいろんなこといっぱいあるのよ。夏葉ちゃんは特にこれまで辛いこといっぱいあったんだからこれからは嬉しことがいっぱいあるの。そうじゃなきゃおかしいの。夏葉ちゃんは昔っからとってもいい子で我慢強くって、泣かない子だった、もう、だから」
伯母さんは泣いていた。
こんなに優しい人を泣かせるなんて自分は何て酷い人間だろうと思う。
でもどうしようもなかった。
私は夫を諦めるなんてこと考えることすらできなかった。
あの人が私をこのままにしておくはずがない。
だってあの人は私のことが異常に好きなのだ。
私が好きなように好きなのだ。
そうじゃなければどうして会いに来るというのか。
八年も経って一度しか会ったことのない女に。
あの人の中に私はいつもいたのだ。
どんなに小さくともしっかり場所を取って。
私の中にずっとあの人がいたようにいたのだ。
そうじゃなければおかしい。
ずっといた。
今更どうして彼を追い出すことなどできるというのか。
彼はもう私なのだ。
ずっと私だったのだ。
すやすやと眠る希を見る。
希を生んだ時余りに痛くてもうこりごりだと思った。
でももうあの痛さを思い出すことはできないし今は希に弟か妹を作ってあげたい。
希を見ていると希は私じゃないとつくづく思う。
希は私の身体から出てきた。
でも私だとは思わない。
お腹にいる頃から私達は二人だった。
夫は違う。
あの人と私は何処までも一緒だ。
私が生きているのだから夫が死んだはずがない。
私達はもはや別の個体じゃない。
夫が死んだ以上私が生きているのはおかしいし、私が生きている以上夫が生きていないのはおかしいのだ。
私達は繋がれている。
離れることなどできない。
離れる時は死ぬ時だと思っていたけどそうじゃなかった。
死だって私達を引き離すことなどできない。
複雑に絡み合いすぎている。
いっそ滑稽で可笑しい。
運命とかそんな可愛らしいものじゃない。
もっとおどろおどろしくって目を背けたくなる綺麗じゃ済まないもの。
でも私には彼だとわかる。
彼には私だとわかる。
私達は解かれることなどない。
夫は必ず帰ってくる。
私がいる限り絶対。
だから私は生きる。
何があっても生き続ける。
希を絶対大きくする。
悲しい思いなんてさせない。
「伯母さん。どうしても私は此処から離れられない。遠いのに何度も来てもらって本当に申し訳ないと思っているけど、どうしてもダメなの。私はこの家でこの子を育てたい。心配ばかりかけると思うけど、また伯母さんにも来てほしし、伯父さんにもお姉ちゃん達にも来てほしい、希のこと可愛がってほしい」
どうしてもっと上手く言えないんだろう。
こんなんで伝わるのかな。
私は一人でも平気だけど希のことは私だけじゃなくて気にしてほしい。
私達以外にも大事に思っている人達がちゃんといるって思わせてあげたい。
「そんなの当たり前でしょ。家族なのよ私達。希ちゃんは孫なんだから、初孫よ。可愛いに決まっているでしょう、用事無くても来るわよ、ひな祭りもお誕生日も七五三も入学式も運動会も来るからね。希ちゃんに美味しいものいっぱい食べさせて、可愛い洋服いっぱい買ってあげるんだから。横浜にも鎌倉にも連れてってあげたいし、東京だって、箱根温泉だって皆で行くの。そうやって暮らすの。楽しいことはこの世にいっぱい溢れてるんだから、これから、これからあるんだから」
伯母さんはまた泣いた。
家族、か。
私達は家族になれたのだろうか。
違う。
家族になるはずだった。
希が生まれたら私達は漸く二人になれるはずだった。
別々の個体に。
繋がれたままだろうけど、それでも。
私達は永遠に離れることが出来なくなった。
だとしたらこれは夫の望みだろうし、私の望みだ。
あの日からずっともう離れたくないと願っていた。
あの日がどこから始まったのかわからなくなるほど。
私がどこにも行かない以上夫もどこにも行かない。
私は一度も一人じゃなかった。
初めて病室で話したあの日からずっと。
ならもう私が一人になることなどない。
私にはいつもあの人がいる。
見えなくたって聞こえなくたっていつもいる。
ずっといた。
だから私には怖いものなんか何もない。
今ならわかる。
はっきりと断言できる。
貴方は私のためにずっと生きていてくれた。
私もずっと貴方のために生きていた。
本当に何もしてあげられなかったけど、一度も優しくしてあげなかったけど、素直に好きだとも言わなかったけど。
でも私以上に貴方に相応しい人間なんていない。
私以上に貴方を好きになれる人間なんていない。
私以上に貴方に好きになって貰える人間なんていない。
私はいつも貴方に私以上のものをあげたいと願っていた。
もう何もないのに思っていた。
もうあげれるものなんか何もなかった。
でもそんなもの何も必要なかったと今気づく。
私達は向かい合ってなんかいなかった。
鏡じゃないんだから自分の顔なんか見えない。
互いの瞳に相手の姿をを見出さなくてもいい。
私達はいつもくっ付いていた。
だから顔なんか見なくて良かった。
だって繋がれているのだから。
手を繋ぐ必要もなかった。
もうお互いに溶けていた。
互いにどんな形かわからなくなるほどに。
私達がこうなるのは必然だった。
地上でこんなこと許されるはずがない。
自然の摂理に反する。
人はどこまでいっても本当は一人だからだ。
でも私はそうじゃないと知っている。
私は一人じゃない。
あの人も一人じゃなかった。
私は一人にしなかった。
頑なに好きだと認めたくなかったのは自分だったからだ。
私は自分が好きじゃなかった。
愛想もないしいつも無表情だし喋るのは下手だし。
ああ、だからだ。
あの人はいつも言ってくれた。
俺が好きだからいいんじゃないと。
その通りだ。
私が好きじゃなくてもあの人が好きなら私も好きってことだ。
でも、今帰ってきてくれたら言う。
ちゃんと言う。
貴方が好きだと。
ずっと、ずっと好きじゃない時なんかなかったって。
貴方と同じ目で貴方を見たかったって。
あの人は私が生きている間生きていると言った。
私が生きている限り死なないと。
私は生きている。
私が生きているということは彼は生きている。
なら彼は私に嘘をつかなかったということだ。
もう嘘つきと言うのは辞めよう。
彼は嘘つきじゃない。
そんなことを言っていたら帰ってこれなくなる。
雪葉。
ああ、そうだった。
彼の名前は雪葉というのだ。
小野雪葉。
百九十センチ近くある成人男性にそぐわない美少女ヒロインの様な名前。
雪葉。
私はあの人を思い出す時この名で思い出さない。
私に取ってあの人はあの人で彼で夫だ。
私に取ってただ一人の男の人。
恋人に一度もならずに夫になった。
金髪に左右違う目の色をした。
冷たくて暖かい。
私の夫。