29.筋トレは回復魔法とともに
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「きゅうーじゅうに、きゅーじゅうさん…………」
握った拳を板の上に乗せたまま、腕立て伏せの体勢で耐え続けるという修行もいよいよ佳境を迎えていた。
すでにカウントは90を超えた。100になれば終わりなのだから、あと少し――もう限界だと言わんばかりの顔をしているアンディはもちろん、アルもそう思っているだろう。だが、俺の特訓はそう甘くはない。
「きゅーじゅうはち、きゅーじゅうきゅう」
あと1秒、そう思って2人が緊張を解きかけたそのとき――
「きゅーじゅうきゅう」
「「!?」」
俺は二度目の99をカウントした。
「2人とも、まだ終わってないぞ。きゅーじゅうきゅう、きゅーじゅうきゅう」
「ちょっ……と、トウマさん?」
「……そ、そんな……」
完全に気が緩んでいたところに不意打ちを食らい、2人ともさぞ驚いたことだろう。
これぞ俺の家に伝わる地獄特訓の1つ、『エンドレス・カウント』である。先に設定しておいたトレーニングの長さや回数が終わる直前の数を何度もカウントすることで、いつ終わるのか分からないという不安に打ち克つ精神力を鍛えるという訓練法だ。
「きゅーじゅうきゅう、きゅーじゅうきゅう…………」
苦しい時間がようやく終わるという期待が裏切られたことで2人の精神は大きく動揺し、今までよりさらに大きな苦痛を感じていることだろう。だがそんなことにはお構いなしに、俺は延々と99のカウントを刻み続けた。
「……うっ…………ぐぅぅ……。ぼ、僕……もう駄目です……」
力尽きたアンディが体勢を崩し、その場にべしゃりと倒れ伏す。そしてさらに数十秒後、アルも同じように地面へと倒れ込んだ。
「はぁっ…………はぁっ…………」
「うぅ……酷いですよトウマさん」
「ははは、びっくりしたか? けど、酷いというなら俺の親父はもっと酷いぞ。例えば今の訓練だったら、顔や胸の下に画鋲をばら撒くぐらいはしてくるだろうからな」
「お、鬼だ……」
「しかしお前ら、自分が本当はどれだけ耐えられたか分かるか? 俺はちゃんと頭の中で数えてたけど、アンディは116、アルはなんと165だ。人間の限界なんてもんは、自分が思ってるよりずっと先にあるってことさ」
そう言いつつ腕立て伏せの体勢から起き上がり、指の骨をパキパキと鳴らす。俺のほうはこれだけでは物足りなかったので、途中から左腕を背中に回して右拳だけでやっていたのだ。
拳を強く握りすぎていたためか、2人の腕はプルプルと震えていた。拳を鍛えるのが主な目的の訓練だが、これなら握力を鍛える効果のほうも十分に見込めそうだな。
「よーし、とりあえずちょっと休憩。休んだら次のメニューやるぞ」
「ええっ? ま、まだやるんですか?」
「当たり前だろ。1ヵ月しかないんだからこれでも足りないぐらいだ。今のは準備運動みたいなもんだよ」
いつも俺のトレーニングに付き合っているアルは特に顔色を変えないが、アンディのほうは漫画なら「あわわ……」とでも言いたそうな顔をしていた。俺もそこまで無茶をさせる気はないが、この短い期間でそこそこ喧嘩自慢のガキ大将に勝てるようになろうというのだから、最低限これぐらいの特訓には耐えてもらわないと困る。
「トウマさん、次は何をするんですか?」
「うーん……とりあえずは正拳突きを100本かな」
「あれ、技とかは教えないんじゃなかったんですか? 腕力をつけるっていうから、てっきり重い物を持ち上げたりするんだと思ってましたけど」
「いや、ウェイトトレーニングをさせるつもりはないよ。執事さんたちに今用意してもらってる器具にせよ、そういう類のものじゃない」
「そういえば、トウマさんって出会った頃からずっとそういう訓練はやりませんよね」
「まあ、旅をしながらそんな重いもん持ち歩けるかってのもあるけどな。ウェイトトレーニングってやつは手っ取り早く筋肉をつけるにはいいんだけど、そうやって作った筋肉ってのはどうにも硬いんだよ。一昨日戦った騎士団長もそうだったけど、それだと攻撃に鞭のようなしなやかさがなくなるんだ。なんて言ったらいいかな……瞬発力はあるんだけど速くないというか、速くても見切りやすいというか」
