35.キャット&タイガー
1
年老いた白猫の獣人は不動の構えのまま、仏像のように穏やかな顔でそこに佇んでいた。
一見隙だらけのようにも見えるが、神々しいまでの姿になぜか仕掛ける気が起きてこない。開始の合図はすでにされたのだが、俺は少しの間何もできずに攻めあぐねていた。
「ふぉっふぉっふぉ、どうした? 組み合わなければ何も始まらんぞ」
確かにこの爺さんの言うとおりだ。対戦相手にこんなことを言われてりゃ世話ないし、こうなったら多少強引にでも仕掛けてみるか?
「じゃあ、行かせてもらいますよっ!」
仮にも試合の場で相対したからには、逆に敬老精神は一時引っ込めるのが礼儀というものだ。
俺は柔道の構えで組み合うと、まずは左前方に大きく踏み込んだ。さらに相手の右肩に自分の右肩をぶつけるように密着させ、踏み込んだ左足と相手との間にできたわずかな隙間を通して右足を前に振り上げる。このまま相手の足を後ろから刈ってやれば柔道の大外刈りだ。
「せぇやっ!」
よし、崩しもタイミングも完璧だ。あとは組み伏せるつもりで相手を背中から地面に叩きつけるだけ。そう思ったとき――
「にゃうっ!」
「――――!?」
大外刈りが決まったかと思った瞬間、俺は信じられないものを見た。白猫の爺さんは俺に足を刈られた瞬間、自分の襟を掴んでいる俺の右腕を支えにして、まるで鉄棒で逆上がりでもするようにくるりと1回転したのだ。そして彼は両足から綺麗に着地し、技に入られる前の体勢に戻った。
「な……!」
「ふぉっふぉっふぉ♪」
爺さんは反撃してくるでもなく、日中の猫以上に目を丸くしている俺の反応を見て笑っていた。俺の技などで投げられはしないから、いくらでも仕掛けてこいと言わんばかりだ。
「ちぃっ、これならどうだ!」
「にゃにゃっ♪」
それから俺は様々な技をくり出してみた。巴投げのように自分から背中を地面に着けてしまうものはさすがに使えないが、手技や足技合わせて数十手――それこそ自分が知り得る限りの投げ技である。
だが、その尽くが見事なまでに防がれてしまった。白猫の爺さんは俺が仕掛けた全ての投げ技に対して、完璧な受身をとってみせたのだ。
「にゃにゃうっ♪ にゃおーん♪」
いや、これは完璧どころかもはや受身のレベルを超えている。人間がやる受身はあくまでダメージを軽減するためのもので、投げられることそのものを防げるわけではないのだ。それなのにこの爺さんは本物の猫がそうであるように、どんな高さからどんな落とし方をしても常に両足から着地している。
「ね、猫の三寸返り……」
俺は思わずそう呟いていた。
『猫の三寸返り』というのは、柔道の草創期を支えた『講道館四天王』と呼ばれる達人の1人、西郷四郎氏の受身を例えた言葉だ。猫は三寸(約10センチ)の高さから逆さに落としても足から着地するといわれるように、彼はどんな体勢からでも完璧な受身をとってあらゆる投げ技を無効化したという。
俺が今ここで目にしているのは、まさにその『猫三寸』だ。まさかこんな異世界で本物にお目にかかるとは思ってもみなかったが、実際のところどう戦ったものだろうか? 同じ猫科でも、この爺さんは肩車であっさりと投げられてくれたさっきのジャガー獣人なんかとは格が違う。
「くそっ、なら組み付いて土俵から押し出してやるっ!」
俺は爺さんの腰に巻かれたベルトを掴んで右四つの体勢になると、そのまま一気に前に出た。これは柔道の試合ではなく、相撲も混ざった変則ルールの戦いだ。技が通じないなら力を用いるのはある意味正攻法だし、この老体なら最初の鹿獣人みたいには踏ん張れまい。
「ふぉほほ、青いのう」
白猫の爺さんはそう言うと、俺が前に出る勢いを利用して右の上手投げをくり出してきた。しかも同時に足払いで左足を掬い上げられ、俺の体が宙で半回転する。
「うおぁっ!?」
俺は咄嗟に右手を地面に着き、軽く側転してから落ちることでなんとか尻餅をついただけで済んだ。相撲だったら今ので終わっていたところだが、背中さえ地面に着かなければOKというルールに救われた形だ。
「あ、あんた……受身だけかと思ったら投げ技もキレッキレじゃねえかよ」
「ふぉーっふぉっふぉっ♪ そりゃあお主のような若造とは年季が違うわい。どうする、もう降参するかにゃ?」
くそ、誰が降参なんかするかよと言いたいところだが、このまま続けても勝てるビジョンがまるで見えない。まずはあの並外れた平衡感覚をなんとかしないといけないのだが、どうやってそれを狂わせる?
