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アイビー  作者: 青木りよこ
17/19

嘘つき

夫が死んだ。

何の前触れもなく唐突に。

仕事帰りにゾンビに襲われてあっけなく逝ってしまった。

夫の遺体は特殊部隊が研究したいと言うので献体することとなり伯父さんが取り仕切ってくれた葬儀は夫の遺体がないまま執り行われた。

お腹に子供もいるし初めての出産だ。

伯母さんは綾瀬に帰って来なさいと言ったが私はどうしても夫がまだ帰ってくる気がして帰らないと言い張ると一か月前になったら来るからねと言い暫くすると綾瀬に帰って行った。


不思議なほど夫が死んだと言うのが信じられず涙も出なかった。

どう考えても夫は死んでいなかった。

死んだとしても死んでいなかった。

あの人が死ぬはずがなかった。

だってちゃんと約束した。

私が生きている限り生きていると。

子供が出来たと言うと珍しく目を丸くして「そっか、嬉しいな」と言って笑っていた。

俺は兄弟いなかったから一人っ子にはしたくないなと言っていた。

私もそうだ。

この家は三人でも随分広いから子供は三人は欲しいと思っていたし、三人は産むつもりだった。

五人家族になればもう広くないだろう。

子供が大きくなったら今までしてこなかったから夫が休みの日には家族皆で彦根城に行ったり佐和山に登ったり甲賀にある忍者屋敷に行ったりそういうこともしようと思っていた。

夫が仕事が忙し過ぎたので小中高ずっと修学旅行に行ってないと言うのでじゃあ東大寺に行って大仏様を見て興福寺に行って阿修羅を見ようと話した。

まだ何もしていない。


私は夫と何もしていない。

この一年私達は何処にも行かなかった。

再会してから時間なんていくらでもあったのに何処にも行かなかったし何も話さなかった。

子供が出来てやっと将来のことを話しだした。

いつかあそこに行こう、ここに行こうとそんな話。

でも先がないなんてことがあるわけないと信じられた。

確かな未来しかそこにはなかった。

もう二人だけじゃなかった。

それは微かでまだ弱い光だったけれど初めて明確に二人の間に他者がいた。

私達だけで繋がっているのではなかった。


「嘘つき」


声に出すと夫に届く気がした。

夫がこれを聞いて嘘なんてついてないよと帰ってきてくれる気がした。


「嘘つき」


誰も座っていないソファを見る。

いつもここで私はテレビをつけっぱなしにしてゲームをしていた。

その隣に休みの日にはいつも夫がいた。

何時も何もしないで私を見ていた。


「嘘つき」


夫に髪を撫でられるのが好きだった。

頬を大きな手で包まれるのが好きだった。

冷たい指先が首筋に触れる時私の体温が移ればいいといつも願った。

左右違う目の色をもっと見ておけば良かった。

夏葉と私を呼ぶ声は録音しておくべきだった。

動画ならいくらでもあるけどそれは戦闘員としてのあの人で私の夫じゃない。

私の夫は決して強くなんかなかった。

私の両親を助けられなかったポンコツだし趣味もなく私がいないとテレビも見ないし漫画も読まないしゲームもしないから話題もなく何もできないし何も知らなかった。

でもいつもとても優しかった。

私のことを大事にしてくれた。

何を言っても怒らなかった。

どんな態度ををとっても笑ってくれた。

いつも体温が心地よかった。

冷たくて暖かかった。


「嘘つき」


何もしてあげられなかった。

もっと優しくしてあげるべきだった。

一度も好きだと言わなかった。

それでもいつも笑ってくれた。

俺は好きだからいいと言って。


「嘘つき」


死んでない。

死ぬわけがない。

あの人が死ぬわけない。

あの人は死なない。

私を残して死ぬはずがない。

だってあの人は私のことが好きだもの。

私だけが好きだもの。

私が生きているのにあの人が死ぬなんてことがあるはずない。


「嘘つき」


私はソファに突っ伏して泣いた。

夫がいなくなって初めて泣いた。

声を上げて泣いた。

涙で家じゅう水浸しになればいいと思った。

そうしたら夫が帰ってくる気がしてならなかった。


「嘘つき、嘘つき」


本当は子供の頃病院に来てくれた時からずっと好きだった。

好きにならざるを得なかった。

私の世界には彼しか男はいなかった。

あの人がそうした。

あの日から誰も私の目に映らなくした。

好きで好きでたまらなかった。

会いに来てくれた時どれだけ嬉しかったかわからない。

壊れてしまいそうに思えた。


「嘘つき、嘘つき、嘘つき」


結婚して最初の頃は毎日同じ家にいるのが信じられなかった。

毎日仕事が終わると真っ直ぐ家に帰ってきてくれた。

あれもこれも食べさせたくてついつい沢山作りすぎてもいつも残さず食べてくれた。


美しい色だけで構成されたあの人の顔が好きだった。

目を背けたくなるような優しい眼差し。

叶わないことなんかないと思わせる魔法のような声。

広い背中。

大きな手。

夜ぴたりとくっ付き眠るのが好きだった。

あの人の全てが好きだった。


「戻って来て、戻って来て、戻って来て」


世界が涙の海に沈んでしまったら夫は帰ってきてくれるだろうか。

自分は何て身勝手で我儘で子供なのだろう。

もう母親になるのに。

でも夫はこんな私を好きでいてくれた。

どんな私でも好きでいてくれた。

どんな私でも許してくれた。


「戻って来て、戻って来て、私のところに帰って来て、帰って来てよ」


私は泣いた。

泣き続けた。


それでも夫は帰ってきたりしなかった。





















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