「トウマさんがあの人の攻撃を捌けたのは、そういう理由もあったんですね」
「ああ、だから戦うための筋肉ってのは、なるべく自重を使ったトレーニングで作ったほうがいいと俺は思ってる。それと俺がウェイトをやらない理由はもう1つ――」
「もう1つ?」
「ウェイトトレーニングは少ない回数で大きな効果が得られるけど、それだと急激に増した筋肉のパワーに関節がついてこれなくて、技を出したときに腱や筋を痛めることがあるんだよ。それに対して反復運動で体を作っていくトレーニングには、自分の力に耐えられる関節を同時に鍛えるという意味もあるんだ。これからやる正拳突きも、技を覚えるというよりはそのための訓練だな」
「なるほど……」
「よし、それが分かったところで休憩は終わりだ。続いて正拳突き100本行くぞ。アンディはとりあえず俺の真似してパンチを出してみろ」
「は、はい」
「まず構えだが、足を肩幅に開いて、左足だけ半歩前に踏み出せ、右足のつま先と、左足の踵が同じ線上にくる感じだ」
「はい」
「そのまま両足のつま先を少しだけ内側に向けて、軽く腰を落とすんだ。こうすると脛や太ももの筋肉が絞られて自然と引き締まる。三戦立ちという立ち方だ」
「……こう……ですか?」
「そうそう。次に腕のほうだが、肘を思い切り引いて、拳は腋の下、手のひらのほうを上にして胸の横にぴったりと付ける。力みすぎて肩が上がらないように、一度深呼吸してストンと落とせ」
「は、はい。…………すぅ…………ふぅーーーーっ…………」
「よし、じゃあ始めるぞ。俺の掛け声に合わせて拳を突き出せ。――いぃち!」
「え、えい!」
「構えた状態から真っ直ぐ拳をくり出せ。腕も肘も最後まで胸の横から離さず、腋を閉めて擦るように突き出すんだ。行くぞ――にぃ!」
「えい!」
「真っ直ぐ拳を出すといっても相手の肩を殴ってもしょうがない。狙うのは体の中心、正中線だ。基本は自分の胸と腹の間――鳩尾を狙え。――さんっ!」
「えい!」
「大事なのは拳を突き出すほうの腕だけじゃない。同時に次のパンチを打つ構えになるよう、もう片方の腕をグンと引くんだ。ただしこのときも力が入って肩が上がらないように気をつけろ。――しぃ!」
「えいっ!」
「打ち終わったときに腕をピンと伸ばしきるな。その瞬間に外側からゴツンとやられたら肘が折れるぞ。肘の関節にはほんの少しだけ余裕を持たせつつ、威力は足の踏み込みと腰を入れることで生み出すんだ。――ごぉっ!」
「えいっ!」
「拳は180度回転させてしっかりと抉り込め。引く拳と突き出す拳が入れ違いになる瞬間に反転させるのがコツだ。――ろぉく!」
「えぇいっ!!」
間違っている箇所があれば指摘しつつ、手本を見せながら少しずつ正しいフォームに矯正していく。そんなことを繰り返しながら正拳突きの特訓は続いた。
終わる頃になるとアンディはヘトヘトになって立つのもやっとという感じだったが、それでも彼は泣き言を漏らすことはなかった。初めての経験ばかりで苦しかっただろうに、初日から投げ出したりせず耐え抜いたのは褒めてやりたい。
「よし、今日はこれぐらいにしておこうか。よく頑張ったな、偉いぞアンディ」
そう言いつつ、俺はアンディの頭を少々乱暴に撫でてやった。
「あ、ありがとうございます」
「少し休んだら夕食にしてもらうよう家の人に言ってあるから、ちょっと苦しいかもしれないけどしっかり食べるんだぞ。それが強い体を作るための源だ。あと風呂も沸かしてもらってあるから、少し温めになった頃に入って、湯船に浸かりながら体中をしっかり揉んで……って、待てよ……」
疲れた筋肉を回復させるための心得を語っていたところで、俺は1つ面白いことを思いついた。
トレーニングというのは破壊された体組織や筋繊維が回復したときに前よりも強靭になる性質を利用したものだが、普通は自然治癒するまでにそれなりの時間がかかる。だが先日俺が体験した回復魔法というものはその自然治癒力を何倍にも増幅するもので、亀裂骨折した骨でさえわずか10分足らずで完治してしまった。ならばもしそれをトレーニング後の筋肉に使ったら、破壊と回復のサイクルを早めて練習の密度を上げることができるのでは?
