最初の夜
彦根に来た最初の夜、家で一番広い畳の部屋に風呂から上がり布団を二組敷いて夏葉にお休みと言うと寝ちゃうのと聞いてきた。
その声の余りの幼さと儚さに驚いた。
「引っ越しで疲れたでしょ。朝早かったしもう寝よ」
「眠いの?」
「別に眠くないけど、夏葉は眠くないの?」
「眠くない」
「じゃあ、何かする?」
「してもいい」
「してもいいって」
「してもいい」
俺は夏葉の言わんとしていることはわかったが、今日くらいゆっくり寝てもいいと思った。
四月までアカデミーも始まらないし、今日も明日もずっと一緒なんだし。
でも俺から目を逸らし泣きそうになっている夏葉を放っておくわけにいかなかった。
俺もそこまで薄情じゃない。
「じゃあ、こっち来て」
俺は布団の上に座り胡坐をかいていた。
夏葉は俺を決して見ようとしないまま、そろりそろりと近づいて来て俺の腕にすっぽりと落ちてきた。
絵の具なら混じってしまって違う色になりそうだと思った。
仰向けになった俺に夏葉が鼓動を聞こうとするように身体をぴたりと寄せてきた。
俺は目を閉じ夏葉の背を両手で自分の中に吸収する様に抱きしめた。
「このまま朝までこうしてる?」
「それは嫌。ちゃんとして」
「ちゃんと?」
「してもいいって言ったでしょう」
「言ったね」
「結婚したんでしょう、私達」
「したね」
「じゃあ、もういいでしょ」
「うん」
俺は夏葉を抱えたまま起き上がった。
夏葉の顔を見るために。
夏葉は突然のことに対処できなかったのだろう。
俺と目を合わせると涙を浮かべ顔を見せないため俺の肩に小さな顔を乗せた。
「灯り消して」
「いいけど、何にも見えなの怖くない?」
「貴方だってわかってるから怖くない」
「そう」
「ここには貴方と私しかいないでしょ」
「そりゃそうだ。いないね」
「暗くして、明るいのは嫌」
「まあ、夜は暗いものだからね」
「早くして」
「立ち上がらないと灯り消せないよ」
「じゃあ立って」
「離れても平気?」
「平気に決まってるでしょ。ずっと離れてたんだから。うぬぼれないで」
「そうだね。離れていたね」
「私貴方のことそんなに好きじゃないから」
そんなにって。
好きって言ってるようなものじゃないか。
この期に及んでまだ言うのだ夏葉は。
「俺は好きだよ」
「私はそんなでもない」
「そう。でも俺が夏葉のことすっごく好きだから夏葉のマイナス分はちゃんと補ってるから寧ろプラスだと思うよ」
夏葉はすっごくってどのくらいと聞いてくると思ったが聞いてこなかった。
代わりの俺の黒いスエットをぎゅうっと握りしめた。
その手がどれだけ小さいか俺は知っている。
でもまだ知らない部分は沢山ある。
知った気になっていただけだ。
本当はどれだけ心臓が五月蠅く鳴るかさえ知らずにいた。
桜みたいな色をした夏葉のネグリジェは長袖なのに酷く薄く見え早く体温を染してやりたいと思った。
あれから何度も夜があった。
夏葉は俺に隙間を見出しその場所を埋めようともがくが、俺に埋めてほしい場所などなく、夏葉をいつも落胆させる。
その繰り返しだ。
夜になると夏葉は自分から触れてくるし、何処に唇で触れても何も言わない。
だからと言って俺は世界が一日中夜だったらなんて思いもしない。
どちらの夏葉も俺の夏葉で、どちらの夏葉も俺のことが好きで好きで俺から離れられない。
俺達は離れない。
俺達は繋がれている。
それはどんどん強固なものになっていく。
もう俺達はバラバラな二つの色に戻ることはできない。
互いの色は塗り替えられた。
あの日からずっと。