02.気がつけば不思議な世界
1
顔を上げると、そこは見渡す限りの草原だった。
地表に人工物らしきものは何一つ見えない。ただ青々とした草と、ほんのわずかな花。あとは地平線の向こうに岩山のようなものが見えているだけだ。
視界の上半分を占めるのは青い空と雲だけ。もちろんここにもビルや歩道橋といった、いつも視界に入ってくるはずの人工物はどこにも見当たらない。
振り返ってみると、背後には鬱蒼とした森が広がっていた。高さ5~10メートルはある樹が不規則に生えていて、これも人の手が入ったものではないのは明らかだ。
「どこだ、ここ……?」
俺は困惑していた。ついさっきまで住宅街のど真ん中にいたはずなのに、気がついたら写真でしか見たことがないような大自然の中にいたのだ。
怪我をしていないか体を確認してみたが、川に落ちたはずなのに服が濡れてもいない。先ほどの状況から今の状況に至るまで、何が起こったのか想像することすら不可能だった。
(夢じゃぁ……ないな。多分)
地面をつま先でドンドンと蹴ってみて感触を確かめる。
目の前の光景は現実離れしているが、夢に特有の浮遊感がない。しかも吹く風や草の匂いまでがリアルに感じられて、逆にこれが夢だと思うほうが不自然なくらいだ。
何がどうなったのかは分からないが、とにかくどこか知らない場所に飛ばされたのは間違いない。
(そうだ、スマホのナビ機能で現在地を調べれば……)
肩にかけていたはずの鞄はいつの間にかなくなっていたが、ポケットにはちゃんとスマホが入っていた。
思わず天に感謝しながらスマホの画面をタッチしようとしたが、俺はそこで電源が入っていないことに気がついた。昨日充電するのを忘れていたせいで、電池が切れていたのだ。
これでは場所どころか時間さえ分からない。昨夜は試合の疲れで寝落ちしてしまったことが悔やまれたが、後悔先に立たずだった。
(こうなったら人のいる場所を探して訊ねるしかないか。とはいえ水の確保を考えると、川も流れてない草原のほうへ歩いていくのもな……)
一見したところ、ここは日本ではないように思えた。眼前に広がる草原はあまりにも広大すぎるし、右を向いても左を向いても高い山が目に入らないからだ。北海道ならこういう風景もあるのかもしれないが、それにしたって道路や電柱の1本も見当たらないということはないだろう。
思案した結果、俺は自分の後ろに広がる森へ入っていくことにした。どれぐらいの広さか分からないのは不安だが、果てしないのは草原も同じだ。それに草原側には人の住んでいる場所がないと一目で分かるが、もしかすると森を抜ければすぐ人里に出られるかもしれない。
俺は草原に背を向け、森の中へと歩いていった。
「まるで富士の樹海だな……」
足を踏み入れてみると、そこは思っていた以上に深い森だった。一応木漏れ日は入ってくるのでさほど暗くはないものの、開けたような場所は全くないのだ。
ヘンゼルとグレーテルみたいに落としていくパンは持ってないし、目立つ小石を拾い集めている場合でもない。しょうがない、ここは熊の真似事をしながら行くことにしよう。
俺はその辺に転がっている尖った石を拾うと、すぐ傍にある樹の幹を引っ掻いて×印をつけ、さらにその下に『1』という数字を書いた。こうして少し歩いていくごとに数字を書いていけば、迷ったとき元の場所に戻るための目印になる。熊が自分のナワバリを示すために爪で刻む篝と似たようなものだ。
2
俺はそうしてしばらく歩いたが、森の出口はまるで見えなかった。
前につけた目印の場所にいつの間にか戻っている、ということはないので、少なくとも同じ場所を堂々巡りしているわけではなさそうだ。
とはいえ、体力の消耗具合から察するに、もう1時間は歩いている。いくら足場がよくないといっても、俺の足ならもう5キロ以上は進んでいてもおかしくない。
「想像以上に深い森だな。一体どこまで続いてるんだ?」
見知らぬ場所で先の見えない状況に陥り、さすがの俺も少々心細くなってきた。このまま帰れないのではないかという不安もあるが、それ以前にこの森には生き物の気配がほとんどないのだ。樹の枝の上で時折鳴く鳥はいるものの、リスやイタチといった小動物は全く見かけない。熊や猪に出てこられても困るが、ここまで静かだと生きているのが自分だけなのではないかという気持ちにさえなってくる。
俺が今の状況よりも、この場の静けさに不気味さを感じ始めていたそのとき――
「●○▲□▽▼■~~~~ッ!」
突然、森の奥からそれを破る悲鳴が聞こえてきた。
「な、なんだぁ?」
甲高い声は人間の子供のようでもあったが、何を言っていたのかはまるで分からない。やはりここは外国で、人間がいても言葉が通じないのだろうか?