「そうだ、ティナに頼んで一度試してみよう」
もしもこの方法が上手くいったら、短い期間で何倍ものトレーニング効果が得られるかもしれない。俺はぐったりとした2人をその場に放置したまま、ティナを呼ぶために屋敷の中へと戻っていった。
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そして次の日、ティナの回復魔法でアンディはすっかり元気になっていた。本来なら筋肉痛で3日ほど動けなくなるんじゃないかと思っていただけに、この方法が上手くいったのは嬉しい誤算だ。
「ごめんなティナ、回復役を頼んじゃって」
「いいえ、私もお役に立てて嬉しいです」
「でも、魔法を使うと疲れたりするんじゃないのか?」
「私は精霊の力を借りているだけですから、それほど疲れたりはしませんよ。確かに集中力は必要ですから、1日中ずっと使いっぱなしとかは無理ですけど……」
「いやいや、さすがにそこまで厚かましいお願いはしないって。俺やアルはいいから、1日の終わりにアンディの疲労と拳の怪我だけ治してやってくれるかな」
「はい」
ティナは俺がこういうお願いをしても、いつも嫌な顔1つせずにっこりと微笑んでくれる。本当にこの娘は天使じゃないのか? もし俺が結婚するなら、シャーロットなんかより絶対にティナのほうがいい。
「トウマさん、準備できたみたいですよ」
「お、そうか」
そう言って振り向いた俺の目の前には、直径30センチほどもある2本の杭が立てられていた。どちらも庭の地面にしっかりと打ち込まれているが、そこから出ている部分の長さはアルやアンディの身長よりも少し高い。
2本のうち1本には束ねた藁がロープで巻きつけてあり、文字通りの巻藁というやつである。そしてもう1本のほうには、タイヤのチューブを切り開いて作ったような長いゴム紐が結ばれていた。先日の風船配りでこの世界にもゴムが存在することが分かったので、今回の特訓に必要な長さと強度のものを昨日から作ってもらっていたのだ。
「トウマさん、こんなものをどうするんですか?」
「こっちの巻藁は拳を鍛えるためのものだ。昨日の正拳突き100本は空打ちだったが、今日からはこれをアンディに殴らせる。そしてもう1本のほうは……」
ゴム紐が結ばれた杭に近づき、そこから伸びてだらりと垂れ下がっているほうを持ち上げる。そして輪っか状に結ばれた端の部分を掴むと、俺は杭と逆の方向に足を踏み出しながら、野球のボールを投げるようなフォームでそのゴムを思い切り引っ張った。
「むぅん!」
伸縮性に逆らい、肩越しにゴムを引き伸ばす。拳が地面に着くまで伸ばしたところでゆっくりと腕を戻したが、この抵抗だとアルやアンディでは腕を真っ直ぐ伸ばしきるのも難しいかもしれない。
「これが『スローイングパンチ』ってやつだ。物を投げるときのフォームで全体重を乗せて打つ、威力だけなら最高のパンチだな」
「ええーっ? でも、そんな大振りのパンチなんて当たるんですか?」
「そのとおり。こんなの実戦ではまず使えない、技としては欠陥品というべきパンチさ。けどな、『足の踏み込み』と『パンチに体重を乗せる』という2つのこと覚えるにはいい練習方法なんだよ」
「へー、面白そうね。私もやってみていい?」
今日は回復役のティナだけでなく、屋敷の中で暇を持て余していたフリージアさんも見物に来ている。ちょうどいい、この人は俺なんかよりもよほど力があるし、もっと安定したフォームのお手本を見せてもらおう。
「いいですよ、どうぞ」
「じゃあ、やってみるわね。せぇーのっ!」
一目見ただけで運動神経がいいのが分かるほど見事なフォームでフリージアさんがゴムを引っ張る。そして『ぐぅん!』という擬音が聞こえてきそうなほど勢いよく伸ばされたゴムが一気に細くなったかと思うと――
―― ばちぃん! ――
伸縮性の限界を超え、静電気が弾けたような音とともにブチ切れた。
「うおっ!?」
「ありゃ、切れちゃった。ごめーんトウマくん」
「い、いや、ちゃんとこういうときのために予備も用意してもらってますけどね。それにしても凄ぇ……新品のチューブを1発で引きちぎる人なんて初めて見たよ」