人間相手なら顎か耳に張り手の1発も食らわせて脳や三半規管に衝撃を与えてやるところだが、この試合は打撃技が禁止なのでその方法は使えない。いや、あのピンと立った耳では叩いたところで効果があるかどうか怪しいものだ。ああもう、いっそのこと喉でも撫でてゴロゴロ言わせてやろうか。
(いや、待てよ?)
そうだ、相手は猫。猫の平衡感覚を支えているのは人間と同じ三半規管だけじゃない。一か八か、やってみる価値はあるかもしれない。
俺はまた爺さんに組み付き、今度はなんの変哲もない払い腰を仕掛けた。
「そりゃぁっ!」
「にゃにゃぁっ♪」
横に振り上げた俺の右脚の上で白い体がくるりと反転する。
ここでさらに自ら加速し、俺の意図する落下体勢やタイミングを外して着地するのがこの爺さんの受身技だ。だが俺は爺さんが回転を加速させる前に引き手を切ると、その口元に生えた立派な髭の房を片方だけ、指先で逆立てるようにくすぐってやった。
「にゃふっ? ニャわぁぁっ?」
―― どたん! ――
派手な音とともに、白猫の爺さんは土の地面に背中から落ちた。俺の払い腰が見事に決まったのだ。
「そ、それまで!」
審判の犬獣人は驚いた顔をしながらも俺の勝ちを宣言した。それと同時に、さっきとは比べものにならないほど大きなどよめきが周囲に広がる。
「むむむ……ま、まさかワシの髭を狙いおるとは」
白猫の爺さんは地面にあお向けになったまま、先ほどの俺と同じように目を丸くして感心していた。そりゃそうだ。あれだけの受身技を持っていれば、まともに投げられた経験など今までなかっただろう。
「やっぱりそこが平衡感覚のセンサーだったか。本物の猫も片方だけ髭を切られると真っ直ぐ歩けなくなるっていうしな。でも掴んだわけじゃないからルールには抵触してないだろ?」
「ああ、それに文句をつけるつもりはにゃい。だが同じ手を二度も食うとはな……ワシも耄碌したもんじゃわい」
「二度目だって? じゃあ今までにも同じ手口であんたを投げたやつがいるってのか」
「うむ、ワシは数年前まで族長としてこの競技で無敗を誇っていたのだがにゃ。そやつに敗北したのを機に族長の座からも退いたのじゃ。お主を見ているとつい血が騒いで、年甲斐もなく現役復帰してしまったがのう」
「もしかして、あんたに勝って族長の座を譲られたのが今の族長さんってわけかい?」
「うんニャ、違う。ワシを倒したのはあやつの……いや、それは言うまい。どうせあのときは特別に相手をしてやっただけで、二度と出場してくることはないだろうからにゃ」
「?」
白猫の爺さんは目を閉じて首を横に振ると、立ち上がって群衆の中へと引っ込んでいった。
爺さんの話はよく分からなかったが、とにかくこれで4人抜きまで達成だ。あと1人――最後の相手は誰になるのやら。
2
―― …………ざわ…………ザワザワ…………ざわ………… ――
最後の相手として誰が出てくるのか、俺はしばらく待ち構えていたが、観衆たちはざわざわと騒ぐのみで誰も名乗りを上げる者はいなかった。
さっきの爺さんはただ1度の敗北を除けば無敗の王者だったという話だから、それを破った俺と戦うのは気後れするのかもしれない。しかもよそ者に5人抜きされるかどうかの瀬戸際でもあるので、責任の重さという点でも二の足を踏むのは仕方のないことだろう。
「あっはははは! 大の男が雁首並べてなっさけねえなぁおい。お前ら全員タマぁ付いてんのか?」
すぐ近くからいきなり大きな声がして、周りにいた獣人たちはあたりをキョロキョロと見回し始めた。
今の声は高さから考えて明らかに女のものだ。だが獣人の女性たちは少し離れた場所に固まっているし、近くで応援してくれていたティナやフリージアさんの声とも違う。声の主らしき者がどこにも見当たらないので、誰もがきょとんとしたまま隣のやつと顔を見合わせていた。
「ここだよ、ここ!」
再び声が聞こえ、周囲の視線が一斉に土俵の一番近くにあったテントのほうへ注がれる。そこにはテントに張られた天幕の上にだらしない格好で寝そべり、ニヤニヤと笑みを浮かべる1人の女がいた。肘と膝から先を覆った毛皮と尻尾の模様を見るに、あれは虎の獣人か?