仮に悲鳴の主が何かに追われているのだとしても、それが大型の獣だったりしたら俺にはどうしようもない。俺はそれまで歩いていた道を逸れ、少し坂になった場所に生えた木の陰にとりあえず身を隠した。
「●○▲、●○▲□▽▼■~~~~ッ!!!」
声が大きくなってくると同時に、さらに後ろからバキバキメキメキと、細い枝を踏み折るような音まで聞こえてくる。これは相当重い何かがこちらに向かって来ている証拠だ。
(おいおい、熊どころかサイか象でも走ってくるのか?)
木の陰から覗き込むと、森の奥から巨大な何かが迫ってくるのが見える。それはあまりにも大きく、そして動物ですらなかった。
動く大樹――俺が見たものはそれだった。信じられない話だが、高さ3~4メートルはあろうかという樹が、根っこの部分を蛸の足のように蠢かせながら走ってきたのだ。
「な……!」
よく見ると、動く樹の幹には2つの目や口らしき裂け目があり、そこから牙まで覗いていた。いうなれば人面樹というところか。
さらに俺を驚かせたのは、走る人面樹の少し先を飛ぶ生き物だった。背中から翅の生えた小さな人間――葉っぱで作ったかのような緑の服に身を包んだその姿は、いわゆる妖精というやつだ。
見たところ妖精らしき生き物の体長は15~20センチほどしかなく、まるで人形のようでもある。だが背中の翅を必死に羽ばたかせて逃げ回る様は、まさに生物としか言いようがない。
あまりのことに俺は口を開けたまま言葉を失った。CGでも使わなければあり得ないような光景が、今まさに目の前で繰り広げられているのだ。
(なんなんだよあれは。まるでファンタジーの生き物じゃねえか。ここはいわゆる『異世界』ってやつか?)
目覚めて最初に見た風景よりもさらに現実味のない存在を目の当たりにして、俺はようやく自分の置かれた状況を理解した。つまるところ、ここは別の国どころか別の世界だったのだ。
なんてことだ。日本でないことは覚悟していたが、まさかゲームやお伽噺の中に出てくる異世界とは。
「□▽▼■~~ッ!」
再び妖精が何かを叫ぶ。
理解不能な状況を前に呆けていた俺は、その声で現実に引き戻された。
(……どうする? 助けてやるか?)
親父に様々な武術を仕込まれているとはいえ、こっちは制服姿のまま異世界に飛ばされてきた一介の高校生だ。武器も持たずにあんな化物を倒せるとも思えないし、そもそも縁もゆかりもない妖精なんぞ助ける義理はない。常識的に考えれば、ここは無視すべきだろう。
「■○ーっ!」
妖精は小さな体からは想像もできないほどの大声を出し、懸命に助けを求めている。
あんな姿を見てしまうと、さすがに見殺しにするのは心苦しい。しかし武術の心得があるからこそ、俺には彼我の戦力差がよく分かる。あれは無理だ。
俺がそんなことを考えている間に、妖精はついに人面樹に追いつかれた。幹のちょうど半分ぐらいの高さにある枝がメキメキと音を立てながら伸びてゆき、人間の手のように妖精の体を絡め取る。
「□▽▼■! ●○▲~~っ!」
妖精の顔が恐怖と苦痛に歪む。
(だから、そんな顔をされても無理だって)
「○◎■△! ○◎■△~っ!」
「…………ああもう! しょうがねえ!」
俺は意を決し、木陰から飛び出して坂を駆け下りた。