このチューブトレーニングは柔道の打ち込み練習にも使われるため、オリンピック級の柔道家が引っ張ってもそうそう切れるものじゃない。この世界のゴムが俺の世界のものより品質で劣るのかもしれないが、それを差し引いても恐るべき剛腕というべきだ。ほんと、この人の腕力は一体どうなってんだ? もしかしてこのお姉さん、純粋な人間じゃなくて鬼や吸血鬼なんかのハーフとかじゃないだろうな。
「ま、まあとにかくお前もやってみろアンディ。フリージアさんみたいにブッちぎれとは言わないから、腕を伸ばせるところまででいい」
「は、はい」
ゴム紐を予備のものに交換して輪になったほうをアンディに渡す。そして彼は腕を振りかぶり、スローイングパンチの体勢に入った。だが――
「ふんっ…………ぐぐ……ぐぬぅぅぅぅぅぅ…………」
やはりというべきか、アンディの腕は肩より先にも伸びなかった。本人は顔を真っ赤にして力を込めているのだが、根本的に腕力が足りていないのだ。
「アンディ、腋をそんなに開けてたら力が逃げる。拳をもっと下げて、正拳突きのときみたいに真っ直ぐ突き出せ。それと腕の力だけで引っ張ろうとするな。前の足をもっと大きく踏み出して前に体重をかけ、ゴム紐を背中で担ぐようにして全身で引くんだ」
「は、はいぃ……」
「あと鈍臭いやつにありがちだけど、顔に力入れてもしょうがないんだよ。息は軽く吐きながら力は下っ腹、へその下に込めるんだ」
「は、はいっ…………ふぅぅぅぅぅ…………!」
だんだんとアンディの体が前のめりになり、腕がようやく肩よりも前に伸び始める。だがすぐにまたゴムの力で引き戻され、彼はバランスを崩して後ろ向きにひっくり返った。
「うわぁっ?」
「いいよ、最初はそんなもんでいい。最終目標はこのゴムを腕が伸びきるまで引っ張れるようになることだが、今日からはこれと昨日やった2つのメニューをローテーションしながら、毎日体が動かなくなるまで続けるぞ」
「こ、これを毎日ずっとですか?」
「疲れや怪我はティナが回復させてくれるから、翌日に残ることはない。1ヵ月これを続ければ、お前は絶対にイジメの相手に勝てるようになる。俺を信じて続けろ」
「は、はいっ!」
「よしっ! 返事もだいぶ元気よくなってきたな」
最初は1ヵ月でどこまで伸ばせるか不安もあったが、ティナの回復魔法のおかげで俺には確実にアンディをイジメの相手に勝たせてやれる目算が立った。元々この子に足りなかったのは才能というよりも勇気だ。あとは本物の戦い――実戦に必要な勇気を出すための特訓をしなければ。
これは今よりもさらなる1歩を踏み出すものであり、単純な痛みだけではなく恐怖に打ち克たなければならない。俺はこれから挑まなければならない試練に負けるなと念じながら、アンディの頭をわしゃわしゃと撫で続けた。
今回は空手において基本中の基本である正拳突きについて解説したいと思っていましたが、ポイントとなる部分はほとんど本文中に書いてしまったので特に書くべきことがないですね。
ただ突きの基本稽古で鳩尾を狙うというのは作者が学んだ『剛柔流』の話で、他の流派ではそういうことを意識せず、肩のあたりに真っ直ぐ拳を突き出す流派もあるようです。いずれにせよ、姿見の大きな鏡で自分のフォームをしっかり確認しながら練習するといいでしょう。
フルコン空手をやっていたときなんかは前に突き出した両腕を手首のあたりで交差させ、そこから片腕を引いた状態から突きの稽古を始めました。そして最初に腕をクロスさせた軌道上を突くのですが、これは手首が交差していた部分に相手の体があると想定して突くことで、相手の体よりも拳1つ分深く突く感覚を身につけるという練習法なわけです。
スローイングパンチは素人同士の喧嘩では見られますが、こんなのはビビって目を瞑っているような棒立ちの相手にしか当たりません。ですが作中のチューブトレーニング自体は踏み込みと体重をかける感覚を身につけるのに有効なので、今回はあくまで練習用の技として登場させました。
このように単純なパンチ1つをとっても、流派や格闘技の種類によって様々な理論・術理が存在します。例えば少林寺拳法では拳を横ではなく縦にしたまま回転させずに突き出すうえ、相手に当てるのも空手のように人差し指と中指の面ではなく、中指から小指までの広い面を用いるなど、本当に奥が深いですよ。