「こらシルヴィ! そんなところに上るんじゃない!」
「言われなくてもすぐに下りてってやるよ。あらよっ……と」
虎の獣人らしき女はライオン頭の族長に一喝されたものの、悪びれる様子もなくテントの上からぴょんと跳び下りてきた。今の動きだけを見ても、彼女がかなりの身体能力の持ち主であることが分かる。
「へへー、お前なかなかやるじゃん。最後の5人目、あたしが相手をしてやろうかぁ?」
歳は俺と同じぐらいだろうか? 刺々しいショートカットの虎娘は腰に手を当てたまま俺の前に近づいてくると、牙のような八重歯を見せてにやりと笑った。うーん、水着みたいに露出の多い服装と、歩くたびにたゆんと揺れる大きな胸が目の毒だ。
「何を言っている! この競技は男の誇りを懸けた神聖なる戦い、女が参加するなど認められるものか!」
「うっさいなあ父上は。その男どもがよそ者相手にビビっちまってるからあたしが出てやろうかって言ってんだよ。それに3年前、あたしが先代の爺さんをブン投げてやったのを忘れたのかい?」
「あれはお前があまりにもしつこいので先代様がお遊びで……!」
族長がガミガミと叱りつけるが、虎娘は頭の上からぴょこんと飛び出た可愛い耳を両手で押さえて聞いてない。そうか、この娘が昨日族長の言っていた虎模様の娘で、以前あの白猫の爺さんに勝ったというやつか。
「あーもう、お説教はいいって。大体あたし以外のやつが勝てんのかよ。こいつ、かなりやるみたいじゃん。もし他のやつを出して負けたら一族の恥だろ?」
「むぅ……」
「いーじゃんかよー。やらせてくれよー。どうせ相手はよそ者だし、あたしが5人抜きに挑戦するわけじゃないんだからいいだろーっ。なぁーっ」
族長はグイグイと迫ってくる娘の勢いに押され、言い負かされそうになっている。そしてついに虎娘は父親の肩によじ登り、頭をゆさゆさと揺らし始めた。うーむ、なんて強引な娘だろう。というより、自分の意が通るまで絶対に折れないタイプか?
「ああもう、やめんか! 分かった分かった!」
「お? いいのか? あたしがやっていいのか?」
「すまんな旅人よ。お恥ずかしいところを見せて申し訳ないが、このとおりだ。もしお主が差し支えなければ、この馬鹿娘の相手をしてやってくれないか」
「俺は別に構わないけど……本当にいいのか?」
「認めたくはないのだが、こう見えてこいつは我が一族の中でも特に戦いの才能に恵まれておってな。力も速さも下手な男など相手にならんほどだ。だがそれゆえに身の程を知らず、こうして神聖な戦いの祭りにまで首を突っ込もうとしおる。どうかお主の力と技で、上には上がいるということを思い知らせてやってくれ」
いやいや、俺がここまで勝てているのは競技のルールと技の相性がいいからであって、そこまで買いかぶられても困るぞ。もしもこの戦いがなんでもありの殺し合いだったら、俺なんか今ごろサバンナでハイエナに喰われるインパラみたいにバラバラにされていたかもしれないのに。
「族長さんがそう言うなら頑張ってみるけど……あんまり期待しないでくれよ? こっちはもう4人抜きでヘトヘトなんだ」
「安心してくれ、こいつが女だからといって手加減などする必要はないし、お主が勝ったらちゃんと賞品は授与するぞ」
「ああ、そういや賞品ってなんだっけ?」
「馬が2頭だ。この集落で飼っている馬のどれでも好きなのを選んで構わん」
「!」
馬2頭だと? それなら荷運び用の馬でもいいってことか。
ちょうど馬車が欲しいと思っていたところだが、馬ってのは俺の世界でも相当値が張るものだ。もしもこの勝負に勝ってその分を節約できたら、思ったより早く馬車を手に入れられるかもしれない。おいおい、そう考えたら俄然やる気が出てきたぞ。
「よーし、決まりだな! さあやるぞ! ほらやるぞ! すぐやるぞーっ!」
虎娘はいつの間にやら皮ベルト一式を身に着け、軽やかなフットワークでぴょんぴょんと飛び跳ねていた。それにしても本当に騒々しいなこの娘。元気のある女は嫌いじゃないが、ここまでいくとちょっと躾が必要な気がする。
「わーったよ。相手してやるからお前ちょっと落ち着け」
「おう。そういやお前、名前は?」
「神代燈真だ、トウマでいい。お前は?」
「トウマか……あたしはシルヴェット、シルヴィでいいぞっ!」
シルヴィと名乗った虎娘は再び眩しいほどの笑顔を見せると、まるで本物の虎のように四つん這いで構えた。
なるほど、よく見るとこいつの体、筋肉質だがゴツいという印象は全くない。むしろ全身からしなやかさを感じさせる肉体は、まさに猫科猛獣のそれだ。
「……行くぞぉーっ」
まだ審判が始めの合図もしていないのに、シルヴィは今にも俺に飛びかかろうと力を溜めている。一見無邪気にも見えるその笑顔から、俺は空気がビリビリと震えるかのような圧力を感じていた。
今回は獣の身体能力を持つ獣人のほうに伝説上の技を再現してもらいました。なんせ相手が猫でしたので。
猫の髭がバランサーの役目をしているというのはよく知られていますが、ちょこっと指先で方向を変えてやっただけでバランスを崩すのかどうかは知りません。あくまで今回のルール内で、髭を勝負の鍵として主人公に勝たせるための演出ですので悪しからず。
次回は髭を持たない虎娘を相手に、主人公がそれ以外の方法で同じ受身技を破る展開にする予定です。




