求婚
夏葉に結婚しないと言うと案の定夏葉は顔も上げず何も言わなかった。
断られるとは思わなかった。
どうせ最後は頷くだろうと静観していたが、取りあえず名前を呼んでみた。
単純に呼びたかっただけだったが、面白いほど効果があった。
夏葉はこらえきれなくなり、震えを隠しきれない声で貴方のこと好きじゃないですと言った。
溺れているから助けに来てと言っているように聞こえ、これは結婚だと思った。
そうすると自分が口に出したことがとてもいいものであるような気になり嬉しくなった。
わざわざ会いに行かなくても帰れば家にいるのだ、夏葉が。
それは想像したことなかった。
そもそも離れていると感じたこともなかった。
いつもどこかに夏葉を感じていた。
俺が夏葉ちゃんのこと好きだからいいんじゃないと言うと夏葉は決して負けまいと顔を上げ私は好きじゃないと言ったが、俺と目が合うと急激に力を失い萎れていった。
その顔を見ると早く認めて楽になればいいと思った。
そうすれば呼吸も容易くなるだろうに。
だが俺は楽しくてたまらなかった。
この時間をずっと繰り返してもいいとさえ思った。
こんなのは生れて初めてだった。
夏葉が俺のこと好きじゃなくても俺が夏葉のことうんと好きだからいいんじゃないと言うと夏葉はうんとってどれくらいですかと聞いて来た。
そんなこと聞かれるとは思ってなかったけど、思うより先に言葉が出た。
恐らく本当にそう思っていたからだろう。
今も昔も俺は夏葉に嘘をついたことはない。
本当にそう思ったし、そうするつもりだ。
夏葉が生きているならずっと生きていたい。
夏葉は答えになっていないと言い、私のどこが好きなんですかと一番どうでもいいようなことを聞いて来た。
俺は素直に好きなところは特にないと答えた。
実際特になかった。
夏葉の顔は可愛らしいし、整った顔をしているだろう。
白い肌も健康にすくすくと育ったことが一目でわかる身体も澄んだ声も俺に閃光を見せた瞳も他者から見たら魅力溢れるものだろうが俺からしたらどうでも良かった。
俺は夏葉が見えなくても夏葉を欲しただろう。
好きになるとはそういうことだ。
そして俺は誰かに好きと言ったのは初めてだった。
勿論好きな理由など話したこともなければ考えたこともなかった。
夏葉を好きなことは俺からしたら当たり前のこと過ぎて、特別なことでも何でもなく、寒い日は暖かい部屋にいたいと言う自然の欲求そのものだった。
夏葉は好きじゃないですと言い、絶対に違うと言い張った。
俺は好きだよと言った。
驚くほど舌に馴染んだそれは、何度でも言いたくなった。
空になったグラスが寂しそうなので何か飲むと聞くと話逸らさないでと言われた。
もう今にも雨が降り出しそうな声になっていた。
どうしたら頷いてくれるのと聞くと夏葉の目から涙が遂に零れ落ちた。
早くこっちへ来たらいのに。
どうして冷え切った身体を温めようとしないのだろう。
今もそうだ。
まあ今は少しはマシになったのか。
夜だけでも暖を取ろうとしてくれるから。
理由があったらいいのと聞くと夏葉はないよりはと答えた。
ああ、もうすぐなんだとわかりラスト一周と自分に言ってみた。
演習中だって俺はこんなこと考えたりしないのに。
本当に夏葉は可笑しな子だ。
俺が言った理由はその時思いついたもので以前から考えていたことではまるでなかった。
でもそうだったからこそ思ってたことをそのままにして言えた。
俺は夏葉に誓った通り夏葉が生きている間ずっと生きているだろう。
夏葉は俺の思っていた通り頷いた。
俺はそれに報いるため包帯を外し赤い色に染まった左目を見せた。
痛いのと夏葉は聞いた。
俺はもう痛くないと答えたが俺が今も痛いと言えば夏葉は喜ぶだろうと言うことはわかっていたが痛くないのでどうしようもなかった。
怖いと聞くと夏葉は怖くない、綺麗だと言った。
俺は笑った。
夏葉は俺が何かを一つ打ち明けるたびにこうして喜ぶのだろうと思うとその慎ましやかな健気さに俺の持てるもの以上の全てをあげたいと思ったが生憎俺はこれ以上何も持ち合わせてなかった。
唯この赤が夏葉から躊躇いを奪い柔らかさを与えたのなら悪くないと思った。




