妻、夏葉
夫の顔を見るのが苦手だ。
「夏葉」
顔だけじゃない。
私を呼ぶ声、その温度、光る以外選択肢のない金色の髪も、漆黒を感じさせない瞳も、気まぐれな贈り物のような夫の全て。
「夏葉」
何度も呼んでくれなくていい。
聞こえている。
そんな風に確かめる様に呼ばないで。
「夏葉」
夫には背を向けていないと落ち着かない。
どうせ何の用もない。
夫は何でも自分でできる。
私にできて夫にできないことなど何もない。
「夏葉」
「聞こえてる」
「そう。今日もいつも通り帰ってくるよ」
「わかった。何か食べたいものある?」
「何でもいいよ。夏葉の食べたいもので」
「毎日切り干し大根でも?」
「夏葉が食べたいならいいよ」
見なくてもどんな顔をしているのかわかる。
口角を上げてもいないくせに微笑んでいる様に見えるのだ。
笑ってないくせに。
夫は嘘つきなのだ。
最初からそうだった。
「夏葉。お湯沸いてるよ」
「知ってる」
毎朝同じことばかりしている。
夫の顔が見たくなくて、あの左右違う瞳に見つめられたくなくて、薬缶の番人と化している。
何度この湯気の白さを見るのだろう。
答えは簡単。
夫が私より先に死ぬことなどないのだから一生だ。
「行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
さっさと行って。
向かい合っていると視線を逸らしずらい。
「夏葉」
何度呼ぶのよ。
しつこい。
「じゃあ、気を付けて。すぐ帰ってくるよ」
「うん」
夫が私に触れる。
昨日は右側の毛先だった。
今日は右の頬。
毛先と違って体温が直接伝わってくる。
その冷たさが震えてしまうほど心地よくて目を閉じてしまいたくなる。
それを齎したのが夫だと思うと無性に腹立たしい。
顔を上げさせたいのかしら。
絶対上げない。
夫の掌が侵食するように首筋に伸びてくる。
ああ、もうやめて。
「遅刻しない?」
「まだ早いよ。それに俺足速いよ」
「知ってる」
「夏葉」
「知ってる」
「何を?」
「もういい加減行って」
「うん」
「いつまでそうしてるの」
「一生してたいくらいだけど」
「私はしたくない」
夫が笑う。
笑ってないけど笑う。
夫の顔は近くにないはずなのに覗き込まれている様に落ち着かない。
私の首筋に這う夫の手に自分の手を重ねてみる。
まだ冷たい。
この手を温めるには私の手は小さすぎる。
私は夫の手すら温めることができない。
「行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
夫が手を振っている。
朝遠ざかる夫を見るのは平気。
これで夕方まで夫は帰ってこない。
子供もいないからこの家に一人だ。
掃除をして洗濯をしてゲームをしていると結婚して良かった、専業主婦最高って思う。
目の前にさえいなかったら夫のことも思い出す必要はない。
夫はいい夫だ。
ゾンビ討伐の特殊部隊引退後はアカデミーの講師をしていて、収入は安定してるし、お酒も飲まない、タバコも吸わない、趣味もないからお金を使わないし、私がゲームにどれだけ課金しても怒らないし、通販で同人誌を買いまくっても何も言わない。
理想の夫だと思う。
目の前にいなければ。
夫を目の前にすると落ち着かない。
最初からそうだった。
結婚前から、違う。出逢った時から。
出逢い方から私達は間違っていた。
結婚も間違いだ。
私は夫を愛していない。